第4章:議場で踊る、ゆえに進まず①
大陸暦1273年8月10日
帝国中を震撼させる衝撃的なニュースが駆け巡った。
その震源地となったのは、言うまでもなく雷鳴王である。半年以上も沈黙を守っていた彼が、突如として帝国を揺るがすとんでもない一手を打ったのだ。
――貿易都市キルベック、ローゼンベルク王国主導の関税同盟に加入
――治安維持を名目に、キルベック商業連合会はローゼンベルク王国軍の駐屯を満場一致で承認
――ローゼンベルク国王ヴィルヘルム2世、「さらなる繁栄と栄光への第一歩である」と演説
「やってくれましたね、ヴィルヘルム陛下!!」
この報は、当然ながらローゼンベルク王国の外交担当主任エルンストの耳にも届いた。彼は居ても立ってもいられず、ただちに王城へと急行する。つい先日、今年度の正統帝国議会への参加を通達したばかりだったが、その折、ヴィルヘルムはキルベックについて一言たりとも口にしていなかった。
まさに青天の霹靂である。エルンストをはじめとする在ローゼンベルク外交団の面目は完全に潰され、雷鳴王の異名に違わぬ衝撃を伴った急報であった。
しかし、このキルベック問題は、決して昨日今日に思いついたヴィルヘルムの気まぐれではない。周到な準備と、徹底した情報秘匿――その成果が、今まさに表に出ただけに過ぎなかったのである。
貿易都市キルベックおよびその勢力圏は、地理的に完全にローゼンベルク勢力圏に包囲された形で存在する、経済上の要衝であった。大陸公路と複数の河川が集中する交通の結節点であることが、都市の繁栄を可能にしていた要因である。しかし今回に限って言えば、その地理的優位は、彼ら自身の首を絞める結果となった。
ボレニアを事実上併合し、ザールマルクとほぼ一体化したローゼンベルク王国は、これらの地域と強力な関税同盟を締結した。勢力圏内での経済活動と人的交流を活発化させ、資源や原材料の制限なき移動、専門分化された生産ラインによる大量生産、そしてそれを支える膨大な人口という強みを遺憾なく発揮し、空前絶後とも言える経済発展を遂げていた。
一方、その関税同盟に属さないキルベックは、地理的に包囲された状態で、事実上その同盟圏にしかアクセスできないという立場に追い込まれていた。その結果、高関税によってキルベックから同盟圏への輸出は滞り、彼らは深刻な経済的打撃を受けることになる。かつては周辺諸国が互いに独立しており、キルベックを経由した交易が不可欠であったが、それももはや過去の話となった。最大の武器であったはずの経済力は、事実上失われていたのである。
彼らが抵抗の意思を持てなかった理由は、経済状況だけではない。地理的条件に加え、これまで維持してきた軍事的中立協定と伝統的慣例が、それを不可能にしていた。貿易都市キルベックには自前の軍隊が存在しない。生粋の商人である彼らは、戦争や軍隊といった非生産的支出を忌避する傾向が強く、防衛は周辺諸国からの軍事的支援に依存してきた。
そのため、キルベック勢力域内では、いかなる国の軍隊であっても自由に通過を認めるという取り決めが存在した。他国軍の通過を本来なら嫌うところを、彼らは自らを守る“用心棒”と捉え、さらに軍隊が消費する食料や物資による経済的利益も享受してきたのである。商魂たくましい彼らにとって、それは合理的な選択であった。
しかし、ローゼンベルク勢力に完全に包囲された状況下では、その軍事的中立はほとんど意味を成さなかった。取り決めを盾に、公然とキルベックを通過し、さらには駐留するようになったローゼンベルク軍に対し、政治的代表機関であるキルベック商業連合会は頭を悩ませたものの、その行為は取り決めの抜け穴を突いたものであり、明確な違反ではなかった。わずかな傭兵を用心棒として雇ってはいたが、ローゼンベルク軍を前にしては焼け石に水であり、対抗手段は存在しなかった。
経済的に干上がり、軍事的中立も形骸化した以上、吸収という形でローゼンベルクに下るのは時間の問題だったのかもしれない。無論、それはヴィルヘルムが以前から構想していた筋書きである。彼はキルベックに精通した第4軍団長コンラート・ライナー少将に対し、攻略準備を極秘裏に進めさせると同時に、親ローゼンベルク派商人の懐柔や障害となる人物の排除といった政治工作も並行して行わせた。
その結果、同月9日までにキルベック商業連合会の構成員は一新され、翌10日、第一回総会においてローゼンベルク主導の関税同盟への参加と、ローゼンベルク軍の駐屯を承認する決議がなされた。それは事実上の“併合”を、堂々と布告するものであった。
この時、第4軍団は軍事演習を名目としてキルベックを通過中であり、ザールマルクを本拠地とする第6軍団にも出動待機命令が下達されていた。万が一キルベックが抵抗の意思を示せば、即座に実力行使に移ることも可能な体制であった。
これほどまでに大規模かつ大胆な行動でありながら、併合計画が当日まで露見しなかった理由は明確である。実際に動員された兵士たちでさえ、それが単なる定期演習だと信じて疑わなかったこと、そして作戦立案が参謀本部主導で進められ、軍内部でもごく限られた者しか全容を知らされていなかったという、徹底した情報統制に他ならない。
分析能力に長けたエルンストも、キルベック併合の可能性自体は予見していた。しかし、これほど大胆な行動は帝国内からの強い批判を招くはずであり、実行前には必ず何らかの前兆や情報漏洩が生じるものだと考えていた。察知してから対処しても遅くはない――そう高を括っていたのである。
エルンストは、ローゼンベルクへ再び赴任して以降、ヴィルヘルムとの交流と対談を欠かさず重ねてきた。互いに意見を交わし、情報を引き出し、意思の疎通を図る――外交官として、また個人としても、信頼関係は確かに築かれていたはずである。生まれたばかりの第一子、王子ヴィクトルにまで引き合わせてもらえたことが、その証左であった。
それにもかかわらず、ヴィルヘルムはキルベックについて、エルンストに一切の兆しすら見せなかった。
一国の君主として、他国の外交官に野心の全てを明かす義理はない。野心は秘してこそ成る――その理屈も理解はできる。だが、今回の件は、彼らが積み重ねてきた関係そのものを一瞬で破壊しかねない、危険な爆弾でもあった。
だからこそエルンストは、普段なら恭しく構えるべき外交官の立場を忘れ、怒声をもってヴィルヘルムに詰め寄った。
「ヴィルヘルム陛下!これは、どういうことですか!」
その声には、親交を重ねてきたからこそ生じた感情の昂りと、許しがたい裏切りへの嘆きが込められていた。しかし当のヴィルヘルムは、まるで意に介さぬ様子で、淡々と答えただけだった。
「言う必要があったか?」
その無関心な態度が、エルンストの語気をさらに強める。
「陛下、これは決して許される行為ではありません!帝国諸侯からの非難は免れないでしょう!」
「非難されたから、なんだというのだ?」
ヴィルヘルムの言葉には、帝国内の協調体制そのものに挑戦するかのような意志すら滲んでいた。
「ローゼンベルクは孤立します!そうなれば帝国は皆、陛下の敵となり、かつてのような戦乱が再び起こりかねない!陛下ご自身、それが賢明でないことはご承知のはずです! なぜ、あえてこのような無謀な冒険を――!」
「無謀な冒険?可笑しなことを言うな、エルンスト」
ヴィルヘルムは冷ややかに、しかし確信に満ちた視線をエルンストへ向け、静かに宣言した。
「私は、やると言ったことはやってきた。成し遂げると言ったことは、必ず成し遂げてきた男だ。今回も同じだ。私は、やり遂げてみせよう」
その言葉に、エルンストの顔から血の気が引いた。
「……まさか。本気で戦うおつもりなのですか?無謀です……グラウエンシュタインに勝つなど――」
――撤回してくれ。
エルンストは、心の中で必死にそう願った。
この言葉をそのまま文書に起こし、本国へ送れば、それはもはや宣戦布告に等しい。立場上、それを口に出して制止することはできない。それでもなお、感情を宿した視線で、彼は必死にヴィルヘルムを説得しようとした。
「ならば、戦場で証明してみせよう。少なくとも、あの議場で延々と交わされる話し合いよりは、よほど手っ取り早い」
しかし、ヴィルヘルムの口から、エルンストが望んだ言葉が発せられることはなかった。
――雷鳴王は本気だ。
――本気で、グラウエンシュタインに戦いを挑もうとしている。
優秀な外交官として、エルンストは確信した。もはやローゼンベルクとグラウエンシュタインの友好関係を築くことは、不可能であると。
それでもなお――
かつてヴィルヘルムと語り合った“一人の友”として、どうしても確かめずにはいられないことが、彼の胸に残っていた。
「陛下……それが、陛下のお求めになる“強い国”の姿なのですか?
他国を圧迫し、併呑し、挑発し、戦乱へと引きずり込む――それこそが、貴方様の望む“強い国”だと、そうおっしゃるのですか?」
清廉なる雷鳴王も、結局は同じ支配者なのか。
国母エリザーベトと同じく、他者に犠牲を強いることを是とする侵略者なのか。
エルンストは、自らが良き君主として崇めてきた存在が、冷酷なまでに徹底した国家君主であったという現実に、失望しかけていた。
だが、ヴィルヘルムの返答は、エルンストが望み、あるいは恐れていたものとは、まったく異なっていた。
「私の最終目標は、“強い国”になることではない。
それは大前提に過ぎん。それ自体が、最終目標に取って代わってはならないのだ」
「……では、何をお目指しなのですか?」
「私はな――」
その時の言葉は、エルンストの生涯に刻まれるものとなった。
「“偉大な国”を創りたいのだ」
「……偉大な……国……?」
その意味を、エルンストは即座に理解できなかった。
あまりにも規格外なヴィルヘルムの言葉は、彼ほどの慧眼をもってしても、容易に読み解けるものではなかった。
「そうだ。民が、その国の一員であることを誇れる国だ。
それこそが、“偉大な国”だ」
ヴィルヘルムは、自身の君主論と国家観を語り始めた。
「民を守り、豊かな暮らしを与える君主は、確かに良い君主だ。
それは素晴らしいことであり、実現できる者は有能であろう」
エルンストは、それに該当する人物を一人、知っていた。
「だが、それだけでは足りない。
民自身が、その国の一員であることに誇りを持ち、未来永劫にわたって――
自分はこの国を創ったのだ、支えたのだ、生き抜いたのだと、胸を張って語れる国でなければならない。
決して、君主の独りよがりで誇りを押し付けてはならん」
ヴィルヘルムの理屈に、エルンストの思い浮かべた人物は、残念ながら当てはまらなかった。
それは、自身の拠り所を傷つけられたようでもあり、同時に、言語化できずにいた心の澱に、決着をつけられたようでもあった。
「……陛下は、そのような国をお創りになりたいと?」
「そうだ。私の夢だからな」
「……それは、あまりにも険しい道ではありませんか……」
聡明なエルンストには、それを実現する困難さがすぐに理解できた。
それでもなお、どうしようもなく理想的だとも思えてしまう。
そして自分自身が、困難を前に立ち止まるより、理想に向かって傷つくことを選ぶ性分であることも、今さらながら悟ってしまった。
「確かにな。千年を超える歴史の中で、それを成し遂げたのは、たった一人だ」
正統ルガルディア帝国の一員としての誇りを持つエルンストには、それが何を指すのか理解できた。
「厳密には一人ではありません。数百年にわたり7名おられました。
そして、それを継いだ方々が、さらに4名」
「そうだな。彼らは誇りをもって、それを成し遂げた者たちだ。
そして――彼らは、決して一人ではなかった」
だからこそ、とヴィルヘルムは厳かに続けた。
「私は一人で成し遂げようとは思っていない。
世界の果てまで歩みを共にしてくれる者たちと、創りあげるつもりだ」
どうしようもなく――本当に、どうしようもなく……
エルンストには、それが魅力的に思えてしまった。
「エルンスト。貴様も、一緒にどうだ?」
「……おやめください」
力なく発したその言葉は、外交官として当然の返答だった。
それを、恥じるつもりはない。
――私もご一緒させてほしい。
そんな言葉を、口にすることはできなかった。
「私は、これよりノイ・ヴィーンへ戻らねばなりません。
これにて失礼いたします、雷鳴王陛下」
背筋を正し、最後にそう呼んだ。
「ああ。息災でな、エルンスト」
ヴィルヘルムはそれを受け止めた。
そして――
「だが、また会おう」
去りゆくエルンストの背に、その言葉を投げかけることを忘れなかった。
人を見る目を持つヴィルヘルムには分かっている。
彼とは、これきりにはならない。
彼自身の手で、必ず答えを導き出す――でなければ、
「先に教えてやった甲斐がなくなるというものだ」
ヴィルヘルムは玉座に座したまま、ただ静かに、そう呟いた。




