冷え切った朝に、体温ひとつ
夜明けの光は極めて淡い青冷徹な色を帯び、埃ひとつなく磨き上げられたリビングのガラス窓を音もなくすり抜けて、床の上に斜めの柔らかな帯を切り取っていた。
窓の外、街の早起きな塵が朝靄の中で緩やかに漂い、古びた電信柱の向こうから微かな雀の囀りが途切れ途切れに届いて、室内の静けさを一層際立たせている。
リビングからは昨夜の息の詰まるような濃い酒気配は消え失せ、ただ珪藻土の壁が放つ微かな乾燥した清香と、キッチンの蛇口からごく稀に滴り落ちる硬質な水音だけが残されていた。
ローテーブルの上の夕暮れ色のスタンドライトはとっくに消え、シダ植物の瑞々しい緑の葉が朝の微風に小さく揺れている。
ソファの上でエヴリンが身を翻し、毛布が腰元まで滑り落ちた。頬の赤らみが引いたあとの彼女の顔には、普段滅多に見せることのない安らぎが浮かんでいた。
そしてリビングで最も光の届かない部屋の隅、上がり框とフローリングが交わる暗がりの中で、ルルカは小さく丸まっていた。
彼女は座り心地の良いソファに上がることも、カーペットの上に横たわることすらせず、ただ洗い晒されて色褪せた古いオーバーコートを固く身に纏っていた。
銀灰色の細長くしなやかな毛尾が痩せた体をぐるりと一周取り巻き、天然の毛布のように、その薄い胸元と口元をふかふかとした温もりの中に隙間なく護り包んでいる。
ただ、尾の先端にあるあの手爪のように白く、鋭く突き出た骨刃だけは、壁の死角へ極めて慎重に収められ、幅木からわずか数センチのところで宙に浮いたまま静止していた。熟睡していても、塗り立ての壁に触れることすらなかった。
少女の耳先は垂れ下がり、規則正しく浅い息を立てている。それは塹壕や冷え切った収容所では決して持ち得なかった、完全な脱力だった。
しかし、その脆い安寧は、朝の光が黄金色を帯びた瞬間にあっけなく引き裂かれた。
ピピッ――ヴン。
ローテーブルの上に置かれていた、黒曜石のように目立たない鈍色の金属ブロックが、前触れもなく高周波の唸りを上げた。
幾何学的なエッジが一瞬にして刺すような赤の警戒光環を帯び、まるでルービックキューブが解体されるかのように外側へと幾重にも浮遊展開し、蝉の羽のように薄い幾枚もの光学投影チップへと分裂する。
薄青の立体ホログラム映像が破片の中心から立ち上がり、防護服を纏った男性研究員の焦燥に満ちた顔が空中に圧縮投影された。背後には激しい警報の雑音が混じっている。
『エヴリン主任! 第三外郭防衛線のB7放水幹線で浸食管湧が発生しました!』
男の声は徹夜明けの嗄れと混乱に満ちており、映像の奥には赤い非常灯が明滅しているのが見えた。
『地下の岩盤層が食い破られました! 溢れ出してきた下位妖物の数が想定を遥かに超えています! 第二梯団の重装防衛型と戦列兵器がすでに封鎖に向かいましたが、奴らの甲殻が厚すぎる上に機動性が高すぎます。防衛線がすでに三箇所突破されました――手元に強襲型の生体兵器が足りません!』
通信の向こう側の語気は、ほとんど哀願に近かった。
『そちらに収容されている生体兵器は……この管区で唯一、高機動強襲機能を保持している個体です。司令部より即時出撃要請が出ました!』
エヴリンは、金属ブロックが解体され最初の唸りを上げた瞬間にすでに飛び起きていた。
二日酔いは抜けておらず、錆びた鑿で頭蓋骨を殴りつけられたような激痛がこめかみに走る。女は片手で額を押さえて起き上がり、乱れた淡い青の髪を肩に散らした。
その瞳には徹夜明け特有の赤い血走りが張り付いている。
彼女は空中に浮かぶ緊急招集命令に目をやることもせず、ただ取り乱した部下を氷のように冷たい視線で一瞥した。
通信の光が、薄暗いリビングで明滅を繰り返す。
エヴリンの視線は光と影の境目をなぞるように、部屋の隅で小さく丸まるあの影へとゆっくりと落ちていった。
差し込んできた朝の光が、その華奢で小柄な体を薄く照らし出していた。昨夜血泥を洗い流した古いコートはどこかぶかぶかで、十五歳の子供が持つべき脆さと痛々しさを包み隠している。
床を傷つけまいと細心の注意で丸められたあの骨刃だけが、朝光を浴びて凍てつくような冷刃を晒していた。
強襲型。
よくもまあ、軽々しくそう吐き捨てられたものだ。
オフィスでふんぞり返る上層部の連中にとって、それは損害評価報告書の上に並ぶただの識別コードに過ぎない。
最前線に突っ込む肉の矢尻であり、自らの骨肉で重装甲を砕き、心臓の魔核を限界まで酷使する生身の破城槌であることを意味している。
泥の中からこの傷だらけの怪物を背負って連れ帰ったばかりだというのに。
この子はまだ、温かい朝飯の最初の一口すら味わっていない。その骨には、昨夜の熱いシャワーで温められたばかりの温もりが残っているはずなのだ。
重苦しく苦い哀愁が、無能な体制への激怒と綯い交ぜになり、冷たい泥水のようにエヴリンの胸の奥底を満たして息を詰まらせた。
彼女は自分の指先を見つめた。そこには昨夜少女を背負った時の、肋骨のゴツゴツとした硬い感触がまだ焼き付いているようだった。
あの忌々しい通信ブロックを叩き割ってやりたかった。端末の向こうへ怒鳴り散らし、毛布を引き上げて、隅に縮こまるこの子供を世界のすべてから隠してしまいたかった。
だが、端末のアラートは一層甲高さを増し、二度目の督促指令が赤黒いカウントダウンとなって天井に投影され始めている。
出撃させなければ、軍命違反の果てにルルカは「管理不能・統制無効」と見なされ、そのまま焼却炉のプラズマの炎へ投げ込まれるだけだ。
現実というものは、怒りに身を任せる余地すら与えてくれない。
エヴリンは下唇をきつく噛み、奥歯を鳴らして深く息を吸い込むと、胸に込み上げる酸鼻と無力感を喉の奥へ押し戻した。
彼女は毛布を跳ね除け、冷え切ったフローリングに裸足で音もなく降り立った。部屋の隅へと歩み寄り、静かに膝を折ると、かすかに震える青白い指先を伸ばし、そっと、どうしようもない諦念を込めて、少女の冷たい細い肩へと置いた。
「……ルルカ」
女の声はひどく嗄れ、酒気と隠しきれない重苦しさを帯びていた。
「起きなさい……仕事よ」
肩に微かな沈み込みを感じた時、ルルカは塹壕にいた時のように飛び起きることはしなかった。
彼女の覚醒はひどく緩慢で、まるで濃密な蜂蜜の底に沈んでいた意識を、途方もない力で少しずつ引き上げていくかのようだった。
長年張り詰め続けていた神経中枢は、昨夜のあの熱い湯と、澄んだ空気、そして硝煙の臭いのしない部屋によって、信じられないほど完全に弛緩しきっていたのだ。
十五年の生涯で、これほど深く眠ったのは初めてだった。骨の髄の軋みすら、心地よい怠惰の鈍痛へと溶け落ちていた。
銀灰色のまつ毛が微かに震え、薄霧を纏った琥珀色の瞳がゆっくりと開かれる。
射し込んできた朝の光が少し眩しかった。少女は一瞬だけ呆然としたように耳先をだらりと垂らし、目の前にしゃがみ込む淡い青の髪を散らした女の顔を数秒見つめた。
あまりに穏やかで不条理な夢の余韻から、まだ抜け出せていないようだった。
だが、空中で回転しながら赤いカウントダウンを刻む浮遊金属ブロックが視界をよぎった瞬間、背骨の髄に刻まれた非人のプログラムが、すべての温もりを一瞬で凍りつかせた。
体の脇で緩やかに丸まっていた銀灰色の毛尾が張り詰め、尾の先端にあるあの手爪のような白い骨刃が、無音で数センチほど外側へと展開して、冷たい幾何学的な光を放った。
「……戦闘?」
ルルカは渇いた唇をかすかに動かし、目覚めの最初の一言を零した。
その声はあまりに低く、静まり返っていた。起きたばかりの子供が漏らすような甘えや愚痴はなく、死への恐怖すら微塵も滲んでいない。
それはただの確認だった。通電を待つ工場の旋盤が、今日の始動シグナルを淡々と確かめるような、日常の一部としての問いかけ。
その底知れぬ平坦な問いが、研ぎ澄まされていない鈍刀のようにエヴリンの胸を無残にえぐり取った。
女の指先が激しく震えた。少女の瞳に残る眠気と無垢な名残を見て、胸が詰まり、目頭が熱くなって涙が零れそうになる。
この子の頭を抱き締め、今日はどこへも行かなくていい、冷蔵庫には牛乳があるし、日が昇ったらあの何度も見つめていたレストランへ連れて行ってやる、そう告げられたらどれほど救われるだろう。
しかし、頭上の真紅のカウントダウンは無慈悲にゼロへ向かって削られていく。
軍上層部からの強制執行命令。これはただの防衛任務などではない。「危険度大・廃棄間近」と判を押された第七号機体へ突きつけられた、最後の冷酷な査定なのだ。
半分の遅れも、戦場での一瞬の躊躇も許されない。それを犯せば待っているのはこの暖かい部屋ではなく、数千度のプラズマが渦巻く焼却炉の底だ。
この子を生かしたければ、この手でミンチ機の中へ押し戻すしかない。
エヴリンは鉄の味が滲むほど下唇を噛み締め、理性を引き裂こうとする悲哀を胃の腑へ無理やり呑み下した。
「……そうよ」
女の喉はヤスリをかけたように乾き、吐き出された言葉はどこまでも残酷に重かった。
「仕事に行くのよ、ルルカ」
迷う時間は一瞬たりとも残されていなかった。エヴリンは両腕を伸ばすと、少女の薄く細い膝裏と背中を一気にすくい上げ、靴すら履いていない小さな体を横抱きに抱き上げた。
ルルカの体は反射的に強張ったが、すぐに素直に力を抜いて女の胸に身を委ねた。細い毛尾が二人の腰の間で窮屈そうに身を縮め、尾の先端の鋭い骨刃だけは、走る衝撃でエヴリンの部屋着を切り裂かぬよう、手のひらの外側へ固く反転させていた。
エヴリンは二日酔いの染み付いた服を着替えることすらせず、玄関に掛けてあったトレンチコートを鷲掴みにして二人ごと包み込むと、鉄製の防犯ドアを蹴り開けた。
バタン!
重い金属音が、早朝のがらんとした階段室に激しく響き渡る。
女は腕の中の嘘のように軽い兵器を抱え、擦り切れたスリッパのまま、凹凸の激しい石の階段を転がるように駆け下りていった。
吹き抜ける冷たい隙間風が二人の髪を乱し、室内に残っていた微かな柑橘とシダーウッドの香りを容赦なく吹き飛ばしていく。
風に目を射られながら、エヴリンは腕の力を一層強めた。このか細い体を、自らの骨肉の中にねじ込んでしまいたいかのように。
「いい、ルルカ……」
乱れた荒い足音とともに、激しい息遣いが少女の冷たい耳元へ吹き付けられる。そこには歯を食いしばった怒りと震えが滲んでいた。
「あんなクズ共、全部引き裂いてやりなさい……そして、何が何でも生きて帰ってくるのよ」
固く抱き締められたルルカは琥珀色の瞳をわずかに見開いた。薄い布越しに、女の胸の奥で打つ心臓の、激しく、痛切で、けれどどうしようもなく熱い鼓動が確かに伝わってきた。
少女は答えなかった。ただ疾風の中で、あの禍々しい骨刃をさらに小さく折り畳み、冷え切った額をエヴリンの首筋へそっと押し当てた。
薄暗く荒廃した古いアパート群を抜けると、二人は旧時代に放置されたコンクリートの空き地へと辿り着いた。
深秋の早朝の風が薄刃のように吹き抜け、地面の窪みには薄い氷が張り付いている。エヴリンは荒い息を吐きながら、胸の中の痛々しいほど軽い少女をそっと地面に降ろした。
足が地に着いた瞬間、ルルカは素足のまま凍てついたコンクリートを踏み締めたが、身じろぎひとつせず、ただ静かに佇んでいた。
エヴリンは刺すような朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、コートのポケットからあの鈍色の金属ブロックを取り出した。角を押すと、再びキューブが解体浮遊し、ノイズ交じりの光学ディスプレイを展開する。
「生体兵器ルルカ、現着完了。作戦詳細および突破座標を直ちに転送してください」
女の声は事務的で平坦だった。冷たい専門用語を意図的に並べ立て、通信プロトコルの隙間を縫って、傍らの子供のために十数秒の猶予を稼ごうとしていた。
鉄血とデータで組み上げられたこの高城において、上層部の査定官たちも決して完全に心を持たぬ石塊ばかりではない。
損害リストを日常的に処理し、死別を見飽きた古狸たちも、その心の奥底には残酷なほど薄い黙契を育てているものだ。この十数秒の遅延は、鋼鉄のシステムの内側で、彼らが互いに密かに施し合える唯一の余白だった。
泥と死人の山を転がり続けてきた身にとって、この余計な温情は間違いなく致命的な弱点だ。だがまさにその弱点こそが、まだ完全に機械へと成り下がっていない「人間性」を辛うじて繋ぎ止める細い蜘蛛の糸でもあった。
エヴリンがデータストリームを見つめていたその時、通信端末の向こうから、あまりにも唐突な挨拶が降ってきた。
『おはよう、エヴリン。あのちび狼は、昨夜よく眠れたかい?』
それは、爽やかで落ち着きのある中年の男の声だった。朝のランニングから戻ったばかりのような活力すら帯びている。
警報の絶叫と電磁ノイズが吹き荒れる回線の中で、その陽気な響きはあまりに異質で、後ろに控えていたルルカの耳先がピクリと動き、一瞬だけ呆然とした表情を浮かべた。アウトドア配信者にでも回線を乗っ取られたのかと思ったほどだ。
「ヴァ……ヴァルター?! どうしてあなたが当直を……」
エヴリンの強張っていた表情が一気に凍りつき、次の瞬間、目に見えて鮮やかな赤みが首元から耳の先まで一気に駆け上がった。
彼女は慌てて端末のカメラを手で覆おうとしたが、先ほどドアを蹴り破って疾走していたときの悲壮感はどこへやら、見る影もなくなっていた。
傍らに立つルルカは、そっと瞼を持ち上げた。
琥珀色の瞳が女の動揺した背中をなぞり、昨夜の居酒屋でのくだを巻いた声、路地裏での途切れ途切れの呟き、そして今端末から響いたあの爽やかな男の声を、頭の奥で完全に噛み合わせた。
なるほど。
辞表と厭世的な白眼を常に顔に張り付けているこの社畜の上司にも、舌の根元で一晩中転がし続けるような相手が本当にいたのだ。
しかし、その機微を味わう暇はルルカにはなかった。遠くから響く重砲の地鳴りがすでに足の裏を通じて伝わってきており、兵器としての本能がすべての雑念を塗り潰していった。
ヴン――。
低周波の神経パルスが彼女の体内を駆け抜けた。
ルルカの纏う空気が、刹那のうちに一切の脆弱さを削ぎ落とす。華奢で青白い両腕が高周波振動の微光を帯び、肉と骨が耳障りな異音とともに急速に変異、再構築されて、瞬く間に解剖刀のように鋭利な純白の巨爪へと姿を変えた。
両脚が逆関節を描いて後方へ引き絞られ、骨の軋みとともに、妖狼族特有の獣の後肢へと引き伸ばされる。しなやかな筋肉は限界まで引かれた強弓のように張り詰めた。
肉球を備えた犬科の足裏が地面を踏み締めた瞬間、その柔らかくピンク色をしていた掌心から、純粋にして妖異な紫煙の霊火が音もなく立ち昇った。
足裏だけではない。両手首の関節部、そして両肘の側面に備わった噴射口からも、同じ幽紫の霊火が吹き出していた。
それこそが、高機動強襲兵器としての彼女の最大の切り札だった。揺らめく紫の炎は単なる熱エネルギーではなく、ベクトル推進と動能修正を兼ね備えた霊力偏向ジェットだ。
極めて精密な角度で空気を噛み、コンマ数秒のうちに数トンの慣性モーメントをねじ伏せる。跳躍の反動を借りずとも、空中で直角の軌道を描き、ミリ秒単位の微細制御によって路地や巨獣の牙の間を超低空で滑空することを可能にしていた。
ルルカが心臓の魔核を臨戦態勢まで暖機し終えたその時、端末の向こうのヴァルターという男が、再び笑みを交えて口を開いた。
『さて、局長からの命令書が今下りたよ。あの狸親父がわざわざ言伝をしてね。お前があのちび狼を実の妹みたいに可愛がってるって聞いてる――だから出撃前の最後の規定事項として、彼女を抱き締めてから戦場へ送り出せ、とのことだ』
ヴァルターの声には、からかうような色合いと、どこか深い敬意が混ざっていた。
『ボスの絶対命令だ。やらなきゃゲートを開けないぞ、エヴリン』
身を低く沈めていたルルカの動きが、不意に止まった。
純白の巨爪が宙に浮き、手首の紫の炎が小さく揺れ、その幼く冷たい顔に明らかな困惑がよぎった。十五年の兵器としての生涯で、出撃命令といえば冷徹な催促か、麻酔の遮断か、教官の浴びせるスタンロッドの警告音だけだった。
「抱擁」などという軍規マニュアルに存在し得ない言葉は、彼女にとってはエラーコードと同義だった。
だがエヴリンは、この命令の奥にある重みと優しさを完全に理解していた。
この指令を出したのは、S級生体兵器管理局の、常に濃い隈を張り付けて白髪まみれになったあの老局長だ。
飄々としていながら、管理所が背負う罪業と重責のすべてを一人で抱え込んでいる男。前線を維持するためにこの壊れかけた子供たちを消波ブロックとして投げ込まねばならない現実を、人類の存続が生体兵器の骨肉の上に成り立っている冷酷さを、誰よりも知っている老人。
だが同時に、子供時代を奪われ殺戮機械に仕立て上げられたこの生命たちの皮肉の下にも、生きた人間の心臓が脈打っていることを誰よりも知っているのだ。
できることなら自らの首を差し出してでも、制度の裂け目の中で、いつ処分されてもおかしくない子供たちに「人間」としての尊厳を紙一重でも残してやりたいと足掻いている。
S級管理所は、兵器をただの消耗品として扱う他の冷酷な施設とは根本的に異なっていた。ここに送られてくる個体の多くは、ルルカのように機能が損傷し、侵蝕率が臨界に達して廃棄の淵に立つ不良品たちだ。
彼女たちはあまりに若く、日誌をつける研究員たちが夜中に目を通すたび、胸を痛めずにいられないほどだった。
だからこそ、「S級・極度危険」という物々しい名を冠しながら、この施設の中で運用されている規則は、全区画の中で最も人間的で、偏執的なまでに温和なものだった。
制度の許す極限の範囲内で、ここにいる人間たちは、彼女たちを一人の生きた人間として扱おうと必死に足掻いていたのだ。
エヴリンは赤くなった鼻をすすり、通信端末のホログラムを消した。
彼女はヴァルターの軽口を気にする様子もなく、ただ身を翻し、霜の降りた地面を踏み越えて、完全武装を終えた小さな殺戮機械の前へと歩み寄った。
ルルカは本能的に半歩引こうとした。自らの手には鋭利な純白の爪があり、手首には紫の炎が渦巻き、全身から人を寄せ付けない血の気配が立ち込めている。
だがエヴリンはその凶器など見えぬかのように躊躇なく踏み込み、小刻みに震える両腕を伸ばして、一切のためらいもなく、その小さな狼を真正面から抱き締めた。
粗いトレンチコートの生地が冷風を遮り、女の温かい胸が、ルルカの冷たい合金の胸甲に強く押し当てられる。
「……絶対に、生きて帰ってきなさい」
エヴリンの顎がルルカの細い肩に乗り、その声はひどく嗄れ、抗うことを許さない気迫と溢れんばかりの切なさを孕んでいた。
「外でくたばったりしたら……絶対に許さないんだから。聞こえたわね?」
抱き締められたルルカは、女の首元で固まっていた。手首と足裏で暴虐に渦巻いていた紫の霊火が、その瞬間、奇跡のように鎮まり、意思を持つかのように女の裾や長い髪を避けて揺らめいた。
少女は瞼を伏せ、階級も、種族も、造物の呪いすらも越えたその抱擁を受け止めた。鉄のように冷え切っていた殺戮の魔核の奥底に、かすかな熱がじんわりと滲み出していく。
「……了解」
ルルカは女の肩口で極めて小さく応じると、体をわずかに屈めて、柔らかくその腕から抜け出した。
再び振り返り、遠くで黒煙を噴き上げる放水幹線のゲートを見据えた時、その瞳にあった微かな迷いは完全に消え失せ、底知れぬ静かな深淵へと戻っていた。
純白の巨爪が体の前で無駄なく交差し、足裏と骨尾の先端から幽紫の霊火が凄まじい勢いで噴流を上げる。耳をつんざく破空音とともに、彼女は朝靄を切り裂く一筋の紫電と化して、血飛沫の舞う戦場へと超低空を滑るように飛び去っていった。




