第8話 聖女の魂が、悪魔に説教をした
説教は、三晩続いた。
正確には、初日の晩に一言で刺され、残りの二晩は私が黙っていた。
《ザガン。ひとつだけ、聞かせてください》
救貧院の礼拝堂。蝋燭がひとつ。
「商品が買い主に説教か。契約書のどの条項に、その権利がある」
《説教ではありません。検品の申し入れです。……商品には、自分の値を下げる取り立てに、異議を申し立てる道理があるはずです。あなたの流儀でも》
……私の帳簿の言葉で、前置きをしてきたか。
《あなたは、わたしのためと言いながら――ご自分の怒りを、晴らしていませんか》
「……ほう」
《香炉の細工。あれは、わたしの名誉のためでしたか。それとも、あの人の化けの皮を剥いで、恥をかかせたかったからですか》
「同じことだろう。あの女の嘘が剥がれれば、お前の泥も剥がれる」
《同じではありません》
魂の声は、静かなまま、一歩も引かなかった。
《あなたのいう「わたしの名誉」は、嘘を壊した瓦礫の上には建ちません。わたしが生きてしてきたことの上にしか、建たないんです。あなたが昨日壇の上で手に入れかけたのも、名誉ではなくて――「クラリッサさまの恥」でした。それは、あなたの獲物です。わたしのものではありません》
言い返そうとして、開いた口が、そのまま閉じた。
六千年、値切られたことはあっても、査定し返されたことはない。
「……商品の分際で、目利きの帳簿に文句をつけるか」
《つけます。だってあなたの帳簿、貸し方に「怒り」が混ざっていますもの》
その晩は、それで終わった。
*
二日目の晩、私は柄にもなく、帳簿を検めていた。
比喩ではなく、実物のほうをだ。このひと月半の取り立ての記録。ヨナス、侍女、香炉の細工。
……認めよう。後半に行くほど、筆が荒い。
ヨナスのときは、奴が勝手に転がるのを待った。何もしなかった。美しい取り立てだった。香炉のときは、私が転がした。効率で。苛立ちで。そして市場を読み損ね、商品の泥を一枚半、戻した。
怒りは商売の邪魔だと、駆け出しの悪魔にすら教える。その基本を、私は忘れていた。
「……おい、商品」
《はい》
「明日から、方針を変える」
《はい》
「嘘を剥ぐのは、やめだ。……いや、やめん。だが、私の仕事ではなくする。嘘というのは放っておいても腐る。腐り落ちるのを早めるのは、周りが「本物」を思い出すことだ」
《……つまり?》
「お前が十年やってきたことを、そのまま続ける。祈る。治す。粥を炊く。それだけだ。名誉とやらは、私が塗り直すものではなく――連中が、思い出すものらしい」
《……つづきが、ありそうですね》
「それにな、検品して分かったことがある。泥には、層があるのだ。世間の誤解が塗った表の泥は、世間の目が変われば浮いて剥がれる。だが、嘘を吐いた本人の手で塗り込まれた芯の泥は――吐いた口が開くまで、底に貼りついて動かん。表を剥がしながら、芯の持ち主どもが自分の口を開く日を待つ。それが、この取り立ての正しい順路だ」
魂は、しばらく黙っていた。
それから、ふ、と温かくなった。
《その帳簿の付け方、好きです》
「商品が帳簿を評価するな」
*
三日目の晩に、事件がひとつあった。
礼拝堂で祈りの形を確かめていたとき、ふと、袖の内の魂に、素手で触れようとしたのだ。泥の残りを検めるつもりだった。いつもの、ただの検品だ。
指先が、灼けた。
「……っ」
《ザガン!?》
反射で手を引く。指先の影が、じゅ、と白く焦げて、煙が立った。黒曜石だった爪の先が、ほんのわずか、乳白に濁っている。……いや、これは濁りとも違う。悪魔の素材そのものが、聖性に触れて、別の何かへ変わりかけている。
「……なるほどな」
《なに、いまの……》
「お前の魂が、綺麗になりすぎた」
私は焦げた指先を検めながら、笑うしかなかった。
「聖性は悪魔には毒だ。契約の軛があるうちは、軛が手袋の代わりをする。だが泥が剥がれて、お前の魂が本来の輝きに近づくほど――素手では、触れられなくなる」
《そんな……じゃあ、泥が全部剥がれたら》
「取り立てた獲物が、取り立て人の手を焼くわけだ」
面白いだろう、と言おうとして、やめた。
魂が、震えていたからだ。恐怖ではない。あれは――心配、というやつだ。私の指を。悪魔の指を。
まったく、この商品は。
「案ずるな。契約がある限り、軛はある。私はお前の魂を、最後まで扱える。……検品の手順を変えるだけだ」
もっとも――軛を、自分で外せば話は別だがな。
悪魔が契約を破れば、格を質草に取られる。翼も、爪も、地獄での身分も、根こそぎだ。六千年の帳簿に、そんな赤字は一行もない。……これからも、あるまいよ。
《……絶対、ですよ》
「悪魔は契約を違えない」
そのときは、それだけの意味で言った。
*
方針転換の成果は、私が何もしないことで現れた。
救貧院の粥は毎朝炊かれる。老婆の腰は祈りで軽くなる。ニナは市場で「聖女さまの呪いだって言った奴、出てこい」と喧嘩を売って歩く(これは止めたが、聞かない)。
そして、民が、勝手に喋り始めた。
「呪いも何も、うちの倅の熱を下げてくれたのは、あの人だぞ。三年前だ」
「疫病の冬、最後まで残ったのは誰だった? 貴族連中は皆逃げたろ」
「そういや、処刑のとき……あの人、最後に何て言ったか知ってるか。『良い雨が降りますように』だとよ。呪う人間が、そんなこと言うかね」
十年の善行というのは、地中の根に似ている。上を刈られても、思い出させる水さえあれば、また芽を出す。
その芽の届く音を、大聖堂の奥で聞いた者がいる。
*
同じ週。聖女の私室。
「……参列は。今日の数は」
クラリッサの手の中で、報告の書付が、ぐしゃりと潰れた。
呪いの噂を流させたはずだった。なのに市場の声は、いつの間にか「疫病の冬に残ったのは誰だ」の話にすり替わっている。買った風向きが、勝手に戻っていく。
茶器が、床で割れた。
投げたのは自分なのに、割れた音に、自分がいちばん竦んだ。
「なぜ……なぜ戻ってくるのよ、ぜんぶ……!」
破片を拾い集める侍女たちは、誰も顔を上げない。理由を聞くことすら、もう怖いのだ。
*
泥の剥がれる速さで、向こうの傾き具合は分かる。
結構。静かに進む取り立てというのも、悪くない。
胸の内が、日に日に温かくなる。泥が、じわり、じわりと剥がれていく。香炉の細工の百倍遅く、百倍確かに。
「……効率の悪い商売だ」
《でも、確実です》
「ふん」
《ふふ》
*
同じ頃。大聖堂の書庫の隅で。
書記見習いのテオは、命じられた仕事をしていた。再審査に備え、前回の審問記録を清書し直す仕事だ。焼け残った綴りと、控えの写しを突き合わせて。
その指が、ある頁で止まった。
『聖爐ノ判定ヲ求ムル声アリシモ、審問長ノ権限ニヨリ却下ス』
審問長の署名は、枢機卿オズヴァルト。
テオは、焼け焦げた紙片と、その頁を、何度も見比べた。
聖爐。触れれば聖なる魂は白く灯るという、教会の宝具。使えば一発で分かったはずだ。あの聖女が、本物か、悪魔か。
「……なんで」
少年は、誰もいない書庫で呟いた。
「なんで、使わなかったんだ? 前の審問……おかしいよ、これ」
それに――綴りに挟まっていた聖遺物庫の出納の控えも、何度足し算しても、数字が合わない。
少年の背中を、冷たいものが伝った。おかしいのは、前の審問だけでは、ないのかもしれない。
そのとき、書庫の扉の向こうで、床板が、みし、と鳴った。
テオは咄嗟に蝋燭を吹き消し、綴りを胸に抱え込んだ。
足音は、扉の前でしばらく迷って――遠ざかっていった。
今夜のところは。




