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エルグラン聖王国の国境を越える馬車の中で、私は何度も鞄の中の包丁セットに触れていた。
使い慣れた黒檀の柄が、私の指先にしっくりと馴染む。これさえあれば、私はどこでだって生きていける。そう自分に言い聞かせるたびに、冷え切っていた心の奥に小さな火が灯るようだった。
不安はない。亡き父の友人だった、古物商のロンさん曰く、この硬貨は紛れもない本物らしい。さらに、お忍びで来ていた、あのゼノアス王子の出回っている似顔絵も見せてもらったときは「ハッ」とさせられた。
完璧に整えた愛用の調理器具。そして数々のアイディア、研究を行なってきた、マイ研究本。流石に本をすべて持ってくる事はできなかった。調理器具とオリジナルスパイスセットだけで、荷物入れは、はち切れんばかりにパンパンだ。
馬車が北へと進むにつれ、車窓から見える景色は一変していく。
黄金色に輝く麦畑や華やかな花々が咲き乱れる聖王国とは違い、ヴォルガスト皇国の地平を支配しているのは、荒々しい針葉樹の森と、遠くにそびえる冠雪の連峰だ。
風は鋭く、空気は引き締まっている。綺麗な景色だけれど、綺麗の定義が異なっていた。
「……ここが、新しい場所」
まったく不安がないといえば、嘘になってしまう。
そして国境の関所で、ゼノアス様から預かった金の紋章を差し出すと、兵士たちの対応は劇的に変わった。
不審な旅人を見る目は一瞬で消え去り、さらに深刻な密偵を疑うような眼差しで勘ぐられ始めた。しかし、程なくして、本物と判明したのか、彼らは最敬礼をもって私を迎え、用意されていた、贅を尽くされた皇宮直属の魔導馬車へと案内してくれたのだ。
その馬車に揺られること一日半。私は皇国の首都『アイゼンガード』へと到着した。
重厚な黒石で築かれた皇宮は、美しさよりも「強さ」を体現していた。
案内されたのは、広大な厨房の一角。そこは私がいた『黄金の月桂冠』の十倍はあろうかという広さで、数十人の料理人たちが、せっせと、そしてまるで軍隊のような規律正しさで立ち働いていた。か、格が違う……。ドワーフの王宮を再現したかのような設備にも、目を奪われた。
「君が、殿下が連れてきたという娘か」
低い声が響いた。
目の前に立ちはだかったのは、熊のように大柄な男だ。全身に刻まれた無数の火傷跡。鋭い眼光。彼こそが御者から常々聞いた皇宮の総料理長、ガラムだった。
「聖王国の料理といえば、見た目ばかりを飾り立てた、中身のない軟弱なものばかりと聞くが……。あのお方に、妙な毒を盛るつもりではないだろうな?」
「……ど、毒ですか?」
私はガラムの威圧感に気圧されつつも、毅然と真っ直ぐに彼を見返した。やましい事など一切ないのだから。
「私は料理人です。毒を盛るくらいなら、自分の腕を切り落とします。それに、見た目を整えるのは、食材への敬意と、食べる方の心を浮き立たせるための『礼儀』です。中身がないかどうかは、召し上がってから判断していただけませんか?」
料理人たちは腕を止めないが、こちらを伺い、厨房の空気が凍りつくのをヒシヒシと感じた。若造が初日早々総料理長に意見したのだ。けれど私はもう、自分の料理に誇りを持ちたかった。
ガラムは一瞬、目を剥いたが、やがて鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「威勢がいいな。ならば、今この場で証明してみせろ。殿下は今日、公務の疲れで食欲がないとおっしゃっている。……私のメニュー中に、何か一皿加え、殿下の口に合うものを作ってみろ。できなければ、今すぐこの門から叩き出す」
与えられた時間はたった三十分。
私は深く息を吸い、厨房の食材棚へと向かった。
棚には、聖王国では見かけない力強い食材が並んでいた。
身の引き締まった野生の山鳥、泥のついた大ぶりな根菜類、そして独特の香気を持つ山羊の熟成チーズ。でもリンゴを齧りながら手に入る料理本を、夜な夜な部屋で一人読み漁っていた私にとって、なんの障害でもなかった。寧ろ、腕がなるというもの。
(今のゼノアス様に必要なのは、華美なご馳走じゃない。身体を芯から温め、感覚を呼び起こすような、鮮烈な一皿……)
私は迷わず、一本の『霜降り根』を手に取った。
この国の厳しい寒さに耐え、甘みを蓄えた特産の根菜だ。
まずは愛用の包丁を濯ぎ、すぐに走らせる。
皮を厚めに剥き、緻密な繊維を断ち切るように五ミリ角のダイス状にカット。
熱した銅鍋に、マイブレンドのハイブリッド燻製バターを落とす。香りは濃厚に、しかし味はマイルドにと、絶妙なベストマイ配分だ。シュワシュワと泡立ち、ナッツのような香ばしい香りが立ち上った瞬間、霜降り根を投入。
ジッ、という小気味いい音が、私の五感を研ぎ澄ませていく。
強火で表面にキャラメル色の焼き色をつけ、甘みを凝縮させる。そこに注ぐのは、山鳥のガラから取った澄んだ黄金色のスープ。
煮込んでいる間に、別の小鍋で『深紅のベリー』と黒ワインを煮詰め、酸味を効かせたソースを作る。
料理人たちの視線が、私の手元に集まるのがわかった。
彼らは驚いているようだった。素材をただ煮るのではなく、焼いてから煮る、あるいはソースを何層にも重ねるという、聖王国の「繊細な技巧」が目の前で展開されているのだから。
「仕上げです」
私は温めた黒い陶器の皿に、濃厚なスープを湛えた根菜のリゾット風を盛り付けた。
その上に、極薄にスライスし、サッと炙っただけの火月鳥の胸肉を、まるで冬に咲く花の蕾のように重ねる。
仕上げに、先ほどの深紅のソースを点々と滴らせ、最後に雪に見立てたスノーチーズを、目の細かい、聖樹木おろし金でふわりと散らした。
黒い皿の上に浮かび上がる、赤と白のコントラスト。
それは、厳しい冬の平原に、春の兆しを見つけたような、そんな景色を再現した。
「……名は?」
ガラムが唸るように尋ねた。
「『残雪の目覚め』です。冷えた身体を温め、酸味で胃を動かします」
出来上がった料理は、すぐに一皿として添えられ、ゼノアス様の待つ執務室へと運ばれた。
ガラムと私は、扉の外で結果を待つ。
数分後、毒見兼給仕が出てきた。その盆の上に乗っていた皿を見て、ガラムが目を見開く。
一滴のソースも、一片の根菜も残っていなかった。
「完食だ……。殿下が、この数ヶ月で初めて、すべての皿を空にされたぞ……!」
扉が開かれ、中からゼノアス様が姿を現した。
その顔色は、数日前に出会った時よりも、心なしか艶を帯びているように見えた。
「フェリシア。……やはり、私の目に狂いはなかった」
彼は私の方へと歩み寄り、その長い指先で、私の頬についた僅かな粉糖(あるいはチーズの粉)を優しく拭った。
「敢えて給仕には伏せさせたが、鳥肉と根野菜。あの一皿を食べた瞬間、凍りついていた私の舌が、春の日差しを受けたように震えた。……君の料理には、食べる者の命を呼び覚ます力がある。失いかけていた食欲が戻ってきた気がする。そしてガラム。君の料理も相変わらず美味いな。最高のコントラストだった」
「恐縮です」
「もったいないお言葉です、ゼノアス様」
「ガラム。彼女を今日から、私の専用料理長として任命する。異論はないな?」
ガラムは、まだ信じられないといった様子で空の皿を見つめていたが、やがて潔く頭を下げた。
「……はい。このガラム、己の無知を恥じ入るばかり。嬢ちゃん……いや、フェリシア。君の腕は本物だ。私の料理に合わせるどころか、引き立ててすらやってのけてしまった。これは腕があるというレベルではない。その『盛り付け』も、単なる飾りじゃない。味を引き立てるための、サピエリス(食の女神)の如き完璧な計算だ」
べ、ベタ褒め……。
私は胸を撫で下ろした。
新しい場所で、最初の一歩を、いや百歩を踏み出せたのだ。
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一方その頃。
私の去ったエルグラン聖王国の『黄金の月桂冠』では。
「……なんですの、このソースは! ドブ川のような泥色にそぐわぬ不味さではないですか!」
バルトムの怒号が厨房に響いていた。
彼が自信満々に公爵夫人に差し出した「瑞雲鹿の新作ソース」は、私が調整を放棄したことで、見るも無惨な姿に変貌していた。
「も、申し訳ありません。すぐに変わりを御用意致します!」
しかし厨房はさらに阿鼻叫喚な状態だった。
「ダメです、料理長! フェリシアがやっていた手順を再現しているのですが、どうしても同じ味にならず……」
「ええい、無能どもめ! 今日は定番の既存コースで濁す。明日までに直せ! いいか、明日までにだ! 私の、至高の指先の名に傷をつかせるわけにはいかん!」
バルトムはまだ気づいていない。
自分が盗んできたものが、実は繊細なガラス細工のように、私という「職人」のメンテナンスなしには形を保てないものだったということに。
そして、一度失われた信頼という名の料理は、二度と透き通ることはないということに。
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私はアイゼンガードの窓から、美しくも厳しい夜景を見下ろす。
今頃、大変なことになっているのは、想像に難しくない。バルトムさん。せいぜい、あなたの腕で、どれだけその異名や偽りの功績が持つのか。休憩の菓子を摘むように、見ているわ。
私は自分の努力の結晶で掴み取ったこの温かい厨房で、明日からまた、新しい物語を煮込んでいく。




