第3章:外交官エルンストの苦悩③
「ヴィルヘルム、早く戻って来い」
大陸暦1273年2月14日
ローゼンベルク王城の一室の前、廊下に置かれた椅子に腰掛けながら、ジークハルトは珍しく落ち着きを失っていた。
「アンタが焦ってどうするのよ」
隣に座るシャルロッテがそう言って彼を制止する。しかし、当の彼女もまた平静とは言い難かった。なにしろ二人は、王国の未来を左右する出来事の只中に立ち会っていたのである。
――王妃アーデルハイトが懐妊した。
その事実をジークハルトたちが初めて知ったのは、カルノヴァ分割戦争を終えて帰還して間もない頃だった。すでにアーデルハイトの腹部は大きく膨らみ、妊娠から相当の時が経っていることは明らかだった。ヴィルヘルムは国外はもとより、国内の近しい者にさえそれを秘していたのである。王族の後継者を守るという観点からすれば妥当な判断であり、側近であるジークハルトたちが知らされていなかったとしても不思議ではなかった。
それでも記憶を辿れば、思い当たる節はいくつもあった。アーデルハイトが体調を崩していたことはジークハルトも知っていたし、その時期が彼女がローゼンベルクに来て、財務省として激務をこなした後であったため、慣れない環境と過労によるものだろうと深く気にも留めていなかった。また、ノイ・ヴィーンでの正統帝国議会への出席、そしてその後に勃発したカルノヴァ分割戦争により、数か月にわたって王国を離れていたため、彼女と顔を合わせるのは実に半年ぶりだったのである。
腹部の大きくなったアーデルハイトは、ゆったりとした妊婦服に身を包み、かつての張り詰めた次期ザールマルク家当主の表情から、慈愛に満ちた母のそれへと変わっていた。その変化こそが、何よりも印象的だった。
ヴィルヘルムと語らう彼女の表情は穏やかで、「政略結婚」という前提で彼女を妻とした王の顔も、どこか愛おしそうに彼女を気遣っているように見えた。それがジークハルトには、素直に嬉しかった。
「肉食べろ、肉。男の子が生まれるらしいぞ」
「アンタ、馬鹿なの?甘いものを食べれば男の子になるのよ」
「それは貴族様だけだ。お前が生まれた年は不作だったんだ。本来なら男になってた」
「いい度胸ね、かかってきなさい!」
「お二人とも、もう性別は変わらないと思いますよ」
跡取りとなる男児の誕生を願い、ジークハルトは故郷の猟師村に伝わる風習を持ち出し、シャルロッテは貴族社会の言い伝えを主張した。やがて二人は兄妹喧嘩のような取っ組み合いを始め、アーデルハイトは苦笑しながら、臨月を迎えた腹を撫でていた。そんな穏やかな日々が続いていたのだ。
しかし――どうしても外せない急用があると言ってカルノヴァへ赴いたヴィルヘルムが戻らぬまま、アーデルハイトは産気づいた。
難産とまではいかないものの、初産ゆえか陣痛が始まってから丸一日が経っても、なかなか産まれない。経験のないジークハルトたちは大慌てで、落ち着きを失い、ついには宮廷医師に部屋を追い出された。それ以来ほとんど眠らぬまま、扉の前でアーデルハイトの身を案じ、ヴィルヘルムの帰還を待ち続けていたのである。
さすがに全員が不眠不休というわけにもいかず、交代で見守ることになり、今この場に残っているのがジークハルトとシャルロッテの二人だった。
「しかし、ヴィルヘルムももう親父になるのか。早いもんだな」
「感慨に浸るの早くない?アンタ、まだ結婚もしてないのに」
「お前もだろ、行き遅れ」
「なんですって!」
そう言って、二人は何度目かになる取っ組み合いを再び始めるのだった。
ヴィルヘルムの結婚に呼応して――とはやや大袈裟だが、二人の周囲では結婚ラッシュが続いていた。
まずはエリックである。内務相に任命されたのとほぼ同時期に、幼馴染の女性と結婚する決意を固めたという。相手は平民出身で、かつてエリックの実家の商売を手伝いながら長年彼を慕っていた女性である。平民出身の長身の優男が大臣として帰ってきて、さらに恋も実らせた――まさに絵に描いたような話で、市内では「素敵な恋愛物語」として広く語られた。
軍務相のアルブレヒトもまた、その一例である。かつては一族の血筋を嫌悪し、遺伝子的断絶さえも考えていた世捨て人だった彼が結婚するとは、多くの者に衝撃を与えた。50代に差し掛かる年齢であったが、ヴィルヘルムとの出会いをきっかけに生きる希望を取り戻し、後悔のない人生を歩む決意をしたのだという。相手はかつての婚約者で、アルブレヒトに婚約破棄を告げられた後、別の貴族に嫁いだ女性だった。しかし夫と死別し、貴族制廃止により家に縛られることもなくなった未亡人の彼女の前に、アルブレヒトは数十年ぶりに現れた。長い別離を経た二人の関係は、最初の手痛いビンタですら距離を縮めるのに十分だったようで、現在は静かに愛を育んでいる。
そして、最も衝撃的だったのは、兵站参謀のソフィアとジークハルトの幼馴染ハンスの組み合わせである。性格があまりにも正反対な二人に、ジークハルトはハンスの遊び癖から不義理を疑った。しかし、実際に結婚を申し出たのはソフィアの方だったという事実が、さらに周囲を驚かせた。
二人の関係の始まりは、第四次ノッセル回廊会戦の準備期間だった。ジークハルトが出した数学の課題を、ハンスがソフィアに代わりに解かせようとしたことが、大学で数学を学んだソフィアの逆鱗に触れ、徹底的に教え込まれることになったのである。そこから、ソフィアがハンスに読み書きや一般教養を教える関係が続き、次第に親密になった。
偶然とはいえ、ジークハルトも二人の仲を後押しするような役割を果たしていた。ソフィアにハンスの好みを尋ねられたり、兵站部の報告書提出の連絡役として彼女と面識のあるハンスを差し向けたりしていたのだ。後になって、最近のハンスの様子に違和感を覚えたことを思い出した。王国中央部の文化や貴族らしい生活習慣に馴染みのないはずのハンスが、それらを自然にこなしているのだ。その変化もまた、ソフィアとの関わりの中で少しずつ彼女に染められていった過程の表れであり、知れば知るほど納得のいくことだった。
「なんで、ハンス⁉」と失礼極まりない質問をしたシャルロッテに対し、ソフィアは「…自分で育てていく感じ?なのがたまらなくて…」と答えた。この微妙なニュアンスは後日の笑い話になった。ちなみにハンス本人はソフィアの想いに全く気づかず、王都の飲み屋で女給を引っ掻き回していたところを、他人に取られる前にソフィアがものにした――というのが一連の経緯である。
人生とは、何が起こるか分からないものである。
「妹も故郷で結婚したらしいし、俺もいい頃合いなんかねぇ」
「アンタには相手がいないでしょ。背も小さいし」
「ぶっ飛ばすぞ。…お前もいつか家庭に入るんだから、遅くないうちに旦那見つけろよ」
「私はいいのよ。この仕事好きだし、もう貴族でもないから気楽だしね」
「確かに、バリバリの女軍人だからな。理解ある奴じゃなきゃ続けていいってわけにはいかんか」
「そうそう。幸いにして私には兄が二人、妹が一人いるから、孫の顔見せる役目はそっちに任せてるの」
会話の最中、シャルロッテはふとジークハルトの様子に目をやり、どこか安心した。パルミラートの一件以来、時折思い詰めた表情を見せる彼のことが、ずっと気になっていたのだ。
人一倍感受性の強いジークハルトにとって、あの出来事は相当に堪えるものだった。いつもの彼ではなくなってしまう様子を目にするたび、腐れ縁のシャルロッテは居心地の悪さを感じていた。彼を気にかけながらも、王都に戻り、ヴィルヘルムの子供が生まれることが、彼を立ち直らせるきっかけになればいいと心の中で願っていた。
その一方で、シャルロッテは思う。もしかすると、彼自身こそ結婚を機に軍人から足を洗い、もっと自分に合った生き方を選ぶべきなのではないか――と。
しかし、その考えが頭をよぎったちょうどその時、ジークハルトを軍人から引き離せない理由を持つ人物が、姿を現した。
「ジークハルト、アイゼンドルフ。疲れているようだな」
突然の声に二人が視線を上げると、落ち着いた様子のヴィルヘルムが立っていた。
「落ち着いているっていうか…どっしり構えてるよなお前って。もうすぐ産まれそうなんだけど」
「まあ、産むのは私自身ではないからな。慌てたところでどうにもできんし」
もう少し奥さんを心配しろよ…とジークハルトが非難しようとした瞬間、ヴィルヘルムの後ろからヨハンが慌てて駆けてくるのが見えた。
「陛下、急に走らないでください!まだ帰ってきたばかりなんですから、落ち着いて」
ヨハンの声に、ジークハルトとシャルロッテは改めてヴィルヘルムの姿を観察した。外行きの正装に身を包み、額にはじんわりと汗。前髪も走ったせいか少し乱れている。
「…なんだ、ニヤニヤして」
「いや、別に?雷鳴王にも人の心があるんだなって思っただけ」
「不敬罪だぞ、ジークハルト」
そのときだった。
――おぎゃあっ、ああっーー!
雷鳴のように響き渡ったその声に、皆が顔を上げ、耳を澄まし、互いに視線を交錯させる。誰も声を出せなかった。一瞬か、永遠か――不可思議な時間が流れ、産室の扉が開き、宮廷医師が顔を見せた。
「ヴィルヘルム陛下、おめでとうございます。元気な男の子でございます。王妃様も無事です」
その言葉をどれだけ待ち望んだことだろう。正常な時間軸に戻った者たちは一斉に歓喜の声を上げた。
「良かった!良かった!」
「陛下、おめでとうございます!」
「ああ…」
口々に祝福の声を送る側近たちに、ヴィルヘルムは空返事で答える。
「顔、見せてやれよ、お父さん」
少しからかう口調のジークハルト。その瞳には、クマが色濃く浮かぶ中、涙が滲んでいた。
ジークハルトに背中を押され、ヴィルヘルムは先に産室へ入った。
「陛下…」
そこには汗だくで、疲労の色濃い王妃アーデルハイトの姿があった。一日にも及ぶ格闘でほとんどの体力を使い果たしていたが、我が子を抱く腕の力は決して緩めなかった。
「アーデルハイト…」
雷鳴王と呼ばれるにはか細い声だった、と宮廷医師はその時の様子を語る。
「どうぞ、抱いてやってください」
アーデルハイトが差し出した布に包まれた命を受け取り、ヴィルヘルムは腕の中にずっしりとした重みを感じ、布越しに貫く温もりを実感した。
「……」
ヴィルヘルムは言葉を失った。そこに確かにある命の灯を前に、彼が何を思ったかは彼自身にしか分からない。だが…
「ようこそ、この世界へ」
息子を抱く雷鳴王の目から零れた涙が、彼の感情をすべて物語っていた。
かくして、ヴィクトル・フォン・ローゼンベルクはこの世に生を受けた。




