第9話 偽聖女、聖爐の前で青ざめる
7/25〜26、誤って9話に10話の内容を投稿しておりました。
9話を正規の内容に修正いたしました。
お手数ですが、7/25〜26に9話をお読みくださった方は、改めてご覧いただけますと幸いです。
大変失礼いたしました。
公開審査の日は、皮肉なほどよく晴れた。生還から、ふた月半が過ぎていた。
大聖堂の身廊に、貴族と聖職者。開け放った扉の外に、万の民。壇上には審問席が組まれ、中央にオズヴァルト。その斜め後ろに、清楚の見本のようなクラリッサ。
被告席には、私。
《緊張、しますね》
「するな。今日は取り立ての日だ。集金人が緊張してどうする」
《あなた、この前しくじったばかりでは》
「商品は黙っていろ」
審問の口火は、老人が切った。
「聖女リーゼ、と名乗る者よ。そなたは先に、悪魔との契約の咎で処刑された身である。しかるに今、こうして在る。……教会はこれを、看過できぬ」
「はい」
「単刀直入に問う。そなたは、何者か」
「リーゼです」
身廊が、ざわりと揺れた。
「処刑されたはずの、と続けるべきでしょうね。……なぜ戻れたのか、皆さまが得心なさるような説明を、わたしは持っていません。目が覚めたら、墓の中にいた。お話しできるのは、それだけです」
嘘は一言もない。説明なら持っているが、誰ひとり得心しない類のものだ、というだけで。神の名札は、今日もどこかの誰かが勝手に置いていく。私は、直してやらないだけだ。
「都合のよい話だ」
オズヴァルトは首を振り、身廊に向けて声を張った。
「皆に問いたい。死者が歩く。これを奇跡と呼ぶ者がいる。だが我らの教義は明白だ――死者を歩かせるのは、悪魔の業。すなわちこの者は、悪魔憑きの偽物である。先の審問は正しかった。今日この場で、二度目の断罪を――」
「恐れながら」
若い声が、審問の流れを断ち切った。
書記席の末端から、痩せた少年が立ち上がっていた。手に、綴りを抱えて。
《テオ……!》
「発言を許した覚えはないが」
「き、記録係として、記録の不備を報告する義務があります」
テオの声は震えていた。震えたまま、止まらなかった。
――言っておくが、これは蛮勇ではない。あの小僧の妹は、十日前から救貧院の厨房で芋を剥いている。「王都に女中の良い口がある」と田舎の村へ文を出したのは、とある行商人だ。人質は、証言より先に買い取っておく。取り立ての基本だ。
口の鎖は、外してやった。それでも立つかどうかは、小僧が自分で決めることだった。そして、いま、立った。
「前回の審問の記録に、こうあります。『聖爐ノ判定ヲ求ムル声アリシモ、審問長ノ権限ニヨリ却下ス』……却下の署名は、オズヴァルト猊下、あなたです」
身廊のざわめきが、質を変えた。
「聖爐があれば、一目で分かったはずです。あの方が聖なる魂か、そうでないか。なのに、使わなかった。……なぜですか」
「小僧が。悪魔は聖爐すら欺く。ゆえに文書の証拠を採ったまで」
「……教本には、『聖爐は神の秤にして、地の何者もこれを欺くこと能わず』と、あります。ぼく、写しを何十回も作ったので、覚えています」
書記見習いが、枢機卿の言葉を、教義で詰んだのだ。身廊のざわめきが、また一段、質を変えた。
「悪魔にも欺けるというのなら、教会の宝具が当てにならないということになってしまいます。欺けないのなら……今日ここで使えば、ぜんぶ分かるはずです。前の審問が正しかったのかも、今日の、猊下が正しいのかも」
少年は、言ってしまってから自分で青ざめた。だがもう、遅い。
「「「聖爐を!」」」
扉の外から、声が湧いた。
「聖爐を使え!」「見せろ!」「本物かどうか、神様に決めてもらえ!」
万の民の声は、潮だ。老人の権限とやらで、堰き止められるものではない。
オズヴァルトは長いこと黙っていた。私には、老人の頭の中の算盤が見えるようだった。拒めば、前回の却下と合わせて「二度も聖爐から逃げた」ことになる。受ければ――受ければ、まさか、本当に灯るはずが。
「……よろしい」
老人は、賭けた。
「聖爐を、これへ」
*
聖爐は、両腕で抱えるほどの、古い銀の火皿だった。教会でただひとつの、嘘の利かない秤が、いま、手の届くところにある。
《ザガン……わたし、あれに触れて、大丈夫なのでしょうか》
「知らん」
《し、知らんって》
「お前の魂は九割がた元の輝きだ。灯る理屈はある。だが器を動かしているのは私だ。悪魔が触れて、どちらに転ぶか――前例がない」
《……そういうときの、あなたの流儀は》
「前例がなければ、私が前例になる」
私は進み出て、審問席と万の民の前で、銀の火皿に両手を置いた。
――灼けた。
腕の内側を、白い火が這い上がる。皮膚の下で、悪魔の芯が焦げる音がする。聖性の毒。契約の軛越しでこれか。歯の裏で悲鳴を噛み殺して、私は聖女の微笑を、微動だにさせなかった。
《ザガン! やめて、離して、あなたが》
「騒ぐな……客の前だ」
《ザガン!》
「灯せ、リーゼ」
私は、内側の魂に言った。
「これはお前の秤だ。お前が十年、祈って、治して、最後に雨を願った、その魂の。……堂々と、灯してみせろ」
一拍の、静寂。
それから聖爐は――白く、灯った。
ぼ、と小さく。次いで、燭台の千本分ほども鮮やかに。夜明けの色の光が、身廊の隅々まで届いて、貴族の宝石も、聖職者の金襴も、まとめて安物に見せた。
万の民が、見た。
「灯った……」
「白い……嘘だろ、あんな……」
「本物だ。本物の聖女さまだ……!」
その声の中で、私は――襟元の留め具を、ひとつ、外した。
首のまわりに、細い線が一本、走っている。落とされた首の、薄れかけた繋ぎ目。ふた月あまり隠し続けたそれを、聖爐の残光の下に、万の目へ晒した。
「……この首は、確かに一度、落とされました。皆さまが、ご覧になった通りに」
身廊が、痛いほど静まった。
「隠すのは、今日で終わりにします。この傷ごと、わたしです。……そして魂は、いまご覧いただいた通りの色です」
刎ねられた証と、白く灯った秤。二つ並べてやれば、あとは民が勝手に算盤を弾く。冤罪の深さは、隠した傷より、晒した傷のほうが雄弁に語るものだ。
外の広場から、地鳴りのような歓声が来た。祈る者、泣く者、隣人と抱き合う者、便乗して物を売り始める者。人間はいい。実に人間だ。
私は手を離し、袖の中で、焼け爛れた両腕をそっと検めた。……高くついたが、いい買い物だ。
種を明かせば、聖爐が量ったのは、器でも、器を動かす私でもない。秤に乗るのは魂ひとつ――腕の中の、この娘の魂だけだ。招かれざる同居人には、秤は目盛りをくれない。代わりに、火をくれる。私の両腕のこの火傷が、何よりの領収書だろう。秤は正直に働いた。悪魔を焼き、聖女を白と告げた。
《あとで、手当て、しますからね……っ》
魂が、光の中で泣いていた。
「悪魔に手当てをする聖女がいるか」
「――ば、馬鹿な」
壇上で、老人の声が、初めて割れた。
「馬鹿な! そんなはずはない、それが灯るなら、では、あの審問は」
「冤罪だった、ということになりますなあ」
言ったのは、審問席の端の老司教だった。温厚で通っている老人が、今日は氷の目をしていた。――念のため言っておくが、記録庫の番人だった老神官とは、別の年寄りだ。教会というところは、枯れた年寄りに事欠かない。
――後で知ったことだが、審査の前の晩、テオは震えながらこの老人の庵を叩き、出納の控えを預けていたのだという。命懸けの挙手の前に、保険の掛け方だけは、あの老神官仕込みだったわけだ。
「オズヴァルト殿。異端の罪とは、魂が魔に魅入られ、汚れ堕ちることを言う。……聖爐は、この乙女の魂が一点の曇りもなく聖なることを示した。魂が堕ちておらぬ以上、そこに異端の罪は、成り立たぬ」
老司教は、氷の目のまま続けた。
「あなたは、その聖爐を己の権限で却下し、代わりに採った文書で、聖なる魂の乙女を斬首台へ送った。……この責任、どう取られるおつもりか」
「わ、私は、手続きに則って」
「手続きと言えば」
老司教は、懐から綴りをもう一冊、取り出した。
「先だって、記録係の若者がもうひとつ、妙なものを見つけましてな。聖遺物庫の目録と、出納の帳簿。……ここ七年で、聖遺物の売却益と献金、しめて金貨二万枚分の行方が、目録から消えておる。決裁の署名は、すべて、あなたじゃ」
身廊が、今度こそ爆発した。
聖女殺しの上に、金か。聖職者の列からすら、抑えきれない怒声が上がる。オズヴァルトの派閥の僧たちが、一人、また一人と、目を伏せて老人から距離を取っていく。
内輪の離反というのは、見ていて胸のすくものだな。私は何もしていないのに。
「オズヴァルト枢機卿。教会法により、身柄を拘束します」
衛兵に両脇を固められても、老人は最後まで、慇懃な背筋を崩さなかった。
ただ、連行の間際。
「――わたくし、騙されておりましたのね」
涙ながらに叫んだのは、クラリッサだった。
「猊下がすべて仕組んだことでしたのね! 審問も、記録も! わたくし、何も知らずに……ああ、リーゼさま、わたくし、あなたを疑ったりして……!」
見事な手のひら返しだった。芸術的ですらある。
だが、連行されていくオズヴァルトは、その声に、ゆっくりと足を止めた。
肩越しに、クラリッサを見る。
老人の目は、慇懃でも、狼狽でもなく――ただ、商人の目だった。手持ちの最後の商品を値踏みする、あの目だ。
「……私だけが堕ちると、思うなよ」




