悔しさの匂いと温かい家
実験室の空気は、鼻を刺す薬草の青臭さと防腐液の匂いが混じり合い、冷たく粘りついて、人の喉の奥に薄膜のようにへばりついていた。
頭上の白熱灯が「ジジ……」と微かな電流の唸りを立て、無機質な合金の床を白々と照らし出している。
エヴリンの冷淡な合図を受け、ルルカは着古したぶかぶかの服を脱ぎ捨て、防護力場の円環の中央に素肌を晒して佇んだ。
背骨の奥深くから「コキリ……」と重い軋み音が響いた瞬間、彼女の肉体は半人半妖の異形へと変貌を遂げた。
それは、並の人間であれば背筋を凍りつかせるような光景であった。もとは細く、青紫の血管すら透けて見えていた彼女の両腕が、肘の関節から急速に歪み、膨れ上がっていく。
肉と皮膚を押し割り、包み込むようにして森白い硬骨が張り出し、成人男性の頭部よりも巨大な凶爪へと成り果てた。
その骨質は気泡ひとつなく緻密に詰まり、象牙のように滑らかでありながら致命的な殺気を放っている。
指先の骨刃はわずかに湾曲し、ただ宙に掲げられているだけで、合金の装甲板すら豆腐のように切り裂く凄まじい斬撃の威力を宿していた。
尾椎の異変は、さらに奇怪であった。一見すれば普通の毛に覆われた細長い尾でありながら、その先端には獣の毛房などなく、あろうことか「第三の手」と呼ぶべき異様な構造が備わっている。
幽光を湛えた五振りの骨刃が花弁のように開閉し、凄惨な絞殺と把握の機能を両立させていた。
さらにその五本の刃に守られた中心部には、深海の濁り水晶めいた異質の宝珠が嵌め込まれ、呼吸に合わせて微かな熱波を吐き出している。それは瞬時にして万物を消し去る高エネルギーの破壊光線を放つ器官であった。
――ヴン。
蒼白い霊火が、音もなく彼女の全身から立ち上った。薪も要さず、煙も立たぬその炎は、骨を刺す絶対零度と大気を陽炎のように歪める超高熱を同時に孕んでいる。
極北の妖狼の王族に由来するこの異能は、堅牢な陣地を穿つ超高熱の貫通火線となるのみならず、疾走の際にはブースターの如く炸裂し、筋力と機動性を常軌を逸した領域へと跳ね上げる。
攻防において一切の隙がない。殺戮の帳簿の上において、これほど誰もが喉から手が出るほど欲しがる極上の駒は他になかった。
エヴリンは防弾ガラスの向こうに立ち、感情の抜け落ちた顔つきで佇んでいた。安物のノック式ボールペンを握り、黄ばんだバインダーの上へ、各種の生理的湾曲や骨格の増生角度を「サラサラ」と走らせていく。
これが、これから毎日のように繰り返される定時業務であった。
通常の兵器であれば、主の愛撫と体温によって、この異様な姿を皮膚の内側へと穏やかに押し込めることができる。だが、主を持たぬルルカは、常に底から水が漏れ続け、誰にも繕われない壊れた桶と同じであった。
エヴリンにできることといえば、この器のひび割れがどこまで広がったかを日々計測し、いつの日か自らの手で「不可逆的異変/廃棄処分を推奨」の欄に赤い印を書き込むことだけなのだ。
エヴリンのペンの先が、紙面の上で微かに止まった。
記録板の縁越しに、彼女はガラスの向こうのルルカを見つめた。肋骨の凹凸が痛々しいほど浮き彫りになった青白い痩躯。
それに不釣り合いな血生臭い森白の巨爪と、殺戮兵器そのものの異形の尾。その並び立ちがあまりにも歪で、あまりにも痛ましかった。
エヴリンは胸の内で、小さく息を吐いた。
詰まるところ、まだ十五になったばかりの小娘に過ぎないのだ。妖魔の跋扈せぬ安全な内城に生まれていれば、この年の頃の少女は分厚い教科書を胸に抱き、並木道の木陰で試験の点数に眉を寄せたり、同級生の横顔に人知れず胸をときめかせていたはずなのだ。
「もういいわ。同調を解いて、服を着なさい」
エヴリンは通話ボタンを押し、平坦な声で告げた。
ガラスの奥で、ルルカは素直に気配を収めた。獰猛な骨爪は引き潮のように皮膚の下へと溶け去り、薄いタコのある細く小さな手へと戻っていく。
しかし、背中の細長い尾は強張ったまま足元へと垂れ下がり、もはや尾椎の奥へ完全に引き戻すことは叶わなかった。
頭頂の銀灰色の狼耳もまた、髪の毛にぺたりと張り付いたまま垂れ下がり、どれほど力を込めてみても、純粋な人間の姿へと完全に隠し切ることはできなかった。
(侵食が……やはり、深すぎるのね)
エヴリンは金縁眼鏡のブリッジを押し上げ、胸の奥底に乾いた痛みを覚えていた。
彼女はこれまで、あまりにも多くの兵器を見送ってきた。侵食率が一分這い上がるごとに、人ならざる徴が毒草のように肉の奥から芽吹いてくる。
それがこの世界の逃れられぬ鉄則なのだ。最後の一枚の薄皮すら保てなくなった日、彼女らがこの世に残す痕跡など、焼却炉の底に沈む金属粉まじりの白い灰だけに過ぎない。
「着替え終わったら出てきなさい。今日はちょうど給料日なの。温かいものでも奢ってあげるわ」
スピーカー越しに届くエヴリンの声は、やはり何処か眠たげで、倦怠に満ちていた。だが、ルルカの細い肩がびくりと跳ねた。
手にしたごわごわの古着を無意識に握りしめ、琥珀色の瞳をわずかに見開く。暗い路地裏で、通りすがりの見知らぬ人間に不意に骨を差し出された野良犬のように――そこには歓喜などなく、骨の髄まで染みついた警戒と戸惑いだけがあった。
防弾ガラス越しに、エヴリンはその頑なな警戒を察して取った。取り繕うような美辞麗句で飾る気など端から持ち合わせていない彼女は、眼鏡を指先で直すと、胸の奥の澱を吐き出すように淡々と言い放った。
「私がこの手で廃棄処分のボタンを押した数なんて、もう何十回に上るか数え切れないわ。どうせ貴女の残り時間も目に見えて減っているのならね。せめてその日が来る前くらい、一生腹一杯の飯も食ったことがないような顔で逝かれるのは御免なのよ」
どこまでも冷たく、硬い口調であった。しかしその言葉の底には、ずっしりとした遣る瀬無さが沈んでいる。
元を正せば、上層部のお偉方が私欲のために幽界の扉を穿ち、世に妖魔を解き放ちさえしなければ、この子らが母の胎内にいる頃から妖核を縫い込まれ、使い捨ての道具として産み落とされる謂れなどなかったのだ。
ルルカは呆然とし、やがて小さく首を垂れた。
「……そう、なのですか。本当に……ご迷惑をおかけします」
「余計な気を使わないで。エヴリンでいいわ」
エヴリンは唇を結び、カルテのバインダーを金属のワゴンへ放り投げた。見送ってきた出来損ないはあまりに多く、こんな無駄な感傷を抱くべきではないのだ。
それに、薄給の身である彼女の懐事情はいつだって寒い。市街の端に狭い中古のアパートをローンで買ったばかりで、リフォーム業者に手酷く毟り取られたせいで、酒代すら切り詰めねばならぬ有様だった。
だが、だぶだぶの服を身に纏い、ぺちゃんこの頭陀袋を抱えて隔離室から出てくるその小柄な姿を見ているうちに、常軌を逸した突飛な考えが、雑草のようにエヴリンの胸に芽生え始めていた。
――いっそ、このいつ壊れるかも知れぬ狼の仔を、自分の家へ連れ帰ってしまおうか。少なくとも残されたわずかな日々くらい、こんな冷え切った合金の檻の中で死を待たせるよりは、いくらか人心地がつくだろう。
エヴリンが金属扉を開けて彼女を迎えに行こうとした、その時であった。通路の曲がり角の監視カメラに、唐突に見覚えのある幾つかの人影が映り込んだ。
ルルカのかつてのチームメイトたちであった。
固有能力の連携に特化したその五人小隊は、もとより排他性が強く、単に前線をこじ開ける瞬間的な破壊力が足りなかったがために、使い捨ての缶切りの代用としてルルカの配属を管理局に願い出たに過ぎなかった。
しかし彼女の凶暴極まりない狼の戦法は、最初から彼らの計算高き歩調とは噛み合わなかったのだ。死線を越えた後、残ったのは感謝ではなく、怪物への嫌悪と恐怖だけであった。
先頭の男は敷居を跨ぐことすら嫌がり、空気中の消毒臭を避けるように露骨に眉をひそめると、手首を軽く払った。
――ガラン!
鈍い重みを持った規格品の金条が、鉛色の合金タイルの上に投げ落とされ、二度ほど跳ねてルルカの足元へと滑り込んだ。
「そいつをくれてやる。外で俺たちが出来損ないを虐めたなどと、後ろ指を指されても敵わんからな」
手切れ金としては、なるほど気前が良いと言える代物であった。だが、泥土の中に放り投げるような施しは、相手の持ち合わせる最後の尊厳を白日の下で踏みにじる行為に他ならなかった。
ルルカは身動ぎひとつせず、背中の尾だけが硬直した一本の直線となって張り詰めていた。
言い訳ひとつ口にせず、彼女はただ静かに膝を折り、薄いタコと微かな霜焼けの残る痩せた手を伸ばした。埃にまみれた冷たい金条を拾い上げると、掌の中に固く、固く握りしめた。
男は仲間を引き連れ、振り返ることもなく立ち去った。
重い軍靴の足音が、遠い廊下の向こうへと消えてゆく。
ルルカはただ一人、その場にぽつねんと取り残されていた。頭頂の狼耳は力なく垂れ、だぶだぶの灰色の外套が微かに震えている。
巨魔すら引き裂いたその琥珀色の双眸は、いまや燃え尽きた灰のように光を失い、死水のような虚ろさへと沈み込んでいた。
その踏み虙られた惨めな佇まいは、錆びた太釘のように、エヴリンの胸の奥へ容赦なく突き刺さった。
「……胸糞の悪い連中ね」
エヴリンは迷うことすらしなかった。ハイヒールを鳴らして大股で詰め寄り、隔離扉を荒々しく引き開けると、呆然と立ち尽くすルルカの掌から、汚れのついた冷たい金の延べ棒を強引に引っこ抜いた。
ずしりと重い金属が、エヴリンの掌の骨を痛いほどに圧迫する。彼女は金条を手のひらで無造作に放り投げ、ずり落ちた金縁眼鏡を押し上げると、目の前の呆気にとられた銀髪の小娘を見下ろし、やけっぱちのような尊大さと決意を込めて言い放った。
「どうせ貴女の体内の狂暴な妖力も、そう長くは保たないんでしょう! なら今日から、私の家に住みなさい。私の飯を食い、私の部屋で寝るのよ。この金は、貴女が前払いした食費と家賃として没収するわ。文句はないわね?!」
無機質な通路の冷光が、エヴリンの鋭い眼鏡のレンズに反射し、揺るぎない光を放っていた。
彼女はただ、この凍てつく人の世で、この子に知らしめてやりたかったのだ――貴女は道端に投げ捨てられて然るべきガラクタなどではない。
少なくとも今この瞬間、この厭世の研究員だけは、貴女をひとりの人間として扱おうとしているのだと。
ルルカはしばし呆気にとられ、やがて、ひび割れた硝子のようなかすかな笑みを口元に浮かべた。これほどまでに飾り気がなく、そしてこれほどまでに温かい人間に巡り逢ったのは、生まれて初めてのことであった。
人並み外れた彼女の鋭敏な嗅覚は、相手の感情の匂いを嗅ぎ取ることができる。眼前のエヴリンからは、悪意の欠片ひとつ漂ってこない。それどころか、微かな「悔しさ」の滲む匂いが漂っていた。
その時、ルルカはふと悟ったような気がした。
このエヴリンという人もまた、かつて裏切りに遭ったことがあるのか、あるいは誰か掛け替えのない人に置き去りにされた過去があるからこそ、このような匂いを纏っているのではないだろうか、と。




