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あれから、はや一週間。相変わらずヴォルガスト皇国の朝は平穏で、いつも早い。
窓ガラスを薄く覆った氷の結晶を、昇りたての太陽が透かし、寝室の壁に虹色の模様を描き出している。
私はまだ少し冷たい空気の中で大きく背伸びをし、真っ白なコックコートに袖を通した。
『黄金の月桂冠』にいた頃、私のコートはいつも誰かの食べ残しや油汚れを押し付けられ、薄汚れていた。けれど今、私が身に纏っているのは、最高級の綿で仕立てられた、ゼノアス様直属の証である金の刺繍が入った一着だ。
「よし。今日も、最高の食事を作ろう」
自分に気合を入れ、私は足早に厨房へと向かった。
厨房では、すでに総料理長ガラムの下、屈強な料理人たちが作業を開始していた。以前のような刺々しい空気はない。私が「実力」を見せたことで、彼らは私を一人の職人として、そして「ゼノアス様の救世主」として敬意を持って受け入れてくれた。
「おはよう、フェリシア。……おい、今日使う『白銀鮭』も届いたぞ。例の、お前の『独創性』とやらを見せてくれ」
ガラムがエレメンタルアイスを敷き詰めた木箱を指差した。
そこには皇国の北海で獲れたばかりの、見事な銀鱗を纏った鮭が横たわっていた。身は引き締まり、脂の乗りも素晴らしい。
「ありがとうございます。……では、今日はこれをメインに、ゼノアス様の朝食を仕立てます」
私はまず、白銀鮭を三枚に下ろす。
この国の料理人は通常、これを厚切りにして塩を振り、豪快に炭火で焼く。それはそれで素材の味が活きて美味しいのだが、連日の公務で胃が疲れているゼノアス様には少し重すぎる。
私はナイフの先を使い、鮭の身を極薄に、それでいて細胞を潰さないように優しく削ぎ落としていった。
「……ほう、生で出すのか?」
「いえ、少し趣向を凝らします」
私は冷たく冷やした大理石の板の上に、削ぎ切りにした鮭を円形に並べた。大輪の牡丹の花が開いたような形にする。
そこに細かく刻んだ『氷晶ハーブ』と、地元の毒消しにも使われる苦味の少ない渓谷わさびを混ぜた特製のオイルを薄く塗る。
そして、ここからが「フェリシア流」の盛り付けだ。
皿の余白に、私はあえて「何もしない空間」を作った。
聖王国の料理は、皿の隅々までソースや飾りで埋め尽くすのが美徳とされていた。けれど私は、その「余白」こそが主役を際立たせると考えている。
皿の片隅に、黒い岩塩を砂利のように敷き、その上に小さな、けれど生命力に溢れたハーブの芽を植えるように配置する。
最後に、熱々に熱した「柑橘と焦がしバターのソース」を別添えの小さな銀ポットに用意した。
「食べる直前に、この熱いソースをご自身でかけていただくんです。一瞬で身に火が通り、香りが弾けます」
ガラムが、信じられないものを見るような目で皿を見つめた。
「……まるで芸術品だな。食べるのが惜しいほどだ」
「料理は、口に入るまでの物語ですから」
他にも溢れるほどのアイディアが昨日から巡っていた。次々と調理を進めていく。
そして私は満足げに微笑み、トレイを持ってゼノアス様の執務室へ向かった。
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ゼノアス様は、積み上げられた書類を前に、少し眉間に皺を寄せていた。
けれど、私が入室すると、その表情は春の雪解けのように和らいだ。
「フェリシアか。……今日は、また妙な香りがするな。食欲をそそる、爽やかな香りだ」
「はい。本日のメインは『白銀鮭の瞬間昇華仕立て』でございます」
私は静かに一礼し、ワゴンから最初の一皿を取り出す。
「まずは、胃を優しく目覚めさせる冷製の一品です」
それは、雲海を回遊する希少な「天殻貝」の貝柱を、極薄の氷を透かすようにスライスしたものだ。その上には、噛むたびにパチパチと微弱な電気を放ち、神経を活性化させるラバハーブの泡を乗せている。
「……ほう。この貝の甘み、普通は熱を通さないと引き出せないはずだが。ゲホッ」
「貝柱を一度、マイナス四十度の魔導冷却で凍結させ、細胞壁を壊しました。そこに『ラドの息吹』を微量に含んだオイルを垂らすことで、口に入れた瞬間に体温で脂が溶け出すように設計しています」
ゼノアス様が一口運ぶ。
パチッ、と小さな音が響き、彼の瞳に力が宿るのがわかった。
「……驚いた。甘みが爆発した後にハーブの鋭い刺激が脳を叩く。……霧が晴れていくようだ」
続いて供したのは、琥珀色に透き通ったスープ。
その中には、常に浮遊しようとする性質を持つ「気球茸」が、重力に抗うようにスープの中で揺れている。
「このスープの出汁は、通常の水ではありません。皇国の霊峰から湧き出る『魔素を多く含む湧水』をベースに、銀嶺牛の心臓を丸二日、アクを抜きながら煮込んだものです」
私はゼノアス様の目の前で、小さな小瓶に入った「星霜の粉」を振りかけた。
すると、スープの色が琥珀色から深い群青色へと変化し、キラキラとした魔力の渦が巻く。
「見た目の美しさは、脳への最初の報酬です。そして、心臓の鉄分と湧水の魔力が、ゼノアス様の消耗した魔力回路を物理的に補填します」
ゼノアス様は、まるで聖杯を捧げ持つかのようにスプーンを動かした。
「……ああ、熱い。熱が指先まで駆け巡る。フェリシア、君は料理人ではなく、錬金術師に転向したのか? これほどの『調和』は、並の魔導師でも不可能だ。ゲホッ」
そして次は、皇国の極寒を生き抜くために体温が百度を超えるという「炎焔鳥」の腿肉だ。
その熱すぎる肉を、あえて低温の「モズの油脂」でじっくりと煮込み、皮目だけを魔法火で一気に爆ぜさせた。
盛り付けは、私の独創性を最大限に発揮した。
黒い溶岩石のプレートに、深緑の「渓谷の苔」を敷き詰め、その中央に黄金色に焼き上がった鳥肉を鎮座させる。ソースは、真っ赤な「龍血樹」の樹液に、酸味の強いベリーを合わせたもの。
それはまるで、凍てつく森の中に灯る「生命の火」を描いた一枚の絵画だった。
「……食べるのが、罪悪感すら覚えるほどに美しいな」
ゼノアス様は呟き、肉を切り分けた。
断面からは、炎焔鳥特有の、仄かにオレンジ色に輝く肉汁が溢れ出す。
「このソースの渋みが、肉の野性味を抑え、代わりに芳醇な香りを引き立てます。……ゼノアス様、それが、私があなたに捧げる『力』です。さてゼノアス様、どうぞこのソースを、お花の中心へ……」
ゼノアス様がポットを傾ける。
ジュッ、という繊細な音が響き、透明だった鮭の身が、一瞬にして淡い桜色へと変化していく。同時に、バターのコクと柑橘の鋭い香りが部屋いっぱいに広がった。
ゼノアス様は一口、それを運ぶ。
「……っ!」
彼は目を見開き、ゆっくりと、噛み締めるように嚥下した。
「……素晴らしい。外側はふっくらと熱を帯びているのに、芯の部分はまだ冷たく、生のしっとりとした質感が残っている。この温度のコントラストが、退屈していた私の舌を心地よく刺激する……ゲホッ」
「お口に合って良かったです。この山わさびが、血行を良くして頭をスッキリさせてくれますよ」
「……ああ。不思議だな。君の料理を食べると、胸の奥に溜まっていた重たい泥のようなものが、スッと消えていくのがわかる」
ゼノアス様はフォークを置き、私をじっと見つめた。
その蒼い瞳には、以前のような冷たさはなく、熱い信頼の火が灯っている。
「実はな、フェリシア。この国の貴族たちの間で、すでに君の噂が広がっている。……『殿下が、聖王国から宝石のような感性を持つ料理人を連れ帰った』とな」
「えっ……私のことが、そんな風に?」
「今週末、我が宮廷で小規模な晩餐会を開く。そこで、君にすべてを任せたい。……この国の堅苦しい食文化に、君という名の『革命』を起こしてくれないか」
ゼノアス様の言葉に、私の胸が高鳴った。
自分を認め、信じてくれる人のために、腕を振るう。これ以上の幸せがどこにあるだろう。
「謹んで、お引き受けいたします。ヴォルガスト皇国にふさわしい、力強くも美しい宴にしてみせますわ」
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一方その頃、エルグラン聖王国の『黄金の月桂冠』
店内の空気は澱んだ水のようだった。
かつての賑わいはどこへやら、テーブルの半分は空席だ。残った客たちも、不満げに皿を眺めている。
「……料理長! 大変です、ザイード伯爵夫人が『この前食べた時と味が違う』と、お怒りでお帰りになりました!」
給仕の声に、バルトムは真っ赤な顔をして叫んだ。
「うるさい! 材料は同じだ! レシピも私の頭に入っている! 同じように作っているはずだ!」
だがバルトムの手元にあるレシピソースは、分離してボソボソとした塊が浮いている。
彼は知らない。
フェリシアが、その日の湿度や気温、野菜の個体差に合わせて、煮込み時間を数秒単位で調整していたことを。
彼女がレシピには書けない「指先の感覚」で、ソースの艶をコントロールしていたことを。
「クソ……あのドブネズミめ、何か魔法でもかけていったのか!?」
「料理長、それから……。例の新作ですが、社交界で変な噂が流れています。『黄金の月桂冠の盛り付けは、もう古い』と……」
「な、なんだと!?」
「今、流行っているのは……隣国の皇国で話題になっている『余白の美』だそうです。皿の上に景色を描くような、洗練されたスタイル。それが、あのフェリシアという女がやっていることらしいと……」
バルトムの顔から血の気が引いていく。
自分が「無能」と切り捨てたフェリシアが、今や隣国でトレンドセッターになろうとしている。
それは彼にとって死よりも屈辱的な事実だった。
「……許さん。あの女、ただで済むと思うなよ……」
バルトムの瞳に黒い憎悪が宿る。
彼は厨房の隅に隠していた、ある「禁じ手」の毒薬……料理を劇的に美味くするが、依存性を生み、やがて食べる者の身体を壊す『魔薬の香辛料』に手を伸ばした。
「私が負けるはずがない。私は……至高の指先、バルトム様なのだから!」
凋落へのカウントダウンは、すでに始まっていた。
そしてフェリシアの輝かしい伝説もまた、本格的に幕を開けようとしていた。




