第4話 元護衛は、夜中に記録を焼きに行く
六千年の取り立てで学んだことだが、後ろ暗い紙を抱えて追い詰められた人間のやることは、およそ三通りに落ちる。
祈るか、逃げるか、燃やすか。
ヨナスは三つ目を選んだ。私の予想通りに。
もっとも、燃やす前に、寄り道をひとつしている。
*
翌る日の、日暮れどき。大聖堂の裏手、記録庫の番人が住まう小さな庵を、元聖騎士が訪ねた。
番人は、腰の曲がった老神官だ。処刑審問の日、たった一人「聖爐の判定を」と声を上げて、老いた口を枢機卿に封じられた男でもある。
「……ヨナス殿か。珍しい」
「じいさん。あんた、近ごろ、昔の審問の話をしてるらしいな」
「はて。年寄りの繰り言など、誰も聞きやせんよ」
「聞く奴が出てきたから言ってるんだ」
ヨナスの手が、老人の襟元を掴んだ。剣だこのある、大きな手だ。
「あの日のことは忘れろ。聖爐がどうの、記録がどうの……二度と口にするな。あんたの歳で、庵を追われたら、どうなるか分かるだろう」
老神官は、抗わない。
ただ、静かに目を伏せて、「……主のお導きのままに」とだけ言った。
梁の上の私は、その伏せた目が、少しも怯えていないことに気づいた。そして、伏せた目の端が、一度だけ、部屋の隅の古びた櫃へ流れたことにも。老人というのは、失うものが減るほど静かに頑固になり――祈るより先に、保険を隠す生き物だ。
それにしても。「口は閉じてこそ美しい」と言われて、脅しで済ませるか。あの言いつけは、その気になれば、もっと暗い意味にも取れたはずだ。取らなかったのは、度胸が足りないのか、良心の燃え残りか。どちらにせよ、悪事には身の丈というものがある。丈に合わない悪事を請け負った男の末路は、大抵、安い。
届かぬ声で、私は梁の上から呟いた。ヨナス、お前が今夜黙らせたつもりのその口は、ひとつも黙っていないぞ。
*
そして夜半の大聖堂。記録庫の窓に、灯りがひとつ。
私は屋根の梁の上から、それを眺めている。姿は影に溶かしてある。悪魔の基本技能だが、聖女の体でやると妙な背徳感があるな。
《……ザガン》
袖の内から、声がした。
ここ数日、魂の様子がおかしい。震えるだけだったのが、時折、言葉のかたちを取りかけている。泥が二枚、三枚と浮きかけているせいだ。名誉というのは、思ったより効く。
《あの人を、どうするのですか》
「ほう。ついに喋ったか、商品」
《はい。……あなたの商品が、聞いています。あの人を、どうするのですか》
訂正もせず、恨み言もなく、自分を商品と呼び返してきた。死人の魂というのは大抵、わめくか、泣くか、呪うかだ。この静けさは、六千年の帳簿にも載っていない。
「言っておくが、商品に発言権はないぞ。お前は魂を売った身だ。売られた品が、買い主の取り立てに注文をつける条項は、契約書のどこにもない」
《存じています。十年前、わたしが自分で署名しましたから》
「なら、なぜ聞く」
《注文では、ありません。……魂だけになると、思ったことが、そのまま零れてしまうのです。口を閉じようにも、閉じる口が、もうないので》
零れる、か。始末の悪い在庫だ。
ちなみに、こちらの返事も喉は使わん。魂との問答は、内側の声で済む。傍から見れば、聖女が黙って夜空を眺めているだけだ。……以後の問答も、外には一言も漏れていないと思ってもらっていい。
「好きに零せ。拾うかどうかは、私が決める。……それより見ろ。お前の元護衛が、いい働きをしている」
記録庫の中では、ヨナスが棚をひっくり返していた。
探しているのは処刑審問の記録綴りだろう。証言の原本。あの日、誰が何を言ったかの、正式な控え。
写しなら、教会の書庫に幾らでもある。だが、どれも教会の書庫の中だ。教会に都合の悪い紙が、教会の書庫で生き延びられると思うか。先の審問も、そうやって闇に葬られた。
原本さえ消せば、あの日の真実は敵の管理下だけに残る――つまり、いつでも消せる。ヨナスの狙いは、悪くない。惜しむらくは、その手際が雑なことだ。
震える手で綴りを、蝋燭の火にかざす。
だが分厚い束は、端から焦げるばかりで、なかなか芯まで火が回らない。
「な、何を、しておいでで――」
若い声がした。
記録庫の入り口に、書記官見習いの少年が立っていた。夜番だろう、インク壺を抱えたまま、目を丸くしている。テオといったか。老神官の下で綴りの写しを作っている、生真面目だけが取り柄の子だ。
「……っ、なんでもない。記録の、整理だ」
「整理って、それ、燃えて」
「整理だと言っている!」
ヨナスが怒鳴り、テオの胸ぐらを掴んだ。
《ザガン……!》
「待て。まだだ」
《でも》
「口封じに来た男が、目撃者を増やしている。この見事な墓穴を、途中で埋めてやる義理はない」
記録庫の中では、脅しの二幕目が始まっていた。
ヨナスは少年を壁に押し付けて、低い声で言う。
「いいか、お前は何も見ていない。……お前、田舎に妹がいたな。仕送りをしてるんだろう。書記の職を失えば、どうなるかな」
ああ、いけないな、ヨナス。
脅しというのは、相手が諦めて口をつぐむ急所を突くものだ。妹のような、一生かけて守りたいものを盾に取れば――確かに、テオは今日は黙る。喋れば妹への仕送りが止まるのだから、黙るしかない。
だが、それは高くつく黙らせ方だ。守りたいものを人質に取られた人間は、その鎖が緩んだ瞬間、誰より速くお前の喉笛に牙を立てる。今日の沈黙と引き換えに、明日の敵を一人こしらえた――そういう買い物だぞ、ヨナス。
「……はい。何も、見ていません」
テオは俯いて、そう言った。
ヨナスは肩で息をして、焦げた綴りを暖炉に押し込み、出て行く。よほど手が震えていたのだろう、革手袋を片方、落としていったことにも気づかずに。足音が完全に消えるまで、少年は動けずにいる。
それから、ゆっくりと、暖炉の前に膝をつく。
燃え残りを、火箸で引き出している。
《……あの子》
「見ろ。ああいうのを、火事場の証人と言う」
焼け焦げた紙片。だがヨナスは急ぎすぎたのだな。厚い綴りは、端が焦げただけで芯が残る。
テオは煤だらけの紙片を懐紙に包み、震える手で、懐の奥へしまい込む。
*
帰り道、というのも妙な言い方だが、救貧院への夜道で、魂がまた口をきいた。今夜は、よく喋る夜だ。
《ヨナスさん、昔は、優しい人だったんです》
「ほう」
《巡礼の護衛で、雨の日に、自分の外套を子供にかけて、自分はずぶ濡れで歩くような人でした》
「それが主人の処刑で下を向いて、今夜は年寄りの記録を燃やして、小僧の妹を脅した」
《……はい》
「人間はそういう生き物だ、商品。優しさは天気と同じでな。晴れの日には誰でも優しい」
《……優しくは、なかったですけど。あなたは、来てくれました。皆がわたしを捨てた雨の夜に、お墓の中まで》
手が、止まった。
……この商品は、時々、値札にない口をきく。
「取り立てに来ただけだ」
《はい》
「濡れたのは営業経費だ」
《はい》
分かっているのかいないのか、袖の内の魂は、少しだけ温かくなる。
*
その頃、記録庫の裏の小部屋で。
テオは懐紙を開いて、焼け残った紙片を、灯りにかざしていた。
読める文字は多くない。だが、日付と、署名の並びと、そして一行。
――「聖爐ノ判定ヲ求ムル声アリシモ――」
少年は、長いこと動かない。
妹の顔でも、浮かんでいたのだろう。書記の職を失えば、仕送りが止まる。喋れば、終わり――それくらいの算盤は、あの齢でも弾ける。
分かっていて、それでも指は、この紙片を捨てられなかった。震える手で懐の奥へ隠し、誰もいない部屋で、縋るように呟く。
「……でも。これ、いつか、誰かに、見せないと」
「――まあ。こんな時間まで、感心ですね」
戸口で、柔らかい声がした。
手燭の灯りをかざした聖女が、微笑んで立っていた。クラリッサさまでは、ない。死から戻ったほうの――リーゼさまが。
「テオさん、でしたね。……何か、お困りですか?」




