第5話 元護衛、聖騎士団を追われる
「――何か、お困りですか?」
あの晩、私が戸口からそう声をかけると、少年は焼け残りの紙片を胸に抱いたまま、石のように固まった。
救貧院へ戻る夜道で、記録庫の窓から漏れる焦げ臭さに気づいた――表向きは、そういうことにしてある。暖炉には燃やし損ねた審問の綴り。少年の手と袖は煤だらけ。懐紙からは、焼け焦げた紙の耳が覗いている。この部屋で今夜焼かれた綴りは、一冊しかない。なら、懐の切れ端の出どころなど、推量にも値しない。――そこまでは、梁の上など持ち出さずとも、表向きの理屈で届く。そして届いていることは、あの賢い子にも分かっていたろう。
警戒は、していただろう。当然だ。だが、その紙片が誰の審問の記録かを、少年は知っていた。書かれた本人に渡すだけなら、それは密告ではない――生真面目な頭が必死にその理屈を組み立てて、紙を抱える指の力が緩むまで、私は戸口で、黙って待ってやった。
喋らせる気は、なかった。妹を人質に取られた口は、こじ開けたところで碌な音が出ない。私は差し出された紙片を、少年の手ごと包んで――そのまま、そっと押し返した。
「これは、元あった場所へ。……大丈夫。あなたは何も見ていないし、何も、拾っていません。あとのことは、朝が見つけてくれます」
少年が震える手で紙片を暖炉の灰の上へ戻し、逃げるように去るのを見届けてから、私はひとつだけ、手を貸した。棚の陰に落ちていた革手袋――あの男が慌てて出ていくときに落とした片割れを、燃え残りの綴りの、すぐ横へ置き直したのだ。証拠というのは、揃えて置いてやるのが親切というものだ。
翌朝、記録庫の番人の老神官が、いつもの点検で見つけた。荒らされた棚。燃え損ねた審問綴り。そして、見覚えのある革手袋。庵ごと脅された年寄りは、もう教会を信用していない。だから教会を通さず、古い伝手で、聖騎士団長へ持ち込んだ。剣の組織は、書類の組織を昔から嫌っている。
出来のいい「発覚」というのは、どんな密告よりも強い。誰も漏らしていないのだから、口封じのしようがない。あの小僧の名は、提出の経路にも、調書にも、どこにも残っていない。
三日後、聖騎士団の査問室に、ヨナスは立たされていた。
私はといえば、「証人」として呼ばれている。聖女生還の審査中の身だが、断る理由がない。むしろ特等席だ。
「聖騎士ヨナス。四日前の夜半、記録庫にて審問記録を焼却した疑いがある。相違ないか」
団長は岩のような男だった。祭壇より演習場が似合う。こういう手合いは、詭弁が通じないから好ましい。
「……記録の、整理をしていただけです」
一つ目の言い訳。
「整理。ほう」
団長は焦げた綴りを机に置いた。あの焼け残りの紙片が、欠けた歯のようにそこへ嵌まる。その横に、革手袋が片方、無造作に投げられた。
「これは貴様の支給品だな。番号も控えてある」
ヨナスの喉が、上下した。
「整理で頁を破り、暖炉にくべるのか。ならば貴様の寝台も明日から暖炉で整理してやろう」
「そ、それは」
「しかも焼いたのは、聖女リーゼ審問の証言原本。……なぜ今さら焼く必要がある。もう終わった審問だぞ。それも、つい先日な」
ヨナスの目が泳いだ。泳いだ先に、私がいた。
聖女の顔で、心配そうに眉を下げてやる。
「ひっ……」
「どうした、ヨナス」
「お、俺は、命じられたんです!」
二つ目の言い訳。来たな。
「枢機卿様の……オズヴァルト様のご意向だ! 証言を、記録を、整えておけと! 俺の一存じゃない! ……そうだ、借財だ。賭場の借りを、猊下の府に肩代わりされて、証文ごと握られてたんだ! 逆らえば剣も職も失って、牢で……だから、審問でも、聞かれたことに頷くしか……!」
査問室がざわついた。枢機卿の名は、剣の男たちの間でも重い。
だが、そのざわめきの中へ、澄ました声が滑り込んだ。
「異なことを申しますな」
いつの間に来ていたのか、扉口にオズヴァルト本人が立っていた。老いた慇懃な微笑のまま。
「私が命じたのは『記憶を正しく保て』ということのみ。記録を焼けなどと、誰が言いますか。……借財? はて。教会は困窮した騎士に施しをすることも、ございますが。それを恩と数えるか脅しと数えるかは、受けた側の心根の問題でしょうなあ。……哀れな男だ。追い詰められて、恩人の名を盾にするとは」
「なっ……嘘だ! あんたは確かに、証人の口は閉じてこそ美しいと――」
「ヨナス殿」
老人は悲しげに首を振った。
「その言葉が事実なら、なぜお前は記録を焼いた。口を閉じるべきは、お前自身だったろうに」
見事なものだ。蜥蜴の尻尾切りにも、年季というものがある。
「……『記憶を正しく保て』、ですか」
低い声で言ったのは、団長だった。
「審問の証人に、枢機卿猊下がわざわざ念を押して回られる。それは、どういう場合ですかな」
「剣の方に、書類仕事の機微は分かりますまい」
老人は微笑で受け流した。受け流されたが――査問の書記が、いまのやり取りを一言も漏らさず調書に書き付けたのを、私は見ていた。老人は、その場では逃げ切った。だが逃げ切るたびに、疑いの調書と、覚えている人間を増やしている。ヨナスと同じ間違いを、上等な作法でやっているだけだ。
ときに、その老人の指には、位階の印章のほかに、大粒の紫玉がひとつ光っていた。ああいう石は、教会の宝物庫の目録でしか見かけない品だ。……蔵の番人が、蔵の品を身に着けるか。聖職者というより、これは同業の匂いだ。信仰を売り買いで回してきた人間の指は、石の値打ちを隠せない。帳簿に付けておこう。
ヨナスは口を開け、閉じ、それから――何かが折れる音が、聞こえた気がした。
「証人リーゼ殿」
団長が私を見た。
「処刑審問の夜、被告に不審な行動はあったか」
私は少し黙って――リーゼなら黙る間だ――静かに答えた。
「連れて行かれる前の晩――まだ、わたしが自由に歩けた、審問の前の晩のことです。ヨナスさんがクラリッサさまのお部屋に入るのを見ました。半刻ほどで、出てこられました」
「……くそっ、くそ……!」
「ですが」
私は続けた。ここからが本番だ。
「ヨナスさんは、わたしの護衛を三年務めてくださった方です。雨の日に、自分の外套を巡礼の子にかけるような方でした。……脅されていた事情は、先ほど、この場でうかがいました。それで罪が消えるとは、わたしは思いません。ですが、わたしは、この方を許します」
査問室が、静まり返った。
それから、ゆっくりと沸騰した。
「……許す、だと」
「殺された側が許すと言ってるんだぞ」
「じゃあこいつは、許してもらわなきゃならんことを、したってことじゃねえか」
そういうことになるな。皆まで言うのはやめておこう。客が自分で気づいた値打ちものほど、高く売れる。
《……ザガン》
袖の内で、魂が小さく言った。
《いまの「許します」は、わたしの気持ちと、同じでした》
「文句なら聞かんぞ。お前の口は、いまは私の商売道具だ」
《存じています。ですから、これも零しているだけです。……本当に、許したいんです。あの人のことは》
「甘いな、商品」
《でも、嘘は許しません。あの人がついた嘘だけは、剥がれるべきです》
――ほう。
聖女というのは、時々、悪魔より線引きが正確だ。
*
判決は、その日のうちに出た。
聖騎士位の剥奪。騎士団からの追放。偽証および記録焼却の疑いにより、身柄は審問会へ移送。
罪状を読み上げられる間、ヨナスはずっと、抜け殻のように立っていた。剣一本で得た聖騎士の身分も、聖女付き護衛として積み上げた三年の誉れも、ほんの半月足らずの嘘で失われていく。
私は何もしていない。
強いて言えば、密室で一度笑ってみせたのと、落とし物の手袋をひとつ、拾って置き直してやっただけだ。
その夜、救貧院の粗末な寝台で、私は奇妙な感覚に目を覚ました。
袖の内――いや、この胸の内側が、温かい。
魂を検めて、分かった。泥が一枚、剥がれている。どす黒い泥の膜が、端から一枚、確かに薄くなっている。
「……ほう」
嘘が一枚剥がれれば、泥も一枚剥がれる。理屈通りだ。理屈通りだが、思ったより――いいものだな、これは。
試しに、指先に祈りを乗せてみた。
小さな、しかし紛れもない治癒の光が、ぽ、と灯った。昨日までは出なかった本物だ。
「在庫がひとつ、戻ったぞ、商品」
《……はい》
魂の声は、少しだけ、泣いているように聞こえた。
*
移送の朝、私は「見送りの聖女」として、護送車の通りに立った。慈悲深いことで評判の聖女は、罪人の門出も見送るのだ。
鉄格子の窓から、ヨナスがこちらを見つけた。
「……俺だけじゃない」
掠れた声が、格子越しに落ちてきた。
「俺だけじゃないんだ! あの日、証言したのは俺だけじゃない! 侍女たちも、あの女に頼まれて、嘘を――!」
護送の衛兵が窓を叩いて黙らせる。車輪が軋んで、声は遠ざかっていった。
だが、遅い。通りには市の立つ日の人出があり、いまの叫びは、五十の耳が拾った。夕方には五百になり、明日には調書より速く大聖堂へ届くだろう。
「――侍女たち、だそうだ」
私は袖の内に囁いて、帳簿の次の頁を、頭の中で開いた。




