抱擁を知らぬ狼の仔
この新たな収容所の佇まいは、以前いた隙間風の吹き抜ける大部屋に比べれば、なるほど随分と整然としたものであった。
四方の壁は寸分の狂いもなく銀灰色の合金で覆われ、継ぎ目ひとつなく、蠅一匹として止まる隙間すら見当たらない。
通路の両脇に並ぶ計測機器は酷く新しく、冷たく品格のある金属光沢を放ち、青や緑のインジケーターが薄闇の中で呼吸のように一定の速度で明滅を繰り返している。
低く規則的な排気音が「シュー……シュー……」と響き、空気に微かに混じる血生臭さと黴の匂いを余さず吸い出しては、鼻を突くほど念の入った冷涼な消毒臭へと置き換えていた。
しかし、内情を知る者が見れば、一目でそれと知れる仕掛けばかりであった。床一面に埋め込まれた高圧電流グリッド、天井の四隅から見下ろす重火器の鎮圧砲門、そして合金の壁の奥から低く伝わってくる磁気ノイズ――
それらすべてが、極めて凶暴で、いつ暴走して牙を剥くかも知れぬ危険な生体のためだけに設えられたものなのだ。収容所と呼ぶよりは、高価な最新技術で飾り立てられた重犯罪者用の檻と呼ぶほうが、よほど実態に即していた。
ルルカは、角の擦り切れた粗布の頭陀袋を胸にかき抱いたまま、鉛色の通路を静かに歩いていた。その視線は床に落とされたまま、眉ひとつ動かさない。
手慣れた足取りでふたつの気密扉をくぐり抜けると、彼女は白熱灯の灯る独立監視室の前に立ち止まった。
室内のデスクに腰掛けていたのは、エヴリンであった。
彼女はこの管制所の研究員であり、年中、糊の効きすぎた白衣を身に纏い、鼻梁に細身の金縁眼鏡を乗せていた。薄青い長髪は、使い古したヘアクリップで無造作に後頭部で束ねられている。
彼女の役目といえば、詰まるところこれら生体兵器の侵食率を監視し、冷徹な端末の数値に従って抑制剤の投与量を測り、あるいは廃棄処分の承認書にいつサインを走らせるかを差配するだけであった。
平生から酷く睡眠が足りていない様子で、いかにも世を儚んだ末端職員の気だるさを漂わせ、灰色の瞳には徹夜の疲労による血走りが濃く滲んでいる。
扉のあたりで微かに骨尾が床を擦る音を聞きつけ、エヴリンは疼くこめかみを指先で揉みほぐしながら、淡く発光する端末から目を離した。
ディスプレイに浮かび上がっているのは、今しがた転属されてきたルルカの個人記録ファイルである。その最上段には、血のように赤い「除名申請」の四文字が刻まれていた。
前の討伐部隊が夜を徹して送りつけてきた報告書であり、「侵食兆候の異常、骨格の異常増生、連携の著しい困難」といった、もっともらしい罪状がこれ見よがしに書き連ねられている。
エヴリンは眼鏡のブリッジを押し上げ、スクリーンの向こう、入り口に佇む人影へと視線を向けた。
その姿を一瞥するや、彼女の眉間は知らず知らずのうちに歪んでいた。
扉口に立つルルカは、あまりにも痛々しいほど華奢であった。
いまだ背も伸びきらぬ子どものように小柄で、長年にわたり配給の安価な合成食糧だけで命を繋いできたせいか、細い手首や足首は透けるほどに薄く、だぶだぶの衣服に身を包んだその姿は、まるで瓦礫の山に突っ立てられた案山子のようであった。
それでありながら、彼女の顔立ちにはどこかぞっとするほどの整然とした美しさが宿っていた。銀灰色の髪が頬の両脇に零れ落ち、小ぶりで均整の取れた目鼻立ちは、ショーケースの奥底に置き去りにされ、誰にも顧みられない古い陶磁器の人形を思わせる。
エヴリンは端末のキーを二度叩き、化学工場の廃墟においてルルカが単身で三体の巨魔を八つ裂きにしたという凄惨な戦闘記録を確かめ、ふたたび眼前で立つことすら覚束なさそうに見える小さな造物を見やった。
このような、人形と見紛うばかりの小娘に、妖狼の王女たる凶髄を背負わせ、あまつさえ上層部の身勝手なお偉方どもは「危険な不良品」の烙印を押して部隊から蹴り出したというのか――。
エヴリンは渇いた唇をきつく結び、胸の奥底から湧き上がる古びた倦怠と荒唐無稽な憤りを、とうとう抑え込むことができなくなっていた。
「私の名はエヴリン。これから貴女を担当する研究員よ」
デスクの奥の女は、瞼すらろくに持ち上げようとはしなかった。その声は、暗がりで二枚の紙やすりを擦り合わせたように乾ききっている。彼女は金縁の眼鏡を指で直すと、青く発光するタッチパネルを軽く叩き、赤い警告表示で埋め尽くされたファイルを引き出した。
「世話役とは名ばかりで、要するに管理局から遣わされた監視役に過ぎないわ。もし貴女の体内の数値が規定のレッドラインを跨いだら、真っ先に一発処分の電流スイッチを押し込むのも、おそらく私よ。後から無駄な期待を抱かれても困るから、嫌な話は先に済ませておくわ」
部屋の中は、しばらくのあいだ静まり返った。入り口に立つ影は微動だにせず、ただ背後に垂らした白骨の尾の先端が、合金タイルの上でかすかに擦過音を立てただけだった。
「……とても、お優しい方なのですね」
ルルカは首を垂れ、か細い声でぽつりと返した。
決して皮肉などではなかった。彼女は、この厭世の色を隠そうともしない研究員へ、心底から感謝を覚えていたのだ。
冷徹でありながら体面ばかりを繕うこの体制の中にあって、官僚どもや部隊長どもは、常に遠回しな言い訳を弄することに長けていた。
「大局のためだ」「調整休養だ」「生理的休務だ」といった耳触りの良い美辞麗句で死体を包むようにして、体裁よく危険物を放逐するのが常なのだ。
エヴリンのように、初手から冷徹な手枷と棺桶の釘を白日の下に晒してくれる人間のほうが、この世界にあってはよほど稀有な慈悲というべきであった。
これ以前にも、彼女に仲間がいなかったわけではない。
昨夜、市街の縁にある半壊した化学工場の廃墟において、青黒い硬甲をまとった三体の巨魔が暗がりから襲いかかり、振り下ろされた巨大な骨棒は前衛部隊をあわや肉塊へと叩き潰す寸前であった。
その時のルルカもまた必死であったのだ。背後ですでに腰を抜かしていた隊員たちを守るため、彼女は奥歯を砕かんばかりに噛み締め、背骨の奥深くに眠る妖狼の核を無理やりに励起させた。
暴虐な妖血が四肢百骸を駆け巡り、彼女は安全マージンを強引に踏み越えた。純白の骨尾は鋭利な重斬刀の如く薙ぎ払われ、合金装甲を紙切れのように引き裂き、飛び散る生臭い黒血と肉片の嵐の中、三体の怪物を満地の挽肉へと解体してみせたのだ。
しかし、殺戮がやみ、全身に黒血を浴びて息を切らしながら振り返った彼女を待ち受けていたのは、安堵でも感謝でもなかった。
自らが庇ったはずの隊員たちは、震える手で高エネルギー小銃を構え、黒々とした銃口を揃って彼女の顔面へと突きつけていた。防毒マスクの奥にある幾つもの眼差しには、仲間へ向けるべき温もりなど欠片もなく、そこにあるのは底知れぬ恐怖と、野獣を見るような悍ましい嫌悪だけであった。
その瞬間、ルルカは悟ったのだ――自分はまた、この部隊からも追い出されるのだと。
部隊から除名されるのは、これが初めてではない。他の生体兵器たちの多くは運に恵まれ、数値を穏やかに共鳴させてくれる主を見つけ出している。
日々の任務を終えれば暖かなアパートへ帰り、手を握り、抱き合い、あるいはより深い慈しみを通じて、侵食率をおとなしく安全域へと押し下げることができる。
この世の倫理はその点において案外寛容であり、男女を問わず、同調率さえ適合すれば社会はその共生関係をあっさりと認めていた。
たとえ同性同士の主従であっても法的に養子を迎え、昼は前線へ出てわずかな贖罪点を稼ぎ、夕暮れには家へ戻って共に食卓を囲む――そんな、ありふれた人並みの温もりを享受しているのだ。
だが、そのような光景は、ルルカにとってあまりにも遥か彼方の幻であった。
適合する人間が皆無だったわけではない。風聞によれば、この冷たく繁栄した高塔都市の最上層に、彼女という妖狼と魂を共振させ得る高貴な令嬢が実在するという。
しかしその令嬢はあまりにも眩しく、あまりにも傲岸であった。彼女を擁する財閥と取り巻き連中は、暴虐な血統を宿し、いつ暴走して主を食い殺すかも知れぬ不良品を内に迎え入れることなど金輪際許しはしなかった。
たとえその令嬢の心に一瞬の揺らぎが生じたとしても、見えない門閥と偏見の高壁が、その細い絆をあっけなく粉々に打ち砕いてしまったのだ。
彼女には、もはや望むべくもないことであった。
今のルルカに残された微かな願いといえば、体内の侵食率が完全に九割を突破し、醜悪な化け物に成り果てる前に、どこか見向きもされない瓦礫の底で討ち死にし、せめて死に際くらいは人の形を留めていたいということくらいであった。
むろん、もしこの狂った世界が気まぐれを起こし、彼女と魂を重ね合わせてくれる別の主を天から降ろしてくれたなら、彼女は躊躇うことなくその血塗られた両手を伸ばし、縋りついたであろうけれど。
運命などというものは、底辺の兵器の目から見れば、もとより理不尽そのものであった。
抗おうと身悶えし、他人に媚びを売れば売るほど、かえって無様に打ちのめされる。骨の髄まで搾り取られ、誰にも拾われない野垂れ死にの肉片と成り果てるまで、この冷酷な世界は一滴の涙すら零さず、ただの一度たりとも温もりを差し伸べてはくれないのだ。
ルルカは、この世界の掟を骨身に染みて弁えていた。
彼女はただ従順に首を垂れる。銀灰色の長い髪が零れ落ち、青白い小さな顔の大半を覆い隠した。並の兵器であれば泣き叫び、発狂して崩れ折れるような絶望の淵にあっても、彼女の瞳の奥にはさざ波ひとつ立たない。
その順応のあまりの早さ、痛々しいまでの従順さは、決して彼女の心根が鉄のように冷酷だからではない。ただ単に――彼女という命が初めから抱いていた持ち物が、あまりに少なく、あまりに薄かったからに過ぎない。
最後の足場すら剥ぎ取られたとて、それを痛むための余白すら、彼女の胸の奥には残されていないのだ。
物心ついた時から、ルルカは自分が身ひとつで生まれた無一物の存在だと知っていた。
かつて彼女の母親は、家の祖母が重い不治の奇病に冒された際、追い詰められた絶望の果てに奥歯を噛み締め、正気を失った学者どもの群れと決して表沙汰にできぬ密約を交わした。
白衣の狂人たちが老人の病根を取り除き、余生を不自由なく暮らせるだけの巨額の富を用立ててくれるならばと、その若く清潔で温かな肉体を開き、深海の妖狼を宿す母胎となることを受け入れたのだ。
当時の母親はわずか十六歳、息を呑むほどに美しい娘であった。もし天に見放され、泥濘のような過酷な生活に崖っぷちまで追い詰められていなければ、どこの清らかな生娘が、このような異形の怪物を己の腹に宿し、その骨を育てる道など選ぶものだろうか。
のちにルルカは廃墟の返り血の中で育ち、管理局の古い記録に残された僅かな手掛かりを頼りに、生母の行方を密かに突き止めたことがあった。
その女は今や、この上なく優雅で贅沢な暮らしを享受していた。
天賦の美しい容姿と立ち回りの巧みさによって、早くに市内の権勢ある名家の御曹司に見初められ、玉の輿に乗って豪奢な屋敷へと迎え入れられたのだ。出入りには常に高級車が侍り、身には目の眩むような絹織物を纏っている。
その富貴の家へ器量良しの兄妹をもうけ、何不自由のない人間としての幸福を満喫している彼女の記憶からは、かつてその股間から這い出し、全身に妖魔の胎毒をまとっていた長女の存在など、疾うの昔に綺麗さっぱり消え去っているに違いなかった。夢の欠片にすら残ってはいないだろう。
それが、ルルカの人生であった。
侵食を鎮めてくれる主にも恵まれず、生れ落ちたその日から「怪物」の烙印を焼き付けられ、父はおろか母の温もりすら知らぬまま。
彼女はただ一人、この荒涼として冷たい人間の世界に爪先立ち、首輪を嵌められ、様々な凶暴な妖魔と殺し合い、噛み合いながら、日を追うごとに増す骨の疼きを耐え忍び、いつかどこかの瓦礫の山で息絶える瞬間を静かに待つばかりであった。
彼女の顔立ちは、生みの母と酷似していた。実に見事なまでに、九割方そのままの造作であった。
誰にも顧みられず、ただ壁際を走り抜ける鼠の気配だけが響く果てしない深夜、彼女はいつも、使い古して黒ずんだ小さな手鏡を取り出し、廊下から漏れ入る青白い薄明かりを頼りに、鏡の中の自分と同じ顔をぼんやりと見つめるのが常であった。
鏡の奥の己を見つめることは、手の届かぬ高台の屋敷に住まう、一度として顔を合わせたことのない母の姿を幻視することに他ならなかった。
小さな妖狼は、冷え切った手のひらを冷たい鏡面へそっと押し当て、その胸の底から湧き上がる、酸を呑むように切ない思いを抑えきれずにいた。
――たった一度でいい。たとえ夢の中の気まぐれな過ちであったとしても、柔らかな肌を持つ人間の腕で、この硬い骨と鋭い爪の生えた異形の体を、忌み嫌うことなく、ただありのままに、ぎゅっと抱きしめてもらえたなら、どれほど救われるだろうか、と。




