第10話 枢機卿の帽子が、泥に落ちる
7/25〜26、誤って9話に10話の内容を投稿しておりました。
9話を正規の内容に修正いたしました。
お手数ですが、7/25〜26に9話をお読みくださった方は、改めてご覧いただけますと幸いです。
大変失礼いたしました。
僧籍剥奪の儀、というものがある。
大聖堂の正面階段で、衆人環視のもと、位階を示す品をひとつずつ取り上げていく。指輪。杖。肩帯。そして最後に、緋の帽子。
オズヴァルトは、その一つひとつを、無表情に差し出した。
「――金返せ、って言うんだよ、うちの婆さんの献金」
階段の下の群衆は、容赦がなかった。
「聖女さま殺した金で、いい酒飲んでたんだろ」
「おい見ろよ、指輪の痕だけ白いぜ。七年分の日焼けだ」
「静かにお祈りしてた俺の二十年、返せよなあ」
石は飛ばなかった。衛兵がいたからだが、言葉は石より飛ぶ。
階段の見える角地では、気の早い菓子売りが屋台を出していた。「堕ちた枢機卿さまへ、餞別の焼き菓子はいかが。半値だよ」。誰かの破滅は、誰かの商機だ。列の後ろの老婆は、儀式など見てもいなかった。ただ黙って、擦り切れた献金袋を握りしめていた。
老人は最後まで背筋を伸ばしていたが、緋の帽子が係の手で外され、剃り上げた頭が朝日に晒されたとき――群衆の誰かが、ぷっ、と噴き出した。
笑いは、伝染した。
怒声より、あれのほうが効く。恐れられてきた人間にとって、笑われることは、死の一種だ。
*
「――取引をしたい」
その日の夕、拘置された元枢機卿は、査問官に静かに言った。
「私は多くを知っている。あの審問が、誰の望みで始まったか。あの告白書が、どこから湧いたか。……私はな、乗っただけなのだよ。仕組んだ者は、別にいる。無論、渡りに船ではあった。あの娘は、聖遺物庫の目録を検めたいなどと言い出しておったのでな。信心は結構だが、蔵の帳簿にまで信心を持ち込まれては、困る者もおる」
査問官が身を乗り出す。
「名を言え」
「順序が違う。まず、私の処遇の話をだな」
老人は、堕ちてなお商人だった。手持ちの最後の商品――「クラリッサの秘密」を、いちばん高く売れる日まで、懐で温める腹だ。
その報せは、その夜のうちに、大聖堂の聖女の私室に届いた。
*
クラリッサは、鏡の前にいた。
猊下が、売る気だ。わたくしを。
「……ふ、ふふ」
笑うしかなかった。ぜんぶ、ぜんぶ、あの女が戻ってきてからだ。ヨナスが堕ちた。侍女が堕ちた。猊下が堕ちた。積み木が下から抜かれていく。次は、わたくしの番だと、誰もが思っている。
――昔から、そうだった。
聖女候補の筆頭だった、あのころ。祈りの所作は誰より美しいと、司教さまがたが口を揃えた。あの孤児が――手で触れるだけで病を治す女が、来るまでは。
一度だけ、縋るように神に祈った。わたくしにも力をください、と。三日祈って、熱を出して、寝込んで――治してくれたのは、神ではなく、あの女だった。
「無理をなさっていたのですね。クラリッサさまの祈りは、とても綺麗です」
綺麗。
力のない者に贈る、いちばん残酷な言葉だ。
だからわたくしは、自分で力を買った。それすら、あの女は見つけて――黙って、庇って、憐れんだ。
殺してやったのに、まだ憐れんでくる。生き返ってまで、憐れんでくる。
鏡の中の聖女は、完璧に微笑んでいた。頬だけが、こけていた。
「……まだよ」
クラリッサは鏡に向かって、口紅を引き直した。
まだ、詰んでいない。猊下の「商品」は、わたくしの秘密。なら、商品を無価値にすればいい。秘密とは、証明できなければただの世迷い言。
告白書。あれさえこの世から消えれば、猊下が何を歌おうと、証拠はない。
――それと、もうひとつ。
審査の場で聖爐を言い出し、帳簿まで掘り出した、あの小賢しい書記の子。
「……ねえ」
彼女は、部屋の隅に控える下男に、聖女の微笑みのままで言った。
「掃除を頼まれてくださる? 書庫に、鼠が出るのですって」
*
同じ夜。救貧院の礼拝堂。
私は、静寂の中に座っていた。
子供らは寝静まり、蝋燭は消え、雨も風もない夜だった。完全な、静けさ。
《眠らないのですか》
「悪魔は眠らん」
《……静かな夜、お嫌いでしょう》
「……なぜそう思う」
《静かだと、あなた、指で膝を叩くんです。とん、とん、って。気づいていました?》
気づいていなかった。
「……地獄はやかましいのでな。釜の音、鎖の音、取引の怒鳴り合い。六千年、あの喧噪の中で商売をしてきた。静けさというのは……在庫のない蔵に似ている。落ち着かん」
《ふふ。では、わたしが何か話しましょうか》
「いらん」
《粥の話。ニナの話。それか、あなたの腕の火傷、まだ痛むでしょう。その話》
「いらんと言っている」
言いながら、膝を叩いていた指が、止まっていることに気づいた。
在庫のない蔵。……いや、この蔵には、うるさい商品がひとつ、あるのだったな。
《……取り立てが終わったら、こういう夜も、終わりですね》
「当然だ。取り立てが済めば、お前は約定どおり、私のものだ。地獄の蔵の一等地で、永遠に自慢してやる」
《ふふ。……その蔵の中は、静かですか?》
「…………」
《でしたら、時々わたしが、内側から話しかけますね。とん、とん、って》
物分かりのいい商品は、いい商品だ。そのはずなのに、今夜の静けさは、なぜか、いつもより少しだけ質が悪かった。
*
三日後。
王都の大門を、見慣れない馬車の列がくぐった。黒塗りに、王家の紋。
王室監察院。国庫と法の番犬。教会の金貨二万枚の話が、ついに世俗の耳に届いたのだ。聖女を冤罪で処刑した、その処刑状を読み上げたのが王家の名代だったという事実も、一緒に。
「――王家が、動いた」
市場でその報せを聞いたとき、私は行商人の顔で、笑いを噛み殺すのに苦労した。
面子を潰された王権ほど、よく働く取り立て屋はいない。




