第3章:外交官エルンストの苦悩⑤
「よう、エルンスト。ローゼンベルクから戻ってきてたのか」
「ライヒェナウさん……」
「ヨーゼフでいいって。相変わらず堅いな。テオドールは元気してるか?あいつ、大臣様になってから付き合い悪くてよぉ」
「いえ、父とは最近会っていません」
外務省本庁舎を出たところで、エルンストは偶然にも父の旧友、ヨーゼフ・フォン・ライヒェナウと出会った。
ライヒェナウは、エルンストの父テオドールと国政公務学院の同期であり、長年の付き合いがあったため、エルンスト自身も幼い頃から面識がある。
気さくで陽気、どこか風来坊めいた中年男――それがエルンストの抱いていたライヒェナウ像だった。だが、その飄々とした態度とは裏腹に、彼は決して只者ではない。
「……ライヒェナウさんも、カルノヴァ分割戦争に出征されていましたよね?」
「ああ、大公家の御曹司マクシミリアン殿下の護衛としてな。ほとんど本陣でカードしてただけだが」
「はは……グラウエンシュタイン継承戦争の英雄を前線に出したくなかった、という判断でしょうね。切り札は早々に切るものではない、と」
「お、気の利いたこと言うじゃないか。外交官になると口も回るようになるのか?」
ヨーゼフ・フォン・ライヒェナウは、グラウエンシュタイン軍に属する少将である。20年前のグラウエンシュタイン継承戦争にも従軍し、ローゼンベルク国王フリードリヒ2世と刃を交えた英雄の一人だ。
だが、彼の真価は単なる武勇にはなかった。戦い“方”が巧みなのである。
継承戦争においてグラウエンシュタインが勝利を収めた背景には、外交包囲網の構築とローゼンベルクの国際的孤立があった。その成果を支えた戦術こそ、「可能な限り損耗を抑え、戦線を引き延ばし、敵にのみ出血を強いて継戦能力の限界を待つ遅滞戦術」であり、ライヒェナウはその使い手として群を抜いていた。
当時まだ青年士官であった彼は、敗走してきた部隊を次々と吸収し、中尉という階級にもかかわらず大部隊を率いたまま終戦を迎えたという逸話を残している。ローゼンベルクの英雄レオンハルトとは異なるタイプの英雄であり、その戦い方はグラウエンシュタインの国情にも適していたと言えるだろう。
もっとも、軍事に重きを置かない国是と、その後大きな戦争に恵まれなかったこともあり、昇進の機会には乏しかった。かつての英雄でありながら、退役間近になってようやく将官に列せられた――それがライヒェナウの来歴である。
先のカルノヴァ分割戦争にも彼は確かに出征していたが、その多くを後方で過ごし、エリザーベトのお気に入りである孫息子マクシミリアンの護衛役に徹していた。
それは、万一の際に最優先されるべき「マクシミリアンの脱出」という重大任務を確実に遂行できる人物が、彼以外に見当たらなかったからに他ならない――エルンストの読み通りであった。
「どうした?今日は元気がないな」
「ええ、最近少し仕事が立て込んでいて……」
「若いのに情けないな。嫁さんもいるんだろ?家で癒してもらえ」
「妻は生まれたばかりの息子につきっきりでして。私なんて相手にされませんよ」
疲労は嘘ではない。しかし、エルンストの沈んだ様子には別の理由があった。そして皮肉にも、その理由は目の前の男とも無関係ではなかった。
「ところで話は変わりますが……ライヒェナウ少将も、“サルヴィア暫定行政委員会”に出向されたことがおありですよね?」
その問いに、ライヒェナウの表情がわずかに強張る。
「……どうして、今、その話を?」
やはり、とエルンストは確信した。この件に、彼も関わっている。
「実は、カルノヴァ地域の代行統治について調査を命じられていまして。私はローゼンベルク担当ですが、ヴィルヘルム陛下の占領統治より、我が国の方が優れていると示せ、と」
「……そうか。だが俺から言えることは何もないな。“上の連中に聞いて”くれ」
――上の連中に聞け
それは官僚が好んで使う言葉であり、同時に沈黙を命じる合図でもある。現場の人間に余計なことを語らせないための、都合のいい常套句だ。
酒の勢いで若かりし頃の父の過去をその息子に暴露するような、この無遠慮な男の口から出る言葉ではない。
その瞬間、エルンストは悟った。
――この男も、か。
彼は外交官として磨き上げた笑顔で、丁重に頭を下げた。
「失礼しました。どうやら疲れているようです。父には私から伝えておきますので、今日はこれで」
「……おう。また、落ち着いたら飲もうや」
「はい、ぜひ」
そう言って別れた後も、ライヒェナウの訝しむ視線が背中に刺さるのを感じながら、エルンストは歩き続けた。
先ほどまで調べていた事柄を反芻しつつ、富と繁栄があまりにも深く染みついてしまったこの国の街路を、自宅へと向かって。
「ちょっとマクス、おばあ様の話、ちゃんと聞いているの?」
ほぼ同時刻、夕日に照らされる西向きの一室は、老婆が孫を窘める声で満たされていた。
投げかけられた言葉の幼稚さとは裏腹に、その対象である孫はすでに子供の年齢ではなく、妻すらいる立派な成人男性である。
「聞いてるって、お婆様。つまり、あれだろ?ローゼンベルクとは仲良くやっていかなきゃならないって話だろ。わかってるって、それくらい」
グラウエンシュタイン大公家直系のマクシミリアンは、祖母エリザーベトから今後の政局について説かれている最中だった。彼は次期大公の座に就く跡取りであり、帝国摂統オットー3世が政務から退いた後、その後継者と目されている人物である。
もっとも、それは彼自身の才能や人望によるものというより、単にエリザーベトが最も気に入っている孫息子だから、という理由が大きかった。
事実、マクシミリアンはオットー3世の三男であり、上に二人の兄がいる。それにもかかわらず、エリザーベトから最も愛されているという一点のみで次期大公が決まる――ある意味でとんでもない決定であった。
だが、グラウエンシュタインにおいて、ひいては正統ルガルディア帝国において、エリザーベトの意向は絶対である。
真面目に聞いているとは言い難い孫の態度に、エリザーベトは「仕方ない子ね……」と小さく溜息をつくだけで、それ以上咎めようとはしなかった。
彼女がマクシミリアンを溺愛する理由は単純だ。
彼が、誰よりも無邪気に自分へ懐いてくれる存在だからである。
エリザーベトは、グラウエンシュタインのみならず正統帝国全体においても比肩する者なき権力者であった。それは偉大であると同時に、畏怖の対象でもあるということだ。
14人の子を持つ彼女は、子供たちを大公家を支える人材として育てるあまり、教育に過剰なほどの熱意を注いだ。その結果、実子たちからは「恐ろしい母」と見られていた。
孫の代になると直接的な関与は薄れたものの、それでも「怖いおばあ様」という評価は、半ば常識として受け継がれていた。
そんな中で、マクシミリアンだけは違った。
甘え上手で怖いもの知らずの彼は、菓子をねだっては屈託なく喜び、その姿にエリザーベトもどうしても厳しく接することができなかった。
甘やかしすぎだと陰で囁かれるほどの溺愛ぶりだったが、グラウエンシュタインにおいて、それは何よりも強力な武器でもあった。
「しかしねぇ、婆様。俺、ローゼンベルクの連中は好きじゃないんだ。特にあの……らいめーおー?とかいうやつ」
「雷鳴王よ、マクス。雷鳴王ヴィルヘルム」
「そうそう!王様って偉ぶっちゃってさ。俺より立場が下のくせに、威張りすぎなんだよ」
「ヴィルヘルムの才能は本物よ。あの子は、これまでのローゼンベルク家の者たちとは比べものにならない実力を持っているわ。――あのフリードリヒの子とは思えないほどにね」
「軍隊が好きなだけだろ。野蛮だよ。俺には婆様が、あいつらを許してる理由がわからないね。そんなに怖いのかよ」
「怖いんじゃないわ。“使える”のよ。ローゼンベルクの軍隊は、今や帝国一と言っていい」
「じゃあ、俺たち負けるじゃん」
「そうならないために協力しようとしているの。敵はね……外に山ほどいるのよ、マクス」
エリザーベトがローゼンベルクを飼いならそうとする理由の第一は、帝国の安定である。それは単なる内輪揉めの回避ではなく、“外敵に隙を見せない”という冷徹な現実認識に基づくものだった。
「俺、戦場はもうごめんだね。カトリンに一日でも会えないなんて耐えられない。婆様にも」
「マクス、戦わなければならない時もあるのよ。あなたが戦わなければ、あの女優のお嬢さんを守れない日が来るかもしれないわ」
「……それは嫌だな」
「それにね。戦うことで得られるものもあるわ。それが奥さんを喜ばせる結果になるかもしれない」
「それはいいね!」
「マクス。軍隊や戦争を好きになれとは言わない。でも、戦うという選択肢を最初から捨ててはいけないわ。このグラウエンシュタイン、そして正統ルガルディア帝国を守るために必要なことなの」
その言葉には、一般論や君主論の書を朗読するのとは違う、72年の人生を生き抜いてきた重みが宿っていた。
「でも大丈夫よ。ヴィルヘルムが味方になれば、これほど心強い剣はないし……私たちにも頼もしい人材はいるわ」
「俺の護衛についてた、あの将軍のこと?」
「ヨーゼフもそうだけど……もっと頼りになって、頭の良い、素敵な外交官がいるわ」
エリザーベトの口元が、妖艶に歪んだ。
「エルンスト……とかね」
数え切れぬほどの人物を見てきたエリザーベトは、自身の人を見る目に確固たる自信を持っていた。
ヴィルヘルムがその言動以上に御し難い存在であることも、国政公務学院の歴代主席たちとエルンストとの決定的な違いも、すべて見抜いている。
「……誰それ?」
「マクスは会ったことはなかったかしら?あの子も才能に溢れているわ。ヴィルヘルムと同じくらいにね」
マクシミリアンには今ひとつピンと来なかったが、稀代の外交戦略家と名高いエリザーベトがそこまで言うのなら、きっと凄腕なのだろう――そう結論づけると、彼は思考を放棄し、美しい妻と今晩何を食べようか、という幸福な空想に意識を移した。
だが、老練な女主人は、なおも思索を続けていた。
「……少し、理想主義的なところが気になるけれどね」




