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冤罪で斬首された聖女が、三日後の朝、微笑んで帰ってきた。中身は激怒した悪魔――嘘つきどもから利子ごと取り立てます  作者: 灯野ましろ


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第12話 刃は祈りの前で止まらない

収穫祭以来の大祈祷の朝、私は妙な胸騒ぎがしていた。


正確には、胸騒ぎがする、という人間の感覚を、この体が勝手にやっていた。三ヶ月も生者の側に寄ると、器というのは気を回すようになるらしい。


《今日は、およしになったら》


「馬鹿を言え。王家の監察官が臨席する祈祷だぞ。教会と王国の顔合わせの場だ。ここで顔を売らずにどうする」


《……胸騒ぎ、するんでしょう》


「しない」


《いま、しました》


商品と器が結託すると、悪魔の面目は形無しだ。


   *


大聖堂の身廊は、久々に満ちていた。


貴族席に王室監察官の黒い外套。民の席にニナと救貧院の子ら。聖爐(せいろ)の一件以来、「リーゼさま」の祈りには人が集まる。クラリッサの祈祷は、このところ、めっきり空席が目立つそうだが。


祈りは、恙なく進んだ。中盤までは。


香炉が入れ替わる、その一瞬の人の流れに紛れて、男がひとり、列を離れた。


巡礼の外套。フードの下の目が、まっすぐ私を見ていた。ああ、あの目は知っている。取引の場で何度も見た。後がない人間の目だ。


《ザガン――右!》


分かっている。


分かっていて、私は動かなかった。


避けるのは簡単だ。影で薙ぐのも、床に沈めるのも、心臓を握るのも。だが万の目の前で悪魔の業を使えば、三ヶ月の積み上げが泥に還る。かといって、人並み外れた身のこなしで躱してみせても、同じことだ。刃を見てから避ける聖女など――「死人」の疑いに、証を一枚くれてやるようなものだ。それに――


刃が、肩に入った。


「――リーゼさまっ!!」


悲鳴。倒れる燭台。押し寄せる衛兵。


私は、祭壇に手をついたまま、崩れなかった。肩口から、赤いものが僧衣を伝う。


……ほう。


血が、出るのだな。もう。


三ヶ月前、この体は血の一滴も流さない骸だった。泥が剥がれ、生の側に寄って、いまや刺されれば人並みに血が出る。痛みも、人並みにある。骨の間で刃が軋む、この鮮明な痛み。


悪魔の腹の底から、久しく忘れていた熱が、噴き上がった。


私の商品の、器に。


私の、リーゼの体に、傷を。


《ザガン、だめ》


影が、床で膨れかけていた。


《だめ。顔が、悪魔になっています。……わたしは大丈夫。痛みには、慣れていますから。あなたが、慣れていないだけ》


「……っ」


《祈りましょう。続きを。それがいちばん、あの人に効きます》


私は、膨れかけた影を、襟の内に呑み込んだ。


そして、刺さった刃をそのままに、祈りの続きを、口にした。


「――主よ。この者の迷いを、赦したまえ」


身廊が、水を打ったように静まった。


肩に刃を受けたまま、血を流しながら、聖女は祈っている。実行者の男は呆けた顔で、自分の手と私の顔を見比べている。刺した。確かに刺した。なのに、倒れない。祈っている。赦している。


「ば、化物……そうだ、化物なんだよ! 痛みがねえんだ、死人だからな! あ、あんたらも見ただろ、刺されて祈る人間が、いるかよ……!」


男は身廊を見回した。味方を探したのだ。あるいはせめて、頷いてくれる目を。


万の目は、ひとつも頷かなかった。祭壇の聖女の肩からは、赤い、生きた血が、一筋ずつ床石へ落ちている。死人には流れないものが、皆の目の前で流れ続けている。それを指さして「死人だ」と叫ぶ声は、もう誰の耳にも、言い訳の色をしていた。


自分の言葉がどこにも刺さらないと分かった、その顔から――何かが、決壊した。


「……ちが……いや……本物だ。本物の聖女さまだ……俺は、俺はなんてことを……!」


衛兵に組み伏せられながら、男は身廊中に響く声で、叫んだ。


「た、頼まれたんだ! 金貨五十枚で……下男頭だ! 聖女さま付きの、下男頭に、祈りの日にあの女を殺せと……!」


下男頭。


その肩書きに、身廊のあちこちで、はっとした顔が上がった。


「……おい。この前の、書記の子が襲われた一件も、確か」


「下男頭って言ってたぞ。調書に載ったって」


「聖女さま付きの下男頭ってことは、つまり――」


誰も、名前を口にしなかった。する必要がなかった。万の目が、一斉に、貴賓席のクラリッサへ向いた。


「……なんのことか、わたくし、まったく存じませんわ。皆さま、お聞きになりまして? 祈りの場に刃物を持ち込んだ乱心者の、言葉ですのよ」


正しい切り返しだ。少し前までなら、それで通っただろう。


だが、遅かった。先日の書記襲撃の調書にも、「下男頭」の名がある。乱心者でも、二人が同じ名を歌えば――それは偶然ではなく、調書と呼ばれる。


貴賓席の周りから、人が引いていくのが見えた。さっきまで彼女の隣で扇を揺らしていた伯爵夫人が、三席ぶん向こうで知らない顔をしている。沈む船から降りる速さだけは、貴族というのは誰より早い。


王室監察官が、静かに立ち上がるのが見えた。


   *


その日の夕刻、王城から布告が出た。


『聖女リーゼ暗殺未遂につき、王国は本件を教会の内紛とみなさず、王国法の下に置く。関係者の身柄と証拠一切を、王室監察院へ移管すべし』


教会の中の争いである間は、教会の飼い犬が裁く。だが王家の監察官の目の前で聖女に刃を向けたことで、これは王国の事件になった。


処刑状に名代の署名をした、負い目のある王権だ。誰より、よく働く。冤罪の聖女に報いる機会を、王家は喉から手が出るほど欲しがっていた。


「詰みが見えてきたな、商品」


救貧院の寝台で、肩の傷を検めながら私は言った。傷は、リーゼの治癒がひとつ、内側から灯って、もう塞がり始めている。便利な体だ。


《笑いごとではありません。刺されたんですよ、あなた》


「お前の体がな」


《あなたの、痛みでしょう》


……この商品は、たまに、値札にないところを突く。


   *


同じ夜。聖女の私室で、クラリッサは暖炉の前にいた。


燃やしたのだ。何もかも。霊薬の瓶は井戸へ。下男頭には金を持たせて国境の外へ。そして告白書――あの偽造の大元は、刺客がしくじったあの晩のうちに、監察の封がかかる前の猊下の書庫へ忍び込み、自分の手で持ち出して、火にくべた。


「……大丈夫。大丈夫よ」


灰も、残っていない。


猊下が何を歌おうと、ヨナスが何を喚こうと、物証はもうこの世にない。偽造を証明できる者は、いない。


――王城の金庫の奥で、封蝋がひとつ、眠っている。


中身は、老神官の櫃から出た、二枚の書き損じ。彼女が焼き尽くしたはずの嘘が、いちばん古い形のまま、審問の日を待っている。

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