第1話 聖女は斬首された。悪魔は激怒した
処刑台の上で、聖女リーゼが首枷を嵌められている。
罪状は、悪魔との契約。
――私が言うのもなんだが、まったくもってその通りだ。
なにしろ契約の相手は、この私なのだから。
悪魔ザガン。それが私だ。
広場の人垣の後ろで、私は行商人の顔を借りて、はやる指を懐で押さえていた。待ちに待った、取り立ての日だ。十年寝かせた極上の一本を、いよいよ開ける朝の心地。舌なめずりを堪えるのに、少々骨が折れた。
十年前。
流行り病が国を舐め尽くそうとしていた、冬の夜だった。
あの娘は、来る夜も来る夜も、祭壇に額をつけて神に祈っていた。声が嗄れ、膝が擦り切れるまで。だが、天は一度も応えなかった。祈っているあいだにも、朝ごとに、子供の数は減っていく。
祈り疲れた果てに、娘は初めて、神ではないものへ呼びかけた。
――応えてくれるなら、相手は誰でもよかったのだろうな。
応えたのが、私だった。
《この国を蝕む病を祓ってください。対価は、死んだときの私の魂でかまいません》
素晴らしい取引だった。
聖女の魂。市場に出れば地獄の公爵が城ごと差し出す極上品だ。それが、たったひと冬の労働で手に入る。以来私は、この娘が魂を磨き上げていくのを、蔵の酒を眺める気分で待っていた。
祈り、治し、与え続けた十年。いい熟成だった。
今日、それが手に入る。処刑という形は予定より少々早いが、まあいい。
「皆さま、お聞きください」
台の上で、鈴を転がすような声がした。
偽聖女――いや、今日から「聖女」か。クラリッサが、目元を白い指で押さえながら群衆へ向き直る。
「わたくしは見てしまったのです。リーゼさまが夜ごと祭壇で、悪魔に祈りを捧げるお姿を……。信じたくはありませんでした。ですが、この告白書が動かぬ証にございます」
侍女が恭しく羊皮紙を掲げた。
リーゼの筆跡そっくりに書かれた、リーゼが書いていない告白書を。
曰く――我が身の栄華と引き換えに、この国の寿命を悪魔に売り渡した、と。
……ほう。
まるで逆さまだな。この娘は自分の魂ひとつで、お前たちの寿命を買い戻したのだが。
「嘘だ! 聖女さまは、おっ母を治してくれた!」
人垣の前で、痩せた少女がひとり叫んだ。
すかさず、クラリッサ付きの侍女が声を張った。
「お黙りなさい。あなたの母君を癒やされたのは、クラリッサさまです」
「……およしなさい」
クラリッサは悲しげに目を伏せ、群衆へ向けて緩く首を振ってみせる。
「わたくしのことなど、いいのです。……その子を、責めないであげて」
庇う顔で、手柄だけは侍女に言わせる。よくできた芝居だ。
違うな。あの母親を癒やしたのはリーゼだ。私は帳簿のように、一件残らず覚えている。
ついでに言えば、この人垣にも、リーゼに癒やされた者が幾人か交じっている。どれも帳簿にある顔だ。……誰ひとり、あの少女の隣には立たなかったがな。
「引っ込め嬢ちゃん、石が飛ぶぞ」
「泣いたって見世物は変わらねえさ。……おい、揚げ菓子まだ残ってるか」
群衆というのは、いつの時代も上等な地獄だ。泣く者一人、嗤う者十人、菓子を齧る者二十人。
告発から処刑までは、わずか数日だった。審問は非公開、審問長は枢機卿、弁護の席は最後まで空のまま。……教会の奥の誰かが、よほど急いだと見える。
王家の名代が処刑状を広げ、退屈そうな声で罪状を読み上げていく。列の端では、リーゼの護衛だった聖騎士が、主人の最期から目を逸らし、ずっと足元だけを見ていた。
三年仕えた聖女を守らず、告発に口裏まで合わせた男の顔だ。良心というのは、隠せば隠すほど、利子がつく。
――ああいう男は、後で、いい取り立て先になる。
壇上の枢機卿オズヴァルトが、重々しく首を振った。
「聖爐の判定を、という声もあった。だが悪魔は聖爐すら欺く。審問は、この告白書をもって足る」
聖爐。芯も油もないのに、聖なる魂が触れれば、ひとりでに白く灯る銀の火皿だ。嘘の利かない、教会の秤。
教会の法は、こう定めている。異端の罪とは、魂が魔に堕ちること。ゆえに魂の白さを量る聖爐こそが、最後の裁定である――と。
あれにこの娘を触れさせれば、潔白だと一目で知れる。だからこそ、あの枢機卿は使わせなかった。
無論、冷めた頭で聞けば、怪しさしかない理屈だ。使えば分かる秤を前に、使わない理由を並べているのだから。だが今日この広場に、冷めた頭はひとつもない。群衆というのは、欲しい判決が先に決まっているとき、秤の検分をしないものだ。
つまりあの手口は、この熱の中でしか通らない。熱が冷めた日には、同じ記録が、あの老人の首を絞める。……覚えておいてやろう。
リーゼは、何も叫ばなかった。
ただ、さっきの少女が兵に小突かれるのを見て、はじめて口を開いた。
「その子に、乱暴をしないであげてください」
それから空を仰いで、静かに言った。
「この国に、良い雨が降りますように」
群衆を見渡したその目が、一瞬だけ、人垣の後ろの行商人に止まる。
……ああ、分かっていたのか。
取り立て人が来ていると分かっていて、それでも最後の言葉が、国の心配か。
つくづく、業腹なほどの上物だ。
壇の脇では、クラリッサが祈りの形に指を組んでいた。
――その指の陰で、口の端が吊り上がっているのを、私は見た。
競りで、他人の破産を眺める顔だ。ああいう顔は、よく知っている。
処刑人が、断頭の刃を吊る縄に、手を掛けた。
万の民が、一斉に息を呑む。当のリーゼだけが、暴れもせず、目を閉じもせず、雨の来そうな空を見上げていた。唇だけが、声にならない祈りを、まだ刻んでいた。
誰のための祈りかは、聞くまでもない。この期に及んで、己のためでないことだけは、確かだ。
太鼓が三つ、鳴った。
刃が、落ちた。
広場の音が、一拍、そっくり消える。
十年、万の民を癒やしてきた聖女の首が地に落ちた音だけが、やけに小さく、澄んで響いた。
それから、堰を切ったように、どよめきがあふれ出す。
――さて。
私は指を鳴らし、転がり出た魂を袖の内へ招き入れた。十年待った、私の商品を。
契約で魂に手を触れられるのは、契約者が死んだ、その瞬間だけ。それまでは、蔵の扉ごしに酒の熟成を眺めるようなものだ。祝福が注がれていくのは見えていたから、極上の一本に仕上がっていると、疑いもしなかった。
――だが、扉ごしでは、味は分からん。栓を抜くまではな。
「…………」
なんだ、これは。
磨き上げたはずの魂が、どす黒い泥に浸かっている。それも――ここ数日で塗られた、真新しい泥だ。
万の憎悪。万の侮蔑。「裏切り者」「悪魔の花嫁」「――背教聖女」。今日この広場で、万の民が浴びせた罵りのひとつひとつが、垢のようにこびりついている。
衆口、金を鑠かす、と人間は言うそうだが――なるほど。金どころか、魂まで鑠かすらしい。
魂とは、向けられた心を吸って色を変える。祝福を浴びれば輝き、冤罪を浴びれば腐る。
――知っていた。無論、知っていた。この数日の茶番で泥が飛ぶことくらい、査定には入れていた。だが、十年分の祝福で磨き上げたこの輝きなら、そんなものは弾く。そう踏んでいたのだ。
読み違えた。真実の憎しみなら、上物の魂は弾いただろう。だが嘘で焚きつけられた万の憎しみは――向けられた側に、身に覚えがない。覚えのない毒は、避けようがなく、深く染みる。
六千年の目利きが、冤罪の毒を安く見積もった。この落札は、私の失点だ。
つまり、これは傷物だ。
私が十年かけて熟成させた極上の一品に、あの女は平気で泥を塗り込んだのだ。
「……クラリッサ、と言ったか」
壇上では新しい聖女が涙を拭いながら、口元だけで笑っていた。やり遂げた者の笑みだった。
いいだろう。
悪魔との契約を違えた人間の末路は語り草になっている。だが、悪魔の商品を汚した人間の末路は、まだ誰も知らない。なにしろ前例がない。
私が、最初の語り草にしてやる。
*
その夜、共同墓地の隅。
借りていた行商人の姿は、広場の雑踏に脱ぎ捨ててきた。
罪人用の粗末な棺の中で、私は聖女リーゼの骸に身を沈めた。
指先から順に、冷えた肉へ私を通していく。落とされた首を繋ぎ直し、心臓をひとつ、外から叩いてやる。
動かない。まだ死体だ。当然だな。
だが、このまま骸で終わらせるつもりはない。
穢れというのは、塗った本人へ返してやれば剥がれる。
嘘が一枚剥がれるたび、泥は吐いた口へ還る――それだけの、単純な理屈だ。
だから――名誉とやらを、取り戻せばいい。
この娘が積んだ善行を、利子ごと世間に思い出させればいい。やつらの嘘が一枚剥がれるたび、私の商品は元の輝きへ近づき、ついでに塗った連中は身ぐるみ剥がされて堕ちていく。
輝きが戻れば、この器にも熱が戻る。魂と器は、そういう作りになっている。
一石二鳥とは、このことだ。
「安心しろ」
私は誰にともなく囁いた。袖の内で、かすかに魂が震える。
「お前を汚した泥は一滴残らず、塗った本人どもに塗り直してやる。――倍の濃さでな」
棺の蓋を、内側から押し開ける。
月明かりの下、処刑されたはずの聖女がゆっくりと立ち上がり――その清らかな顔で、悪魔のようにニタァと嗤った。
実際、悪魔なのだから仕方がない。
さて、どこから返しに行こうか。
……そういえば、主人の処刑からずっと目を逸らしていた護衛がいたな。
*
同じ頃、大聖堂の私室。
新しい聖女クラリッサは、上等の葡萄酒で祝杯を上げていた。
「これでわたくしは、本物……」
窓の外で、ふいに雨音が立ちはじめる。
――良い雨が降りますように。
死んだ女の最後の声を思い出して、クラリッサは杯を置いた。なぜだか、酒の味がしない。
彼女はまだ知らない。
偽物の証拠を握る唯一の女を消したその日に、本物の悪魔を、この世でいちばん怒らせたことを。




