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厨房の熱気は時に刃物よりも鋭く肌を焼く。
もうもうと立ち込める蒸気と、幾重にも重なる芳醇なソースの香り。ああ、戦場のような喧騒の中で、私はただ一心に、目の前の銀皿へと意識を研ぎ澄ませていた。
「フェリシア! まだか! 公爵閣下をお待たせするつもりか! さっさとやれ! この薄鈍め!」
背後から飛んできた怒声は、私の雇い主であり、このエルグラン聖王国で「至高の指先」と称えられる料理長、バルトムのものだ。
私は返事をする間も惜しみ、銀のピンセットを動かす。
「……最後の一片です。上がりました」
差し出した皿の上には、既存の宮廷料理の概念を覆す光景を広がらせた。
メインは、北方の高地でしか獲れない希少な『瑞雲鹿』のロース肉。それをただ焼くのではなく、低温の香草オイルでじっくりと火を入れ、仕上げに表面だけを高温の炭火で一瞬だけ煽る。
断面は、まるで濡れたルビーのような艶やかな紅色。
その横には、透明な雫のように固めたバルサミコのジュレと、純白のカリフラワーを雪のように細かく削り出したムース。さらに、この国では雑草扱いされていたカズナ野草の芽を、独自の処理で鮮やかなエメラルドグリーンのソースに変え、皿の縁に一筋の流星のごとく走らせた。
それは料理という名の、一幅の絵画だ。美しい。
「ふん、相変わらず無駄に凝りおって……。食べればどれも同じだ。間抜けめ」
バルトムは鼻を鳴らし、私の手からひったくるように皿を奪うと、そのまま給仕に渡すことなく自ら客席へと向かった。
その際、彼は私の耳元で、粘りつくような声で囁いた。
「忘れるなよ。これは私が『考案』し、お前はただ言われた通りに動いた『作業員』に過ぎないということをな」
胸の奥が、冷たく冷えていくのを感じた。
あのお肉の絶妙な火入れを見つけるまで、私は三日三晩、寝る間を惜しんで厨房の隅で実験を繰り返した。あのソースの鮮やかさを保つために、どれだけの配合を試したか。
けれど、この店『黄金の月桂冠』において、私の功績はすべてバルトムのものになる。それが、名もなき新人シェフである私に課せられた「教育」という名の搾取だった。
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一時間後。
ホールから戻ってきたバルトムの顔は、これまでにないほど上機嫌に歪んでいた。
「素晴らしい! 公爵閣下はあんなに驚かれた顔を初めて見せたぞ。あんな斬新な盛り付け、このバルトムにしかできぬ芸術だと絶賛された!」
イエスマンの取り巻きの料理人たちが「さすが料理長!」「歴史に残る創作料理です!」と拍手を送る。
その輪の外で、私は黙々と大切なマイ鍋を磨いていた。
私のレシピ。私の技術。私の感性。
それが他人の名声として消費されていく。その虚しさに耐えるのも、もう限界だった。
「……料理長。先ほどの瑞雲鹿の料理ですが、せめて私の名も副料理人として……」
勇気を振り絞って出した声は、バルトムの冷酷な一言にかき消された。
「黙れ! フェリシア。お前のような女ごときが、料理人の端くれとしてここに居られるだけで、この私がどれだけ寛大なのか、理解していないのかね?」
バルトムは、界面変成液(錬金食器洗剤)で磨き上げたばかりの、私の鍋をわざと界面変成液の青い泡が立つシンクへ乱暴に滑り落とした。他の洗いかけの調理器具にぶつかり、鋭い金属音が激しく厨房に響き渡り、一瞬で静寂が訪れた。私の顔や腕、服にも泡が飛び散っていた。
「お前がやったのは、私が教えた基礎をなぞっただけだ。それをさも、自分の手柄のように語るとは、はっ! 恥を知れ!恥を! 無能なくせに自己主張だけは一人前か。……まったく、反吐が出るな。これだから女は」
「無能……? 私が、ですか?」
「そうだ。お前は今日限りでクビだ。消えろ。この店に、身の程をわきまえず、嘘つきの女シェフなどいらん。お前の代わりなど、そこらの市場で雇える下働きで十分だ」
周囲の料理人たちは、誰も私と目を合わせようとしない。昨日まで私の試作品を「教えてくれ」とせがんでいた者たちでさえ、今はバルトムの顔色を伺って冷笑を浮かべている。
……ああ、そうか。
この場所には、もう私の居場所も、私の愛した料理の尊厳もなかったのだ。この国は好きだった。幼い頃の色々な思い出もある。でも……。
「わかりました」
私は静かに、けれどはっきりと言った。
エプロンの紐を解き、使い古した自分の調理器具を、汚れたまま、濡れたまま入れ、最後に、亡き両親がくれた包丁セットを鞄に詰める。この包丁だけは、命に変えても決して触れさせるつもりはなかった。
「クビなんて必要ありません。こちらから辞めさせていただきます。ただ、一つだけ忠告です。あの瑞雲鹿のソース……酸化が早いんです。私の配合と管理で常に調整していなければ、一日と持ちませんよ」
「ハハハ! それが精一杯の脅しのつもりか? そんなもの、私の素晴らしい経験があればどうとでもなる。さあ、話は終わりだ。そのしょぼくれた包丁を持って、さっさと失せろ、このドブネズミが!」
背中に罵声を浴びながら、私は厨房の勝手口を出た。
外は、皮肉なほどに美しい月夜だった。
確かな行き場なんてない。貯金もわずかだ。両親が小さな店を構えて過ごした故郷を離れる。
けれど、不思議と心は軽かった。もう誰かに自分の魂を盗まれることはないのだ。両親も私の旅立ちを喜んでくれるに違いない。
私は夜風に吹かれながら、ひとまず街外れの安宿を目指して歩き出した。
しばらく後……。
周囲の店から漂ってくる芳醇な料理の香り達。
このお店は、アラドアの配分が少し多すぎるわね。酸味が目立ってしまうわ。
こっちは材料の組合せが惜しいわね。カラドとラーマの組合せは良い案だけど、ソースにするにはまだ、組合せ不足だわ。奥行きがなくて、寂しい味になってしまう。でも、このセンスは凄いわね。これから改善していったら、きっと有名なお店になるはず。
――その時だった。
「……み、見つけた! やはり、あの至高の皿を仕上げたのは貴女だったか!」
暗がりの街角に、一台の馬車が急停車した。
装飾は控えめだが、その造りからは隠しきれない高貴さが漂っている。馬車の傍らに立つ男は、深く被ったフードの間から、鋭くも知性的な瞳で私を見つめていた。
その瞳の色は、夜空よりも深い蒼。
この国、エルグラン聖王国では見たこともない、異国の気配を纏った男だった。だか、あ、怪しい……。
「ど、どちら様……でしょうか?」
私は包丁の入った鞄を強く握りしめた。万が一のときは……。
男はゆっくりとフードを取り、月光の下でその端正な顔を晒した。
「失礼した。私はゼノアス。隣国、ヴォルガスト皇国の者だ。……君が、あの傲慢な料理長に追い出されるところを、偶然部下が目撃してしまってな」
ゼノアスと名乗った男は、私の方へ一歩歩み寄る。私は身構える。
「君の料理を、先ほど客席で頂いた。……本当に驚いたよ。食材への深い敬意、そして既存の枠に囚われない色彩の爆発。あの店で、唯一『生きた』料理を作っていたのは君だったのか! ずっとあの料理長には引っかかっていたんだ。いや〜、素晴らしい腕だ!」
この人、一人で盛り上がってる。嬉しいけど、圧が凄い。
「……あんな料理長の手柄にされたものを、見てくださっていたんですか?」
鼻の奥がツンと熱くなる。
初めて正当に評価された。それも私がすべてを失った直後に。
「フェリシア。……君さえ良ければ、私の国へ来ないか? 我が国は実力主義だ。性別も経歴も身分も一切関係ない。私は、君のあの奔放な独創性を、我が国の宮廷に迎え入れたい」
「皇国の、きゅ、宮廷……!?」
ますます怪しい。こんな奇跡が、都合よく起きるものなの!?
「そうだ。今、この場で返事を、とは言わない。だが、あのような男に才能を枯らされるには、君の腕はあまりにも惜しい。他の者にもだ」
ゼノアスはそう言って、細工の美しい金のコインを私に差し出した。
「それは我が国の通行許可証を兼ねた紋章だ。気が変わったら、国境の関所で見せるといい。君を最高礼遇で迎えよう」
差し出されたコインを受け取ると、微かに体温のような熱を感じた。でも平民の私が持ってるだけで、盗んだと誤解されるかもしれない……。
遠くの『黄金の月桂冠』からは、まだバルトムたちの笑い声が聞こえてくるような気がする。私の功績を切り刻んで、それを食べながら私腹を肥やしあざ笑っている。でも目の前の異様な出来事。彼らはまだ気づいていない。自分たちが、この店を支えていた唯一の「心臓」を切り捨てたことに。
「……ありがとうございます、ゼノアス様」
私は深く、深く頭を下げた。
顔を上げた時、私の瞳にはもう迷いはなかった。
「私は、自分の料理を必要としてくれる場所で、幸せになります。……あんな場所には、二度と振り返りはしません。返事はすぐに出します」
こうして私は、住み慣れた祖国を捨て、新たな天地へと足を踏み出す決意を固めた。
後に残されたバルトムが、自分の無能さに気づき、絶望のどん底へ叩き落とされる日が来るのを、今の私はまだ知らない。
そして、この冷徹なまでに美しい王子が、私の料理なしでは生きていけない体であるということも。
私の人生が、大きく変わる予感がした。




