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第192話 なんでかけた側が先に

 どこの部屋を使ってもいいという話だったから、俺は一番グレードの低い部屋を選んだ。

 窓から見えるのは、薄汚れたブロック塀だけだ。

 その向こうは駐車場のようで、エンジン音とタイヤがアスファルトを擦る音がする。


 地面を覗き込むと雑草が伸び放題になっていた。

 みたことのないスナック菓子の袋が土に半ば埋まっている。

 部屋の中もどこか埃っぽい。


 経営難だから細かいところにまで手が届かなかったのか、細かいところまで気配りできないから経営難に陥ったのか。

 まあそういう時は大抵、相乗効果の悪循環だったりするものだ。

 イジメられたことが原因で人を避けるようになって、気づいた時にはダンジョン深層でソロキャンプするようになっていた俺がいうのだから間違いない。


「なんでわざわざこの部屋なんだよ」


 博士が呆れたように言う。


「俺にとっては、こっちの方が落ち着くんですよ」

「あっそ」


 まあ高級ホテルなだけあって、部屋は広いし調度なんかも豪華なんだけど。

 でもこういうのは結局のところ、心理的な問題だったりする。

『部屋が実際に豪華かどうか』よりも『ここがホテルで一番グレードの低い部屋』という事実が重要なのだ。


「先にシャワー浴びさせてもらうぞ」

「あ、どうぞ」


 反射的に返事をしてから「ん?」と疑問に思う。


「博士もこの部屋を使うんですか?」

「当たり前だろ、観光に来てんじゃねえんだぞ。同じ部屋じゃなきゃ話し合いもできねえだろ」

「それはまあ、確かに」

「それに」


 博士は洗面所の前で立ち止まり、こちらを振り返った。


「私のこと、守ってくれるんだろ?」


 その通りだ。

 同じ建物の中に言語も文化もわからない別世界の住人がいる。

 博士には、俺の手の届く範囲にいてもらわないと困るのだ。


「もちろん」


 俺がそう答えると、博士は興味なさそうに鼻を鳴らして洗面所に入った。

 しばらくして、シャワーの音が響いてくる。

 俺は手持ち無沙汰で、部屋の中でぽつねんと佇んでいた。


 今さっき『博士を守るには手の届く範囲に』とか考えたばかりだから、部屋を離れるわけにもいかない。

 かといってズボンが乾き切っていないから、ベッドに横になることにもソファに座ることにも抵抗がある。

 俺はただただシャワーの音を聞きながら、じっとしているしかなかった。


(二度目だな、博士のシャワー待ち)


 あの時は俺が博士におしっこをかけてしまったわけだけど。


(……なんでかけた側が先にシャワー浴びてるんだ?)


 おしっこ界隈には詳しくないけれど、というかそんな界隈があるのかも知らないけれど、普通はかけられた側が先に浴びるものなんじゃなかろうか。

 いやまあ全然いいんだけど。

 ただ博士があまりにも飄々としてるせいで、土下座待機し、高さを調節できるタイプの椅子としての自我を育(はぐく)み、あまつさえ生殺与奪の権まで明け渡した俺がまるでアホみたいだ。


(やっぱりあれか、顔にかけちゃったのが……)


 やはりそこが大きいのだろう。

 というか当たり前の話だ。

 せめて生殺与奪の権を半分だけでも返してもらえたら、なんて考えていたけれど、とんでもない。

 下半身を濡らされた程度のことは、なんの贖罪にもならないのだ。


 なら俺が博士から生殺与奪の権を返してもらうには、俺も顔におしっこをかけられるしかないのかもしれない。

 でもそんなことが起こるだろうか?


 俺と博士には身長差がある。

 その上で、博士が便座に腰掛けていたから起きた惨劇だ。

 同じシチュエーションで立場が逆だったとしても、博士のおしっこが俺の顔に届くことはないだろう。


 というかそもそも女性は立っておしっこをしないわけだし……。

 偶発的な事故で博士のおしっこが俺の顔にかかることなんてない気がする。

 それこそ俺が椅子としての本領を発揮している時に博士が漏らすとかしない限りは——


「おい!」


 足を蹴られて、俺は我に帰る。

 博士が目の前にいた。


「え? なんですか?」

「なんですかじゃねえよ。何度も話しかけてんのに無視しやがって」

「あ、すみません。考え事してて」


 博士はバスローブ姿だった。

 着替えなんて用意していないから、当然と言えば当然なんだけど……。

 濡れた髪と上気した肌。


 前回は土下座していて、床ばかりを見つめていた。

 だから風呂上がりの博士を見るのは、これが初めてだった。

 ここがホテルの一室で、二人きりであることを急に意識する。


「んだよ、まじまじ見やがって」

「あ、すみません」


 慌てて視線を逸らす。

 目が泳ぐのが自分でもわかった。


「で、何を考えてたんだよ。話しかけられても気づかないくらい真剣に。別世界のことか?」

「あ、いえ、博士のことです」

「私?」

「どうしたら顔におしっこかけてもらえるのかなって」

「はぁっ!? なん、な、なんで——」


 しまった、動揺して変なことを口走ってしまった。

 部屋から蹴り出されて、結局俺は博士と別の部屋を使うことになった。

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