夜風と孤独の不良品
街灯はもとより、ろくに役目を果たしてはいなかった。フィラメントに積年の煤でもこびりついているのだろう、「ジジ……」と不穏な唸りを立てては、明滅を繰り返している。
灯れば、敷石の半ばを死人の瞼のように青白く照らし出し、立ち消えれば、あたりはふたたび濃密な墨壺の底へと沈み、己の爪先すら覚束なくなる。
夜道は果てしなく長かった。ただただ前へ前へと這い延び、終わりが見えない。道の両脇には、誰も引き取り手のない空の棺桶めいた廃屋が、黒々と口を開けて並んでいるばかりだった。
ルルカはその長夜の底を歩いていた。
胸に抱えているのは、従業員宿舎の物置の底から引っ張り出してきた、酷くぺちゃんこになった粗布の頭陀袋ひとつ。角はとっくに一寸ほど擦り切れ、中から黄ばんだ人造綿が覗いている。
それが彼女の全財産であった。羽織った灰色の外套は、どう見てもその痩躯には大きすぎ、襟元はだらしなく崩れて、青白く細い鎖骨を剥き出しにしている。
裾の奥からは、白骨の尾がしなだれるように太腿へと沿い、半歩踏み出すたび、尾の先端にある小骨が冷たく硬い敷石を「カツリ、カツリ」と微かに擦る。
その硬質で乾いた音が、人影のない夜更けの路地にどこまでも虚ろに響き渡っていた。
彼女はただの人ではない。遺伝子を組み替えられた造物であり、その肉体には人間ならざる部位が宿っている。
夜風は容赦なく骨の隙間へと潜り込んでくる。彼女は荷物を胸元へとかき抱き、うつむいた。銀灰の長い髪が零れ落ち、顔の半分を覆い隠す。
街灯がふたたび激しく瞬き、その隙間から琥珀色の瞳が覗いた。古井戸の底に沈む冷たい小石のように静まり返り、悲哀も怒りも浮かべてはいない。
遠くで、どこかの鉄扉が夜風に煽られて「ガラン」と鳴り、やがてふたたび死の静寂が降りる。
彼女は、この先がどのような場所なのか、よく知らなかった。所詮は道に過ぎないのだ。背後で錆びついた重い鉄扉が「バタン」と音を立てて閉ざされた以上、彼女はただ己の影を踏みながら、一歩、また一歩と、底知れぬ闇の奥へ歩みを進めるより他になかった。
人類が近代へと足を踏み入れて以降、この世界に対する好奇は肥大の一途をたどった。天を穿ち、深海を漁り、やがてある日、暗黒の深海で奇妙な扉に突き当たった。それ以来、人の手によって「禁忌」と呼ばれる大穴が穿たれたのである。
その穴が開いてからというもの、巷の夜は平穏を失った。丑三つ時ともなれば、屋根瓦の上で何かが微かに蠢く。猫などではない。大方は牙と長い尾を備えた怪異や妖魔の類であった。
そうした化け物どもは、およそ道理というものを解さない。好んで生きた人間を乾パンのように噛み砕き、骨を割り、髄を啜る。
食らい尽くして立ち去るならまだしも、中には悪辣を極めた手合いもおり、生人を梁に吊るし、皮と肉を一片ずつ引き裂いては悦に浸るのだ。
犠牲者が惨たらしく泣き叫ぶほど、化け物どもの瞳の紅蓮は輝きを増す。世界政府のお偉方どもも、さすがに恐れをなしたのだろう。
「見てはならぬ」などという気休めでは命を救えぬと悟り、同胞が生きたまま臓腑を抉り出され、地面にぶちまけられる凄惨な記録映像を、こともあろうに学校の教材へ組み込んだ。
七、八歳の童どもが、鼻を啜るのも忘れ、長椅子に行儀よく腰掛けては、恐怖に見開いた眼で幕に映る同類の死に様を見つめさせられる。教官どもは言った。これぞ「啓発」であり、外の世界へ向けられた好奇の芽を摘むための荒療治である、と。
だが、世の理とは常に皮肉なものだ。朱墨で「見るべからず」と念を押されればされるほど、見物人というものは指の隙間から盗み見たくなるものなのだ。
死者が重なり、城外の白骨が塚を成すようになると、生き残った人間は恐怖に狂い、やがてその恐怖の極みから、狂気じみた毒策を捻り出した。
金縁の眼鏡をかけ、糊の効いた白衣を纏った研究員どもが、熱気のこもる実験室で目を血走らせ、ひとつの活路を思いついたのである。
狩り獲った妖魔の胸を切り開き、青白い怪火を灯して蠢く力の「核」を抉り出す。そして百姓が苦い稗の種を肥沃な土壌へ無理やり押し込むように、人間の受精卵へとその核を縫い込んだのだ。
十月十日の胎動を経て産声を上げたものは、もはや純粋なる人の血肉ではなかった。それらは「生体兵器」と呼ばれた。
彼女らは人間でありながら妖怪の臓腑を宿し、妖魔でありながらその皮膜の底には温みのある赤い血を滾らせていた。
天地はこれほど広いというのに、彼女らが胸を張って立つ場所はどこにもない。人は彼女らをいつ牙を剥くかも知れぬ猛犬として警戒し、妖魔は同胞を裏切った雑種としてその肉を貪らんと憎悪を燃やす。
臍の緒を切り落とされたその瞬間から、お偉方どもの算盤の珠は「パチパチ」と鳴り響いた。保育器の賃料、培養液の消費、移植された核の減価償却――
それらすべてが天を突く借用証書となって、幼い背骨へと焼き付けられる。彼女らは生まれた瞬間から罪人であり、この世に万両の負債を抱えた債務者なのだ。
もし「人並み」の身分を買い戻したくば、首輪を嵌められ、血肉の飛び散る廃墟へと駆り出され、同類の喉笛を食いちぎっては帳簿の「贖罪点」をわずか一、二点ずつ稼ぐより他になかった。
だが、もっとも苛烈で残酷なものは、その払い切れぬ借金などではなく、造物主の手によって骨の髄にまで溶接された鎖であった。
核に宿る妖力は生き物である。肺腑に巣食う爛れた腫れ物のように、昼夜を問わず彼女らの人間性を侵食し続ける。
生き長らえ、青黒い牙を生やして軍隊の銃弾に頭蓋を撃ち抜かれずに済むためには、己と「同調率」の適合する人間の主を見つけ出さねばならない。
それも、ただ餌を恵むだけの主では足りぬ。「愛撫」を注ぐ主でなければならないのだ。頭を撫でられ、優しい声をかけられ、さらには交わりを結ぶことで、沸騰する妖血は三分の鎮静を得る。
微笑みひとつ、抱擁ひとつ与えられるだけで、今にも肉を突き破りそうだった骨刺は大人しく肉の奥へと退いていく。
これは、この世でもっとも滑稽な受難であろう。人を殺めるための刃でありながら、その胸には愛撫を乞い焦がれる心を宿しているのだから。
もし愛してくれる者がいなければ、妖魔の影は骨髄の深みから芽吹くように這い出てくる。
侵食率が九割を超え、正気を失えば、たとえ昨夜街のために三体の巨魔を討ち果たしていようとも、翌朝には「暴走した不良品」として、かつて粥を運んでくれた軍医の手で、無表情に廃棄処分のスイッチを押し込まれるだけなのだ。
ルルカはそうした造物であり、その中でももっとも不遇な一角であった。
かつて正規軍が極寒の凍土の奥深くで、他の怪異と激しい抗争を繰り広げ、満身創痍となっていた妖狼の一群を捕捉したという。
千載一遇の好機であった。当時の指揮官は妖狼の群れを包囲殲滅し、毒煙と重砲を用いて、重病を患っていたその王女を生け捕りにした。
純度の高い妖狼の核が抉り出された際、その冷徹な輝きは地下室の壁一面を白い霜で覆い尽くしたという。
研究員どもは至宝を手に入れたと歓喜し、下界から肌の白く均整の取れた十六歳の少女を見つけ出し、切迫していた大金を握らせて、怪物を宿す苗床とした。
十月の後、ルルカは羊水を破って這い出てきた。生まれ落ちた体躯は酷く小さく、銀灰色の産毛をまとい、その両眼は死水のように冷たい琥珀の光を湛えていた。
力に関して言えば、彼女は至高の原石であった。十余歳に育つ頃には、背骨の白骨尾一閃で防壁のコンクリート柱をへし折り、鋼鉄を纏ったような怪物を素手で両断した。
だが、彼女は決定的な「不良品」であった。
妖狼の王女の血統は、あまりに誇り高く、あまりに凶暴すぎたのだ。十数年の間、軍部は彼女に仕立ての良いスーツを纏った財閥の御曹司や、胸に勲章を並べた精鋭の将校、はては慈愛に満ちた施設の老婦人に至るまで引き合わせた。
しかし、計測器の針は微動だにしなかった。彼女の肉体と同調し得る魂の波長を持つ人間など、誰一人として存在しなかったのだ。
他人の愛撫は彼女にとって熱湯を浴びせられるに等しく、その口先ばかりの「愛情」では、侵食率を一分とて押し下げることは叶わなかった。
彼女には主が見つからない。あるいは、この擦り切れた世界には、孤高なる妖狼の孤独のすべてを受け止められる人間の度量など、どこにも残されていなかったのだ。
侵食の赤い数値は日を追うごとに這い上がり、皮膚の奥で骨節が鈍く疼く。人間どものために骨爪を振るって妖異を屠るたび、彼女の生命力は削り落とされ、耳の先には妖狼の灰色の毛が一房、また一房と生え揃っていく。
誰もが陰で、彼女の余命を指折り数えていた。長椅子に小さく縮こまる彼女の脇を通り過ぎる際、管理局の職員どもは靴音を早め、その眼差しには警戒と忌避の色を隠そうともしない。
皆、解りきっているのだ。官給の冷え切った乾パンを齧るこの小犬は、恐るべき力を秘めていながら、すでに死期を記された借用証書に過ぎないということを。
背中の骨尾が完全に妖狼のそれへと成り果て、琥珀の瞳から人間性の最後の光が消え失せた日には、裏庭に廃棄処分の銃声が響き渡るのだと。
彼女自身も、おそらくはそれを弁えていた。
「いっそ、恋をしてくれるような主人がいれば、どれほど良いだろう……」
ルルカは青白い街灯の下に立ち竦み、胸の奥でごく微かに、そんな思いを過らせた。しかしその淡い繰り言も、吹き抜ける夜風に散り散りに吹き飛ばされ、微かな名残すら留めはしなかった。
運命などというものは、底辺の兵器の身からすれば、もとより理不尽の塊であった。
夜の出撃において、半壊した化学工場の廃墟で三体の巨魔と死闘を演じた際、彼女の脊椎深くに眠る妖狼の凶髄が滾りすぎたのだろう、骨刺が皮膚を突き破って一寸ほど余計に伸びてしまったのだ。
防弾ガラスの向こうでそれを見咎めた指揮官は、警報の赤ボタンに指をかけ、カビの生えたパンのように眉間を歪めた。
管理局へ戻るや、革靴の黒い血も乾かぬうちに、青い認印の押された退去命令書が眼前に突きつけられた。
治安条例だの法令だのを引き合いに出し、体裁ばかりは整えられていたが、要するに「侵食の兆候が不安定であり、異変の恐れあり」として、一般兵器の雑居部屋を追い出され、西区にある「S級管制所」なる場所へ即刻移れという通告であった。
その場所なら、彼女も聞き及んでいた。四方を二尺の防爆鉛板に囲まれ、門扉には高圧電線が張り巡らされた、名目こそ職員宿舎であれ、実態は死刑囚の鉄籠となんら変わりのない場所である。
彼女は弁解もせず、涙も流さず、ただ黙って背を向け、擦り切れた粗布の頭陀袋の中へ、ゴワゴワに強張った旧式の制服を数枚押し込んだのだった。
街灯は半死半生の体で、七、八歩おきにひとつは息絶え、かろうじて点っているものも、油じみた傘の底で濁った青黄色の光の輪を落としているに過ぎない。
夜道は果てしなく、ただ前へ前へと這い延びている。道の両脇には、空家が黒々と聳え立ち、開け放たれた扉や窓は、内臓を抉り出された巨大な甲殻の群れを思わせた。
風は生温く、それでいて沈殿したような生臭さを孕んでいる。
あたりは耳の奥が痛むほどに静まり返り、己の足音すら不気味なほど際立っていた。
夜気の中で冷え切った敷石の上を、彼女の純白の骨尾が太腿に沿って垂れ下がり、歩みを進めるごとに先端の骨が「カツリ……カツリ……」と微かな擦過音を立てる。
その単調な響きは、無人の路地へ孤独に吸い込まれては、黒い壁際に飲み干されて消えてゆく。
ただ、道端の半ば枯れ落ちたニセアカシアの根元、荒れ草と泥穴の奥で、命を削るように狂い鳴く夜啼きの蟲の声ばかりが満ちていた。
その蟲の音は酷く密で、酷く細く、無数の錆びついた細引き鋸が、休みなくこの長い夜の皮膚を鑢で削り取っているかのようであった。
「ギチ、ギチ……」と一声ごとに尖り、張り裂けんばかりに夜気を引き裂いてはいるが、どれほど喚き立てたところで、所詮は泥濘にすがる蟲の虚しい絶叫に過ぎず、人心地の温もりなど微塵ももたらしはしない。むしろこの果てしない空虚と荒涼を、いよいよ底知れぬ深淵へと引きずり込んでいるかのようだった。
彼女はその鉄籠へと至る道を、正確には知らなかった。それでも歩み続けた。背後で錆びついた扉が閉ざされた以上、地を這う蟲時雨の狂騒を背に、足元に踏み尽くせぬ冷硬な街を敷き、ただ己の影を踏みしめながら、一歩、また一歩と進むしかない。
前方に横たわる濃密な闇の奥では、体温を持たぬ巨大な鉄の顎が、今や廃棄処分を待つばかりとなったこの骨身をひと呑みにせんと、口を開けて待ち構えているのであろう。




