第7話 聖女さまは、少し怖い
先に言っておくが、これは失敗の記録だ。
六千年の商いで、読み違いは何度かあった。だがこの日ほど、人間という市場を舐めていた日はない。
*
収穫祭の大祈祷。広場には万の民。壇上には二人の聖女。
段取りは単純だった。クラリッサが先に祈り、私が後に祈る。教会の連中は比べる気満々で、民は見世物を待っている。
そしてクラリッサの「奇跡」には、あの霊薬の香が要る。
私は、開始前にひとつだけ手を打った。香炉の炭を、湿ったものにすり替えた。火の回りが遅ければ、霊薬は祈りの山場に間に合わない。それだけの、小さな細工だ。
効率的で、確実で、誰も傷つかない。
――そのはずだった。
「聖女クラリッサさまの、祈りである」
香が焚かれ、クラリッサが祈り、病人の列が壇に上がる。
いつもなら、ここで「楽になった」の声が上がる。
上がらなかった。
「……あの、まだ、痛みが」
「もう少し、祈っていただければ」
クラリッサの完璧な微笑に、初めて、ひびが入った。額に汗。祈りの声が上擦る。香炉を振り返る目が、係の侍女を探して泳ぐ。
見ろ、あれが素顔だ。
私は勝ったと思った。ここまでは、な。
「――おい、見たか」
人垣のどこかで、声が上がった。
「リーゼさまが、睨んでたぞ。クラリッサさまの奇跡が効かないように」
「呪ったんじゃないのか」
「そういや、あの人……死から戻ったんだろ。そんなの、人間か?」
一つ目の声には、聞き覚えがあった。三日前から市場で「聖女生還の真相」を触れ回っていた男だ。オズヴァルトの飼っている扇動屋。二つ目、三つ目の声は――ただの民だった。
仕込みの声に、素の声が、続いたのだ。
「言われてみりゃ、首の傷、隠してるらしいぜ」
「死人が歩くのって、やっぱり、あれだろ、悪魔の」
「子供が懐いてるのも、なんか、こう、たぶらかしてるみたいで」
ざわめきが、変わっていく。
ひと月あまりかけて積んだ「生還の奇跡」の物語が、目の前で「死人の呪い」の物語に塗り替えられていく。
理解した。遅すぎたが。
民はクラリッサの奇跡を信じたくて信じていたのではない。「奇跡がある」という世界を信じたかったのだ。私はその世界に、いま、穴を開けた。穴を開けた者から順に、疑われる。それだけの話だ。
群衆心理を読み違えた。効率だけを読んで。
そして――胸の内側が、冷えた。
《ザガン……っ》
魂が震えている。万の目から注がれる疑念。恐怖。「化物かもしれない」という遠巻きの視線。それは呪詛と同じ質の、悪意だ。
泥が。
剥がしたはずの泥が、一枚、戻ってくる。
指先から、熱が引いていく。首の接合線が、襟の下で疼く。まずい。この体は、魂の輝きで生の側に留まっている。輝きが曇れば――
「リーゼさま? お顔の色が」
司祭の声が遠い。壇の縁が揺れる。視界の端で、自分の指先が、蝋のような色に戻りかけているのが見えた。
万の目の前で、死体に戻るわけにはいかない。それだけは、いかん。
「聖女さまっ!」
小さな体が、壇に駆け上がってきた。
ニナだ。止める衛兵の腕をくぐって、私の手を、両手で掴んだ。
「大丈夫! あたしが手ぇ握ってるから! ……みんな! 何見てんだよ! 聖女さまはあたしのおっ母を治したんだ! 呪いなんかじゃない! あんたらだって世話になったろ!」
痩せた少女が、万の民を、正面から睨みつけていた。
処刑の日と、同じ構図で。
ざわめきが、少しだけ、ばつの悪い沈黙に変わる。人間は、子供に正論を言われると黙る。六千年で数少ない、好ましい習性だ。
その隙に、私は「疲労のため」ということで壇を降りた。倒れずに、なんとか。
背中で、群衆が割れているのが聞こえた。
「呪いだって言うなら、聖爐にでもかけてみろよ」
「そうやって庇うのが、もうたぶらかされてる証拠なんだよ」
「うちの婆さんの咳を治したのはどっちの聖女さまだと思ってんだ」
割れている、ということは、まだ負けきってはいない。だが三日前まで、あの広場は割れてすらいなかったのだ。
そして広場の隅には、もうひとつの列ができていた。
壇に上がって「楽にならなかった」病人の家族たちが、係の僧に詰め寄っている。
「祭りの奇跡はどうしたんだよ」
「先週の献金、返してもらおうか。効かねえ祈りに払う銅貨はねえ」
信用で回る商売は、不発が一度あるだけで、屋台骨が音を立てる。
私の泥は戻された。だが向こうの帳場も、確かに軋んだ。……独り負けでは、ない。
*
帰りの荷馬車で、ニナはずっと私の袖を握っていた。
「……あたし、間違ってないよね」
「はい。ニナは、正しいことを言いました」
「じゃあ、なんで、みんなあんな顔すんの」
「正しさは、届くまでに時間がかかるんです。……荷物と同じで、重いものほど」
ニナは鼻をすすって、それきり黙った。子供に貸しを作られるのは、六千年でこれが初めてだ。利子をどう付ければいいのか、帳簿の書式が見当たらない。
*
救貧院に戻って、寝台に体を横たえる。
指先の色は、夜半にようやく戻った。泥は――一枚半、戻された。三週間分の取り立てが、半日で消えた計算だ。
「……読み違えた」
《はい》
「言い訳はしない。効率を取って、市場を読まなかった。私のしくじりだ」
《はい》
「……そこは慰めるところだろう、商品」
《いいえ》
魂の声は、静かだった。怒っているのとも、違う。
《今夜は、それだけです。続きは、あなたが眠ってから考えます》
悪魔は眠らないのだが、と言いかけて、やめた。
続きとやらが説教であることくらい、六千年生きていなくても分かる。
*
翌朝、大聖堂から使者が来た。
『聖女リーゼの真偽につき、改めて公開の審査を行う。日取りは追って沙汰する』
風向きを見ていた教会が、風下に走ったわけだ。
使者の去り際、随行の僧の袖に、見覚えのある紋が見えた。オズヴァルトの派の者だ。老人が、この機を逃すはずもない。
「……さて、商品。説教は歩きながらでいいか」
《いいえ。座ってください》
長くなりそうだ。
座る前に、ひとつだけ、帳簿を付けた。
貸し方――泥、一枚半。借り主――市場の扇動屋。連帯保証人――その飼い主の、枢機卿。
返済期日は、公開審査の日でいい。
利子は複利で付けておこう。私は、取り立ての優しい悪魔ではないのでな。




