第3話 その頃、偽りの聖女は眠れない
雨の音で、クラリッサは目を覚ました。
いや――眠ってなど、いなかった。
祭壇のように整えられた聖女の寝室で、彼女は処刑の夜から、まともに眠っていない。目を閉じるたび、処刑台の女がこちらを見る。斬られる寸前、群衆を見渡した、あの静かな目が。
「……生きているはず、ないのよ」
わたくしはこの目で見た。首が落ちるのを。彼女が終わるのを。
見届けるために、いちばん前の席に、座ってやったのだから。
――わたくしが、終わらせたのを。
クラリッサは寝台を降り、鏡の前に立った。
映っているのは聖女だ。誰が見ても聖女だ。柔らかく波打つ髪、慈愛のかたちに整えた眉。十年かけて作り上げた、完璧な「それらしさ」。
足りなかったのは、力だけ。
もともと、聖女候補の筆頭はクラリッサだった。家柄も、立ち居振る舞いも、祈りの美しさも、すべて彼女が上だった。あとから来たのだ、あの女は。孤児上がりの、礼儀も知らない小娘のくせに、手で触れれば病が治った。
それだけで、ぜんぶ、ひっくり返る。
だからクラリッサは「奇跡」を買った。東方の霊薬。高価だが、よく効く。痛みが薄れ、熱が引き、群衆は聖女さまと呼ぶ。誰も困らない。誰も傷つかない。
――一度だけ、あの女に見られた。
香の陰で薬瓶を仕込むところを、リーゼに、はっきりと。
終わったと思った。なのにあの女は、何も言わなかった。それどころか翌日、「クラリッサさまの祈りには、人を安心させる力があります」などと、皆の前で。
庇われたのだ。
憐れまれたのだ。
施しをするように、黙っていてくれたのだ。
あの日からずっと、喉の奥に小骨のように刺さっている。彼女が生きている限り、わたくしは偽物のまま。彼女の沈黙という施しの上で、一生、飼われ続ける。
だから、あれは正しかった。あの処刑は正しかったのだ。
扉が乱暴に叩かれたのは、そのときだった。
「クラリッサ様……! ヨナスです、開けてください……!」
こんな夜更けに、護衛が聖女の私室を訪ねる。ほんの数日前の、審問前夜と同じ構図で。
雨に濡れた聖騎士は、蝋燭の灯りの下で、幽鬼のような顔をしていた。昼に大聖堂の奥へ駆け込んだきり、夜更けまでどこをどう彷徨っていたのか、外套は絞れるほどに濡れている。
「本物です」
「……なんですって?」
「あれは本物だ! 声も、仕草も、あの目も……! いや、分からねえ……途中まで、確かにあの人だった。なのに最後に、嗤ったんだ。あの人が絶対にしない嗤い方で……! だが、あいつは知ってたんです。審問の前の晩、俺があなたの部屋に呼ばれたことを――本人しか、知りようのないことを!」
「お黙りなさい」
クラリッサは自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「あれは悪魔憑きよ。処刑された異端者が歩いているの。それ以外に何があるというの」
「なら、なんで民衆は拝んでるんですか」
答えられなかった。
代わりに答えたのは、扉口の、別の声だった。
「――拝むでしょうな。民とは、そういうものです」
枢機卿オズヴァルトは、雨に濡れた様子もなく、そこに立っていた。老いた慇懃な微笑のまま、部屋に入り、勧められてもいないのに、椅子に座る。
「布告はしておきました。『真偽につき審査中』と。時間は稼げます」
「審査ですって? あんなもの、審査するまでもなく」
「クラリッサ様」
老人は、孫を諭す声で言った。
「今朝までに、大聖堂へ届いた投書が四百を超えております。半分は『悪魔憑きを焼け』。もう半分は『聖女さまの生還を寿げ』。……この割れ方が、よろしくない」
「割れているのなら、結構なことでは」
「処刑の日までは、割れなかったのです」
老人は指を組んだ。
「あのとき民は一枚岩だった。悪魔と契約した裏切り者――物語をこちらが握っていたからです。それが今や真っ二つだ。生前に病を治された者どもが、恐れる声に食ってかかっておる。市場では生還の真偽で殴り合いがすでに二件。……クラリッサ様。物語というのは、割れた瞬間から、審査が始まるのですよ」
クラリッサは窓辺に目をやった。
雨の切れ間の往来で、人だかりがひとつ、揺れている。言い争いだ。「悪魔憑きだぞ、あれは」「口を慎め、うちの倅を治してくださった方だ」。怒鳴り合うどちらの口からも、同じ名前だけが、何度も、何度も出てくる。
リーゼさま。リーゼさま。リーゼさま。
わたくしの名は、どちらの口からも、出てこない。
「そんな、もの」
「ええ、そんなもの。ですが賽の目は、もう我々の手の内にはない。この割れ方で公開の場に引き出せば、どちらに転ぶか分からぬ。断罪のつもりが、列聖式になる目すら、ある」
クラリッサは唇を噛んだ。想定と違う。ぜんぶ、想定と違う。あの女は死んでからのほうが、ずっと厄介だ。
折悪しく、控えの侍女が青い顔で入ってきて、告げた。
「あの……本日の午後の御祈祷、参列の申し込みが……十一名さまで、ございます」
先週までは、三百を切ったことがなかった。
民は正直だ。真偽の割れた祭壇には、どちらにも近寄らない。疑われているのはあの女のはずなのに、道連れに、わたくしの祈祷まで。
クラリッサは窓の外へ、ふと目をやった。
雨の往来の向こう、軒下にひとり、行商人ふうの男が立っている。荷も広げず、客も呼ばず、ただ――こちらを、見上げている気がした。
「……誰か、あそこに」
言いかけて、瞬きをしたら、もういない。
乱暴に窓掛けを閉める。閉めても、見られている気配だけが、部屋に残っていた。
「では、どうしろと」
「急がぬことです。まず、外堀から」
老人の目が、部屋の隅で立ち尽くすヨナスに向いた。
「前回の審問を支えたのは、証言と記録です。つまり今回崩されるとすれば、そこからだ。……ヨナス殿。お前が『見たもの』を、いま一度、正しく思い出しておきなさい。一言一句、揺れぬように」
「お、俺は……」
「それから、当時『聖爐を使うべきだ』などと囀った年寄りが、記録庫の番をしておりましたな。ああいう口は、風向きが変わると急に大きくなる」
オズヴァルトは立ち上がり、窓の外の雨を見た。
「証人の口は、閉じてこそ美しい。……そうは思いませんか、ヨナス殿」
ヨナスの顔から、血の気が引いていくのが、クラリッサの位置からもはっきり見えた。
――震えるくらいなら、はじめから嘘などつかなければいいのに。
そう思った自分の指先が、いちばん冷えていることには、気づかないふりをした。
「善は急げ、と申しましてな」
老人は帽子の位置を直し、退出の礼をとった。
「記録というものは、燃えやすいうちに始末するに限る。……明日の夜までには、済ませるがよろしい」
クラリッサは、止めなかった。止めないこともまた罪に数えられると、知っていながら。
扉が閉まって、数拍。
廊下を、重い靴音が、夜の奥へと駆け出していく。




