第11話 偽聖女さま、証拠を燃やしに行く
7/25〜26、誤って9話に10話の内容を投稿しておりました。
9話を正規の内容に修正いたしました。
お手数ですが、7/25〜26に9話をお読みくださった方は、改めてご覧いただけますと幸いです。
大変失礼いたしました。
監察というのは、蝗の群れに似ている。
黒い外套の役人たちは、三日で大聖堂の帳簿という帳簿を食い尽くし、四日目には聖具の目録に取りかかった。聖職者たちは廊下ですれ違うたび、聞かれてもいないことを弁明するようになった。
実に良い眺めだ。私は何もしていないのに。
《最近それ、口癖になっていますよ》
「事実だからな」
だが、敵が追い詰められて何もしなくなるかといえば、逆だ。
窮鼠は猫を噛む。窮鼠が聖女の皮を被っている場合、噛む相手はまず――鼠より弱い者になる。
*
その夜、書庫の裏の小部屋で、テオは遅くまで清書をしていた。
監察院に提出する記録の写し。少年の生真面目な字が、頁を埋めていく。蝋燭が半分まで減った頃、廊下の軋みに、少年は顔を上げた。
「……老師? こんな時間に――」
戸口に立っていたのは、老神官ではなかった。
見知らぬ男。下働きの服。だが手が、下働きの手ではない。
「騒ぐな、小僧」
男が戸を閉める。
「書き物が過ぎると、目を悪くする。……ちょうどいい、灯りを消してやろう」
テオは、インク壺を握りしめる。それしか、手元にない。
男が一歩、踏み出して――止まった。
部屋が、暗くなったのだ。蝋燭は点いたまま。なのに、暗い。光そのものが、何かに吸われて、萎んでいく。
「……なんだ? おい、なんだこれは」
「客が来ているとは知らず、失礼」
声は、部屋の四隅から同時にした。
「私はしがない、取り立て屋でね」
男の影が――男自身の、床に落ちた影が、首をもたげた。
影は形を持ち、壁を這い上がり、男を三重に取り巻く。目のあるべき場所に目はなく、口のあるべき場所には、耳まで裂けた嗤いだけ。
「ひっ……ぐ……!」
「動くな。動くと、影が驚く」
刃物が床に落ちる音。男は壁際に張り付いて、かちかちと歯を鳴らしている。
「さて。仕事の邪魔はしない主義だが、その小僧はうちの商品の、大事な取引先でね。手を出されると帳簿が狂う。……そこで相談だ」
影の嗤いが、男の鼻先まで近づく。
「歌え。誰に、いくらで、何を頼まれた。……ああ、嘘はやめておけ。悪魔は嘘の匂いが分かる。嘘をつくたび、お前の影を、一枚ずつ食う」
「し……知らねえ。俺は、ただの下働きで……」
「一枚」
影が、男の足元から、薄皮を剥ぐように何かを咥え上げた。蝋燭の灯りの下で、男の輪郭が、心持ち薄くなる。どこがどう欠けたのかは、本人にも分かるまい。分からないから、怖いのだ。
「ひっ……い、言う、言います……! し、下男頭から、金貨で……せ、聖女さま付きの、下男頭から……! 書記の小僧を、と……それと、か、監察に渡る前の、古い告白書があれば、燃やせと……!」
「告白書」
「あ、あの、処刑のときの……! それだけ、それだけです……!」
「よく歌った」
影が、すう、と引く。
蝋燭の灯りが戻った部屋で、男は腰を抜かしたまま、テオは壁際でインク壺を構えたまま、固まっていた。
「――大丈夫ですか、テオさん」
私は聖女の顔で、戸口から入り直す。夜の見回りの体で。
「せ、聖女さま……い、今、影が、影がですね」
「まあ。怖い夢でも見たのでしょう」
腰の抜けた男は、駆けつけた衛兵に引き渡された。聖女暗殺未遂ではなく、書記襲撃未遂。まだ、その段階だ。
「あ、あの、聖女さま」
引き渡しの後、テオがおずおずと袖を引いた。
「ぼく、見たんです。影が、その、動いて、しゃべって……」
「まあ。それは、怖かったでしょう」
「いえ、その……助けて、くれた気がして」
「テオさん」
私はいちばん聖女らしい微笑みで、少年の肩に手を置いた。
「疲れているのですね。今夜はもう、お休みなさい」
賢い子は、それ以上聞かなかった。賢い子は、詮索の値段を知っている。
ただ、去り際に一度だけ、深々と頭を下げていった。聖女にというより――部屋の隅の、暗がりへ向かって。……賢いというのは、そういうことだ。
《……ザガン》
袖の内で、魂が言った。
《あの脅し方は、少し、やりすぎです》
「刃物を持って子供の部屋に入る客には、適正価格だ」
《……ありがとう、ございました。あの子を守ってくれて》
「商品の周りを掃除しただけだ」
《はい。……お掃除、お上手でしたよ》
まったく、この商品は、査定の口が減らない。
*
男の自白は、調書になった。
「聖女さま付きの下男頭」までしか辿れないのが、あの女の狡いところだ。手袋を三枚重ねて、自分の指紋は残さない。
だが、収穫は思わぬ筋から来た。
翌朝、私は礼拝帰りのテオを呼び止めて、水を向けた。
「老神官さまは、お変わりありませんか。……あの方、几帳面な方でしたね。何か、あなたに預けてはいきませんでしたか」
水の向け方にも、作法がある。誰に聞かれても、庵を追われた年寄りを案じる世間話にしか聞こえない程度に、浅く。それでも賢い子には届く程度に、深く。
刺客は「古い告白書を燃やせ」と言われたと歌った。つまり、燃やし残しを敵が恐れている。ならば、拾って隠しそうな人間の見当は、もう付いている。
少年は、はっとした顔になった。庵を畳んで田舎へ移った老神官が、去り際に「わしに何かあったら開けなさい」と押し付けていった、小さな櫃。
その日の夕、テオは青い顔で、櫃の中身を監察官へ持ち込んだ。
櫃の底から出てきたのは、二枚の紙。
古い、書き損じ。
どちらも『我ガ身ノ栄華ト引キ換エニ――』で始まる、あの告白書の、文面の下書きだった。言い回しを直した跡。文字の練習をした跡。リーゼの筆跡に、似せていく過程の跡。
二枚の紙には、老神官の手蹟の書き置きが添えられていた。いつ、クラリッサ様付きの侍女に頼まれて記録庫の書式紙を渡したか。翌朝、どこの焚き口でこの書き損じを拾ったか。――日付入りの、几帳面な保険だった。
老神官は、記録庫の番人だった。頼まれて紙を都合し、怖くなって、書き損じを保険に拾い隠していた――書き置きの通りなら、そういうことになる。ヨナスが堕ちても、その飼い主はまだ祭壇の上に座っていた。老人が庵を畳んで田舎へ逃れたのは、その頃だ。そして去り際に、保険だけは、手元でいちばん信用のおける若い手に――自分の下で写本を続けてきた弟子に、残していったわけだ。
老人というのは、失うものが減るほど、静かに頑固になる。前にも言ったな。
「これは……偽造の、証拠になり得ますな」
監察官が呟いたその言葉は、その日のうちに封蝋されて、王城へ走った。
クラリッサは知らない。
証拠を燃やそうと放った手が、証拠を王家の金庫へ運び込んだことを。
*
そして、知らないまま――彼女は、最後の手札を切る。
その夜、聖女の私室で、香が焚かれた。祈りのためではない香だ。呼ばれたのは、下男頭。この手の用を頼める者は、もう彼しか残っていない。
「近く、大祈祷があるわ。王家の監察官さまも、臨席なさる。……救貧院に籠るあの女が、必ず人前に出てくるのは、もう、その日くらいのもの」
クラリッサの声は、聖歌のように澄んでいた。
「腕の立つ、わたくしに辿れない筋の者を、雇いなさい。……その祈りの日に――あの女を、殺させなさい」




