第200話 非日常感、長い一日
博士の部屋には鍵がかかっていたから、俺の部屋に運び込んだ。
ポケットでも探れば見つかるかもしれないけれど、意識がない女性の体をベタベタ触るわけにもいかない。
それに泥酔状態の博士を一人で放り出しておくのも心配だ。
服を脱がせることもできないから、ベッドにタオルを敷いて、その上に博士を横たえる。
(掛け布団はどうしよう)
部屋にあるタオルは全部使ってしまった。
ホテルマンに頼んで持ってきてもらおうか。
そう思ったけれど、考えてみたらこのホテルのオーナーは博士なのだ。
自分の私物にマーキングするのは問題なかろうと、そのまま布団を掛けた。
俺はささっとシャワーを浴びて、他に着替えがなかったからバスローブを身に纏う。
この部屋はツインルームだからベッドはもう一つあるんだけど、俺まで眠りこけたら博士を俺の部屋に運んだ意味がない。
ソファをベッドサイドまで移動させて、そこに腰掛けた。
そして博士の様子をたまに確認する。
他にやることはないから、俺はソファに深く腰掛けてぼーっとした。
特に苦痛は感じない。
退屈を楽しめないならキャンパーなんてやっていられない。
部屋の電気は全部消してあり、隅に置かれたランタンを模した卓上ライトだけを点けていた。
使われているのはLEDだろうけど、本物の火のように揺らいでいる。
俺は夜目が利く方だけど、部屋の至る所に暗闇が蟠っていた。
そんな部屋の様子を、俺は見るともなしに眺めていた。
(ああ、なんか懐かしいな、この感覚……)
なんだったかなと考えて、まだ十代半ばだった頃、キャンプをする度に味わっていた感覚だと思い当たる。
心地良さと穏やかな高揚を内包した非日常感。
キャンプ生活が当たり前になりすぎて、久しく忘れていた。
むしろホテルに泊まるとこういう感覚になるんだなと、ちょっとした発見がある。
まあ一人でホテルに泊まっても、こうはならない気がするけれど。
ともかく十代半ばの俺がそうしていたように、心地のいい非日常感に身を任せた。
そのまま数時間が過ぎた頃、博士がガバリと起き上がった。
死人のような顔色をしている。
うつらうつらしていたこともあって、本当に死人が動き出したのかと思った。
「……水」
ガラガラに枯れた声で博士が言う。
「あ、はい」
俺は備え付けの冷蔵庫に向かい、ミネラルウォーターを手に取った。
キャップを開けてから手渡すと、博士は一息に八割ほどを飲み干した。
「だ、大丈夫ですか?」
「……大丈夫に見えるか?」
「意識もはっきりしてるみたいだし、返事もちゃんと出来てるから、大丈夫そうですね」
「戦場にいんのかお前。大丈夫のラインが怖えんだよ」
博士は緩慢な動きでベッドから降りた。
俺が何かを言う前に、
「トイレ、あとシャワー」
と簡潔に言う。
三度目の博士のシャワー待ちだった。
しばらくすると、博士が洗面所の扉の隙間から、片目だけを覗かせる。
「……タオルは?」
「ああ」
そうだ、タオルは全部使ってしまったのだ。
「博士の部屋から持ってくるので、鍵貸してもらえますか」
「…………」
扉が一度閉じられ、すぐにまた開く。
その隙間から鍵が放り捨てられる。
壁に当たってチリンと甲高い金属音が響いた。
それを拾い、博士の部屋にタオルとバスローブを取りに行った。
扉の前に置こうかとも思ったんだけど、ホテルの床に直置きするのは抵抗がある。
俺は扉をノックした。
「持ってきましたよ」
アルコールのせいで、あるいはアセトアルデヒドのせいで、頭が回っていないのだろう。
タオルとバスローブを受け取るために、博士は扉を大きく開いた。
俺は慌てて視線を逸らす。
しばらくすると、バスローブ姿の博士が洗面所から出てくる。
そのままベッドに戻ろうとするから、
「あ、そっち使ってください」
と俺は使われていない方のベッドを指差した。
「…………」
俺の言葉を脳が処理するのに時間がかかったみたいで、しばらくフリーズしてから、博士は言われた通りに新しいベッドに顔から倒れ込む。
それからもぞもぞと蠢いて布団に潜り込もうとしていたが、掛け布団の上に倒れ込んだせいで、全く上手くいっていなかった。
アスファルトを必死に引っ掻く瀕死のモグラみたいで見ていられなかった。
「もう、博士」
俺は博士を抱き上げ、布団の中に入れる。
その際に仰向けにさせたんだけど、博士は元々うつ伏せで寝るタイプなのか、酔っている時はそっちの方が楽なのか、猫みたいに体をくねらせてうつ伏せに戻った。
それから俺をチラッと見て、ゴニョゴニョと何かを呟く。
俺は顔を近づける。
「なんですか?」
「……お前も寝ろ」
まだ夜中だし、博士も大丈夫そうだ。
確かに俺もちょっと眠りたい。
「そうですね」
博士が使っていた方の布団をめくって、敷いていたタオルを全部どかす。
それからベッドに潜り込んだんだけど……。
(うっ、めちゃくちゃ湿気てる……)
生暖かい。
どうして湿った布団は、こうも気持ちが悪いのだろう。
これなら床で寝た方がマシかもしれない。
そう思っていると博士が、
「おい」
と声をかけてきた。
それからパタパタと自分の布団を力なく叩く。
何事かを呟いていたけれど、まるで聞き取れなかった。
「え?」
もう手を持ち上げる力もないみたいで、今度は指先だけで布団を叩いた。
「俺もそっちで寝ろってことですか?」
博士が微かに頷いた。
確かに博士からしても、こっちのベッドを使われるのは嫌だろう。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
もう博士は何も言わない。
身じろぎもしない。
意識があるのかどうかも不確かだった。
俺はそんな博士の横に潜り込む。
(……なんだこの状況?)
どうして俺は、博士と同じ布団で寝ているのだろう。
シングルベッドで、博士が真ん中に陣取っているせいで、どうしても密着せざるを得ない。
しかもお互いにバスローブ姿だ。
スースーと博士の寝息が聞こえる。
いやそれどころ——
博士の吐息を首筋に感じる。
戸惑いと張り詰めた緊張を内包した非日常感。
こんな状況で眠れるわけもない。
そう思ったんだけれど。
俺も疲れていたのだろう。
すぐに瞼が重くなって、一分も保たずに眠りに落ちていた。
思い返すと、本当に色々とあった。
別世界人に殺されそうになったり、オランダの軍隊と揉めそうになったり、ヒグマみたいな看護師さんに説教されたり、別世界人と食事を共にしたり、博士に二回もおしっこをかけられたり。
長い一日だった。
今はゆっくりと休もう。




