第2話 死んだはずの聖女が、朝の祈りに現れる
死人が生き返るとき、世間はまず疑い、次に怯える。
そして――蘇った者を、人は二枚の札でしか語れない。聖人の奇跡か、悪魔の仕業か。この世界に、死者が戻った前例はないのだから。
私の商品は、つい先日、悪魔の花嫁として首を刎ねられたばかりだ。世間がどちらの札を切るかは、火を見るより明らかだった。
だからこそ――その明らかな一枚を、ゆっくり裏返してやる。三日、泳がせて、朝を選んだ。
初日、墓守が空の棺を見つけて腰を抜かした。二日目、「聖女さまの亡骸が消えた」という噂が市場を三周した。そして三日目の朝。
朝課の鐘が鳴り終わった大聖堂に、私は正面から入った。
装いは処刑の日のままの白い聖女服。首の線は、襟の高い僧衣で隠れる。敬虔とは便利な流行だ。
香炉が落ちる音がした。
老司祭が尻餅をつき、若い助祭が悲鳴を上げ、掃除婦が箒を取り落とした。
逃げ出す足音が、扉に殺到した。柱の陰へ這う者、朝の礼拝に背を向けて駆け出す者。斬られたはずの罪人が歩いている――ただそれだけで、大聖堂は恐慌に呑まれていく。
拝んだ者は、いなかった。ただ数人、逃げ遅れた者たちが、動けずにいる。生前のリーゼに、病を癒やされた者たちだ。恐怖ではなく、縋るような目で、こちらを見ていた。
「せ、聖女さま……リーゼさまだ……」
縋るような声は、すぐに、もっと大きな声に呑まれた。
「馬鹿を言え。あれは悪魔の花嫁として斬られた女だぞ。首を落とされた者が歩くなど、聖女の蘇りであるものか」
「ああ……そうだ、そうだよな。人ってのは、神の国からは帰ってこねえ。帰ってきたってことは……行き先が、あっちじゃなかったってことだ。なあ、そうだろ。処刑は間違ってなかったんだ。あれは本物の、悪魔の――」
惜しい理屈だ。半分ほどは、当たっている。
「騒がせて、ごめんなさい」
私はリーゼの声で、リーゼの微笑みで、ゆっくりと頭を下げた。この体を着て、まだ三日だが、もう板についてきたな。
……もっとも、板についたのは着心地の話だ。器そのものは、まだ半分死の側にいる。夜ごと、腐ろうとする端から影で押し留めてやる手間は、当分かかるだろう。手のかかる商品だ。
「どうして戻れたのか……お話しできる言葉を、わたしは持っていません。ただ――やり残したことが、あるのだと思います」
それだけ言って、頭を下げる。神の名は、こちらからは出さない。
すると、どうだ。「神さまがお帰しになったんだ」という囁きが、勝手に湧いて、勝手に広がっていく。空いた席に誰が座ったのかを確かめもせず、名札だけ先に置くのは、いつの時代も拝む側のほうだ。悪魔は、置かれた名札をわざわざ直してやるほど、親切ではない。
「悪魔だ」
奥の廊下から、上擦った声がした。
「悪魔憑きだ! 処刑された異端者が生きて歩くものか! 皆、離れろ、それは――」
叫んだ助祭の前で、咳き込む音がした。
最前列の長椅子で、痩せた老婆が胸を押さえている。長患いの咳だ。見物より礼拝を選ぶような信心者が、皮肉なものだな。
私は歩み寄って、その背にそっと手を当てた。
本来なら、手を当てるだけで、この程度の長患いは根から拭える魂だ。触れた病人が「治った」と泣く――それが聖女リーゼの、生前の値打ちだった。
もっとも、体はひとつ、手は二本。触れた者しか治せない。それがこの力の、値札の裏に書かれた但し書きだ。万の病人に、一人の聖女。だからあの疫病の冬、この娘は自分の限界を知り尽くして――手の届かない万のために、別の窓口を叩いたのだ。
だが今は、泥まみれだ。温めてやる程度のことしか、できない。極上の商品を安売りさせられている気分で、腹立たしい。
それでも老婆の咳は、少しだけ、確かに和らいだ。
「……息が、楽だ」
老婆が呟く。断言はできない程度。医者なら「気のせいでしょう」と言う程度。
断言はいらない。群衆が動くのは、事実ではなく物語だ。そして今、この大聖堂には、二つの物語が生まれた。
『悪魔が化けて戻った』と、『聖女さまが、帰ってきた』と。
「……悪魔が、年寄りの咳なんか治すか?」
「治すもんか。そうやって、たぶらかしてるんだ」
「でも……うちの婆さんの息は、あの人が楽にしてくれたんだ」
恐怖の壁に、細い罅が一本、入った。それで十分だ。群衆を一息で拝ませる必要はない。むしろ、疑いが恐怖と希望の二手に割れてくれたほうが、商売はやりやすい。割れた壁は、あとからいくらでも押し広げられる。
「聖女さまーっ!」
人垣を突き破って、小さな影が飛び込んできた。
処刑の日、たった一人で「嘘だ」と叫んだ、あの痩せた少女だ。名はニナ。リーゼの記憶が言っている。救貧院の、いちばん口が悪くて、いちばん泣き虫の子。
器に残った記憶は、帳簿のようにめくれる。だが魂の内心までは、めくれない。……読めるなら、商売はもっと楽なのだがな。
ニナは私の腹に頭からぶつかって、そのまま顔を上げなかった。
「ほんもの……? ほんものの、聖女さま……?」
「はい」
半分は本物だ。袖の内で、かすかに魂が震えている。
「あたし、見てた。あの日、見てたのに、なんにもできなくて……っ」
「あなたは、叫んでくれたでしょう。あの広場で、万の人の中、たった一人で。……わたしの側に立った声は、世界に、あれひとつだけでした」
それは帳簿に付けてある。貸しではなく――なんと呼ぶのだったか、ああそうだ、「恩」だ。人間の帳簿は非効率で敵わない。
*
さて、本題だ。
聖堂の警備には、見知った顔が立っていた。
元・聖女付き護衛、聖騎士ヨナス。処刑の日、ずっと足元を見ていた男。今朝は壁を背にして、幽霊でも見る目で私を見ている。まあ、半分正解だ。
「ヨナスさん」
私は誰よりも柔らかい声で言って、聖具室の扉を示した。
「少し、お話しできますか。……昔のように」
断れるはずがない。断れば「聖女の証人が対話を拒んだ」と衆目に映る。受ければ私と密室だ。
無論、密室で剣に手を伸ばす道もある。悪魔憑きを斬った、と後で言い張る道が。だが、この男は見ているのだ。首を落とされたはずの女が、歩いて戻ってくるところを。一度死んだ相手に二度目の剣を抜くには、人間の腕というのは、少しばかり正直にできすぎている。
詰みの形は、単純なほど美しい。
聖具室の扉が閉まる。
蝋燭がひとつ。銀器の並ぶ棚。二人きり。
「リ、リーゼ様……いや、あんたは、誰だ。何なんだ」
「ひどい。わたしですよ」
私は微笑んだまま、一歩近づく。
「処刑の日のこと、覚えていますか。あなたは、どこを見ていましたか」
「お、俺は……俺には、どうにも……」
「ええ、できなかった。分かっています。あなたは剣の人で、審問は言葉の場ですから」
もう一歩。ヨナスの背が銀器の棚に当たって、燭台が鳴った。
「では、どうして」
私は首を傾げる。
「どうしてあなたは、審問の前の晩、クラリッサさまのお部屋から出てきたのですか」
「な――」
「見ていた人がいるんです。神さまは、いつでもどこかで見ています」
見ていたのは神ではなく、取り立ての下見に来ていた悪魔だが。情報の出所を明かさないのは商売の基本だ。
ヨナスの喉が、ひゅっと鳴った。
「お、俺は、俺はただ、聞かれたことに、そうだと答えただけで」
「そうですか」
私は微笑む。
微笑んで――そのまま、口の両端だけを、ゆっくり、耳の下まで吊り上げた。
ニタァ、と。
聖女の顔で、悪魔の嗤いを。
「ひっ――」
「安心してください、ヨナスさん。わたしは何もしません」
一歩下がって、私はもう元の聖女の顔だ。
「何も、しなくていいんです。あなたが今夜眠れなくなって、明日誰かに走って、洗いざらい喋りたくなっても――それはぜんぶ、あなたが勝手にすることですから」
聖具室を出るとき、背後で何かが崩れる音がした。膝だな、あれは。
*
翌日。王都の布告板の前は、黒山の人だかりになった。
『聖女リーゼ生還の真偽につき、教会にて審査中』
疑うなら審査するがいい。舞台は向こうが建ててくれるらしい。
人目を集める聖女の顔のままでは、街の噂は拾えない。だから今は、冴えない行商人の面を被っている。悪魔にとって、纏う顔は上着のようなものだ。中身は同じ、被りが違うだけ。
私は行商人の顔で人だかりを眺めながら、袖の内の商品に囁いた。
「見ろ。お前の値札を書き直す準備が、始まったぞ」
魂は、答えない。だが少しだけ、温かい気がした。
そのとき、人混みの向こうを、見覚えのある背中が駆け抜けていった。
聖騎士どのだ。真っ青な顔で、大聖堂の奥へ、転がるように。行き先は――聖女さまの私室あたりか。
――ほら、走った。
言った通りだろう、ヨナス。ぜんぶ、「あなたが勝手にすること」だ。




