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第3章:外交官エルンストの苦悩⑥

 エルンストの分析は、いまや佳境に差し掛かっていた。対象は、現在にまで影響を及ぼす直近数十年――女大公エリザーベトが大公国、そして帝国の頂点に君臨して以降の、グラウエンシュタインという国家の根源的中核である。


 エリザーベトは父オットー2世の三女であった。本来ならば大公位を継ぐ立場にはなかったが、適齢の男子が存在しなかったこと、そして彼女自身が当時未婚であったことなどを理由に、その地位に就くこととなった。帝国諸侯が動揺と不安を覚えたのは当然であろう。女大公、それも18歳の少女が帝国の代表者を務められるはずがない――そう考えるのは、ある意味では自然な反応だった。一時的にグラウエンシュタインの求心力が大きく低下したのも事実である。ここまでは、歴史を知る者なら誰もが承知している。


 しかしその後、エリザーベトは帝国摂統の地位を再びグラウエンシュタインのもとへ取り戻す。理由は、彼女の卓越した外交手腕と経済政策、そして多くの子を産み、その婚姻を巧みに用いた婚姻外交にあった――と一般には語られている。これもまた、女大公の偉業として広く知られている事実だ。


 だが、エルンストはその通説に、拭いがたい違和感を覚えていた。


「時期がおかしい……。国母様が帝国摂統の地位を奪還なされたのは大陸暦1221年。大公に即位されたのが1219年だとすれば、ご当主様――オットー3世が生まれて間もない頃だ。その時点では、婚姻政策は使えない。だとすれば……何が“外交カード”だった?」


 外交とは、他国との関係を管理・調整するための対外政策であり、その多くは交渉や協議によって遂行される。武力を用いる対外政策が“戦争”であるなら、話し合いによる解決を目指すものが“外交”だ。しかし、その“話し合い”を成立させるためには、相応の力や切り札が不可欠である。力も交渉材料も持たない相手と、誰が真剣に交渉の席につくだろうか。


 戦争は非経済的であるがゆえに、外交的解決が模索される。しかしそれは、相手が一定の実力を有している場合に限られる。力なき者との妥協点など、国家は探そうとすらしない。ゆえに、エリザーベトが帝国摂統の地位を取り戻すためには、当時求心力を失っていたグラウエンシュタインに“力がある”と他国に思わせる必要があった。


「それが……“サルヴィアへの征討軍派遣”か」


 大陸暦1219年、エリザーベトが大公に就任し、帝国摂統の地位がグラウエンシュタインから離れた直後、彼女は帝国外縁の地サルヴィアへ征討軍を派遣し、武力によってこれを占領した。


「文明レベルの低いサルヴィアトには、抵抗できる軍備がなかった……皮肉な話だ。グラウエンシュタイン軍でも勝てたわけか」


 サルヴィアトは、長らく差別の対象であり、正統ルガルディア帝国において神格化される始祖ルガルドの一族に対する反抗心を抱いていた民族である。彼らを「帝国に危害を及ぼす可能性のある敵性勢力」「放置すればシャルル騎士王の再来を招きかねない存在」と位置づけることで、軍事侵攻と占領は正当化された。軍事に疎い風潮の強い帝国において、この成功は十分に偉業と呼べるものであった。


 その後のエリザーベトは、経済政策を矢継ぎ早に打ち出す。後に『農地革命』と『大建設政策』と呼ばれる施策である。この時代に、生産量を飛躍的に高める農法の普及と、ノイ・ヴィーンをはじめとする都市・道路の建設が進められた。これらこそが、エリザーベトを偉大な女大公として、グラウエンシュタインのみならず帝国諸侯に印象づけた要因であった。


 だが、なぜこの時期にそれが可能だったのか。代替わりの時期が改革に適しているとはいえ、これほどの大事業は、それだけで成し遂げられるものではない。雷鳴王ヴィルヘルムが示したように、改革には資金、実力、そして支援する派閥が不可欠だ。若き女大公にとって、それは何だったのか。


「まずは……“農地改革”による資金調達、か」


 エルンストは外務省ではなく産業省から取り寄せた資料――過去数十年にわたる穀物生産量や作物品目の変遷――に目を走らせ、農地革命の実像を読み解いていく。


 表向きには、この改革は新農法の導入と農地拡大による増産とされている。しかし実際には、エリザーベト即位以降、グラウエンシュタイン本国の農地は縮小しており、生産品目も小麦や大麦といった穀物中心から、オリーブ、ブドウ、さらにはバターやチーズといった高付加価値産品へと移行していた。


 これは、穀物生産を国外に依存し、本国では付加価値の高い生産に特化することで経済成長を遂げたことを意味する。そして、その穀物生産地に選ばれたのが、征討軍によって占領されたサルヴィアだった。


 もっとも、サルヴィアの土壌が痩せていることは周知の事実である。これを成立させるには、膨大な労働力を投入するほかなかった。


「……人的資源は潤沢だった、というわけか。サルヴィアトを強制労働に就かせたな」


 資料から、開墾面積と収穫量を読み解くだけで、その異常さは明らかだった。強制労働に投入された人数は明記されていないが、常識的な数値を当てはめれば、過酷な実態は容易に想像がつく。


 同時期に設立されたサルヴィア暫定行政委員会の予算を精査すると、彼らへの対価が無賃、あるいは限りなく低賃金であったことも明白だった。人件費は国家予算の中でも大きな割合を占める。正規の賃金を支払わずに済む労働力を確保できれば、支出を劇的に抑えることができる。


 つまり、サルヴィアの人々は正当な報酬を与えられることなく穀物生産を強いられ、その成果によって、グラウエンシュタイン本国は高付加価値産業で潤ったのである。


「それを原資に……“大建設政策”で国家の威信を演出した」


 食料供給が安定すれば、余剰人員を生み出すことができる。エリザーベトはそれを社会インフラ整備や都市建設に振り向け、帝国内でも比肩する者なき先進的な国家を築き上げた。さらに彼女は、古典芸術の復興と新たな芸術分野の育成にも力を注いだ。


 その集大成が、ノイ・ヴィーン――「新たなる繁栄の街」と名付けられた都市である。


 これらを短期間で成し遂げ、あるいはその兆候を明確に示したことで、エリザーベトは帝国摂統の地位に就いた。グラウエンシュタインの威信は、対外戦争の勝利と領土・人的資源の冷徹な活用、そして視覚的に示された国家の先進性によって築かれたのである。


 それを成したのは、たった一人の女大公であった。


 しかし、その繁栄を下支えするためには、基盤となる安全の確保と、何より持続可能性が必要である。


「だから……軍隊を定期的に派遣したのか。治安維持と、労働人口確保のために」


 グラウエンシュタインの威信を維持するため、その歪みを一身に背負わされていたサルヴィアの人々が、無抵抗のままそれを受け入れていたとは考え難い。反乱や蜂起は、おそらく頻発していたはずだ。


 だが、軍事省の資料を読み解く限り、占領継続が困難になるほどの損害が出ていた形跡はない。つまり、それらは徹底的な弾圧によって押し潰されていったのだろう。


 当然、そのような苛烈な占領政策の下で、サルヴィアの人口は著しく減少したに違いない。だが、それではグラウエンシュタインを支える穀物生産量が低下してしまう。ゆえに、労働人口の確保は必須事項であったはずだ。そして、これほど過酷な扱いを受けている人々に対し、融和政策など取る理由はどこにもない。


 ――簡単な話である。減ったのなら、増やせばよい。


 そこにはサルヴィアトの女性と、グラウエンシュタインから派遣された屈強な兵士たちがいるではないか。


 エルンストは、暫定統治行政委員会が記録した食料配給量が突如として増加し始めた資料と、衛生省による軍兵士の性病罹患数増加を示す衛生改善報告書を突き合わせ、その言葉を無言のうちに突きつけられた気がした。


「……悪辣な。これが、ヴィルヘルム陛下の側近たちが言っていた“問題行動”の正体か」


 軍事省のサルヴィア派遣隊指揮官の名簿の中に、父の旧友の名を見つけた瞬間、エルンストは悟った。


 これは一部の逸脱ではない。半世紀にわたって続けられ、黙認され、やがては兵士にとって当然の“福利厚生”にすらなっていた――それほど根深い構造なのだと。


「……だが、こんなことが永遠に続くはずがない」


 エルンストの認識通り、この施策と繁栄は永続しなかった。サルヴィア占領から得られる利潤は吸い尽くされ、やがて枯渇し始める。そのピークが、24年前に勃発したグラウエンシュタイン継承戦争の頃であり、それ以降、国力は緩やかな下降線を描き始めた。


 幸いにも、ローゼンベルクのフリードリヒ2世を打倒したことで威信は保たれ、即座の破綻には至らなかった。それが、崩壊を先送りにできた唯一の理由である。


 もはや従来のやり方では立ち行かない――帝国摂統の地位を退いたエリザーベトは、冷徹にそう読み取ったのだろう。


 おそらく彼女は、この限界が必ず訪れることを予期していた。そのため、長期にわたりグラウエンシュタインの威信を轟かせるべく、自ら14人もの子を産み、それらを外交資産として冷酷に使い切った。


 それによって、外交力の真価は何とか保たれた。無論、それだけでは足りない。


 サルヴィアに依存していた穀物供給体制を改め、長年の依存の結果、自国での生産能力すら失いかけていたグラウエンシュタインを、資源面で支える新たな存在と関係を深め、供給の安定を図る必要があった。


「……だから、ボレニア侯国が最重要関係国だと、そうおっしゃったのですね」


 肥沃な土壌と豊富な資源を持つボレニア侯国は、グラウエンシュタインにとって理想的な取引相手だった。不足する穀物の供給、対ローゼンベルク戦線での役割分担――その恩恵があったからこそ、当主ゲオルグの掲げる『騎兵5万騎構想』という潜在的脅威をも許容してきたのである。


 だからこそ、国政公務学院を主席で卒業した自分がボレニアに配属されたのも偶然ではない。


 自身の職歴すら、グラウエンシュタインの徹底した国家論理の産物であったのだと、エルンストはその瞬間、痛いほど理解した。


「……では、私がローゼンベルク友好案を出す前から?」


 ボレニアを失い、国力でもローゼンベルクに追いつかれ始めたグラウエンシュタインは、選択を迫られた。


 出血を覚悟で彼らを打倒し、地位を守り続けるか。


 あるいは、協調路線に転じ、そこから恩恵を引き出すか。


 グラウエンシュタインは後者を選んだ。そしてその条件は、ローゼンベルク経済圏との連携と、確実な経済的利益の獲得である。これまでの全ては、そのための布石に過ぎなかったのだ。


「これを……国母様。貴女お一人で?」


 エルンストは、とてつもない深淵を覗き込んでしまったような感覚に襲われた。


「……お見事です、国母様」


 “思慮深い”“計算高い”などという言葉では到底足りない。


 あらゆる状況を想定し尽くす想像力と、それに即応する対応力。


 さすがは帝国に比類なき外交戦略家、真の盟主――女主人エリザーベトである。


 しかし――


「……それでも、他に手はなかったのですか。国母様」


 仕える主の偉大さと、その主が守り抜いた帝国が、どれほどの犠牲の上に築かれているのか。


 それを痛いほど理解したエルンストは、資料保管室で、ただ一人泣くことしかできなかった。

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