第3章:外交官エルンストの苦悩②
大陸暦1273年2月4日
ヴィルヘルムは雪深い季節にもかかわらず、旧カルノヴァ=ストリェッツ共和国領ワルサヴィクにあるカルノヴァ統治行政局を訪れていた。交通の便も未整備なこの地へ、あえてこの時期に足を運んだ理由は、ただ一人の人物に会うためである。
「ええと……失礼します……」
遠慮がちに入室してきたのは、カルノヴァ統治行政局交通整備部に籍を移していた元工兵将校、カジミェシュ・シモンスキであった。国王の突然の来訪、そして自分が呼び出された理由が分からず、驚きと動揺を隠せない様子であったが、ヴィルヘルムに着席を促されると、ようやく落ち着きを取り戻した。
「カジミェシュ・シモンスキ。貴官のこの地での働きは、実に評価に値する」
その言葉に、カジミェシュはただ頭を下げるしかなかった。
「あ、ありがとうございます……。まさか陛下から、そのようなお言葉を頂けるとは……」
しかし内心では、不安と混乱が渦巻いていた。国王自らが、この雪深い冬に辺境まで足を運ぶ理由が、単なる称賛や激励であるはずがない。その真意を測りかねていたのである。
「アンスバッハからの報告を読んだ。特に、この復興幹線道路の建設は見事だ」
ヴィルヘルムが指したのは、彼自身がこの地へ向かう途中で通ってきた道路であった。2年以上に及ぶ内戦と、カルノヴァ分割戦争によって荒廃した地域であったが、わずか数か月のうちに復興の兆しが現れ始めていた。その象徴こそが、カジミェシュが提案し、自ら陣頭指揮を執った『復興幹線道路』の建設である。
工兵としての技術と、兵站将校として後方業務に携わった経験から、彼は補給路の重要性を誰よりも理解していた。あらゆる物資は道を通って運ばれる。そこが寸断されれば、復興も行政も機能しない。ゆえに、ローゼンベルクから供給される物資や食料を各地へ行き渡らせるためには、大動脈たる主要道路の整備こそが最優先事項であった。
「い、いえ……それはアンスバッハ閣下のご裁量あってのことでして。小官は……」
カジミェシュがこの構想を提案したのは、投降兵や保護民間人をまとめ、復興作業に従事させていた収容所所長時代であった。当初、彼自身も採用されるとは思っていなかった。これまでの職場では、現場や専門家の意見が通ることなどほとんどなかったからだ。
だが、統治行政局長に任命されたアンスバッハは違った。事前にヤンから提出されていた資料により、カジミェシュの人柄、能力、実績を把握しており、収容所所長としての成果と支持の厚さを評価し、即断で計画を承認した。そして、彼に自由な裁量を与えるため、交通整備部の責任者に任命したのである。
そのあまりの風通しの良さに、最も動揺したのは提案者本人であった。だが、ヴィルヘルムという大胆な人材登用を行う君主のもと、中央軍で引き抜かれ、第1軍団長、カルノヴァ東方遠征軍司令官、そして統治行政局長へと至った自身の経験が、アンスバッハに優れた人材を抜擢することへの躊躇を失わせていた。
結果として、カジミェシュの指揮のもと、道路建設は順調に進んだ。彼を慕う者が多かったことも幸いし、雪による作業停滞が始まる前に、かつての大陸公路を拡張し、ローゼンベルクからワルサヴィクまでを結ぶ復興幹線道路は完成したのである。
ヴィルヘルムとアンスバッハからの高い評価に、カジミェシュは年甲斐もなく照れを覚えた。これほどまでに評価された経験は、彼の人生にはなかった。
「そこで、貴官に新たな仕事を任せたい」
ヴィルヘルムは、賞賛だけで終わる男ではない。
「貴官を王国交通省次長に任命する」
「……は?」
「次長、ですか?二番目に偉い……私が?」
あまりに桁外れな登用に、思わず声が漏れた。その様子を楽しむように微笑みながら、ヴィルヘルムは理由を語る。
「大臣は省庁を総括する立場だが、現場の指揮は難しい。次長であれば高い権限を持ちながら、現場で比類なき裁量を振るえる。貴官に任せたい仕事には、その立場が最適だ」
しかしカジミェシュが口にしたのは、地位の理由ではなかった。
「私は……共和国人です」
「それが何だ?」
ヴィルヘルムは即座に言い切った。
「カルノヴァ=ストリェッツ共和国は、すでに地図から消えた。今あるのはローゼンベルクの支配領であり、貴官もまたその民だ。消えゆく名に、未練でもあるのか?」
あまりにも豪胆で、あまりにも大胆不敵。既存の肩書や出自は、この若き王の前では意味を持たない。――これが雷鳴王か。カジミェシュはそう実感した。
ヴィルヘルムは、まっさらな大地に立つカジミェシュを見ていた。共和国人であった過去ではなく、彼の技能、適性、実績のみを見て、職と権限を与えようとしているのだ。
ゆえにカジミェシュは、その期待に応えることを選んだ。
「光栄です。そのように評価していただけるとは……」
「よろしい。では、その分しっかり働いてもらう」
「……では、私は何を?」
「良い質問だ」
ヴィルヘルムは副官から受け取った筒状の紙を広げた。
「これは……王国の勢力図ですか?」
「そうだ。貴官には、この全域を網羅する交通網を建設してもらいたい。鉄道、幹線道路、軍用道路、橋梁、河川交通網――すべてだ」
これが後に『帝国交通網再編計画』、通称『シモンスキ・プラン』と呼ばれる国家的大事業である。交通省次長に任命されたカジミェシュ・シモンスキは、帝国の交通と軍事機動の基盤を築いた人物として歴史に名を残すことになる。
人は彼をこう呼ぶ。
――『帝国ハードインフラの父』
この計画は春から着手するよう厳命された。急な任命と下令であったが、雪解けと同時に事業を始められるよう、現地で働いているカジミェシュに配慮し、ヴィルヘルムがわざわざこの地を訪れたのだと知り、カジミェシュに拒む理由はなかった。むしろ、理解ある上司のもとで、後世に形として残る仕事に携われることに、彼は震えるほどの喜びを覚えていた。
シモンスキ・プランの完成には数年を要した。しかし、その効果が本格的に発揮される前に、対グラウエンシュタイン戦争が勃発する。完成を待つことはできなかったが、彼の技能と権限、そして彼を慕う人員によって、交通網は実戦投入に耐えうる水準まで引き上げられていたのである。
その中の一人に、ヤン・ピレツキもいた。
内戦下における現地潜入および情報収集任務での功績を認められ、彼はヴィルヘルムから褒章について希望を問われた。だがヤンが選んだのは、栄誉や地位ではなかった。彼は、尊敬してやまないカジミェシュのもとで働き続けることを望み、彼と同じ交通省の職員となる道を選んだのである。
そこで一つの問題が生じた。彼の本名は「ヤン・ピレツキ」であり、カジミェシュが知る「パトリク・ミハウスキ」は潜入時に用いていた偽名だったという点である。このまま彼の配下として働く以上、その齟齬を解消しなければならなかった。
だがヤンは、自身の本名ではなく、「パトリク・ミハウスキ」として生きることを選んだ。それは過去を捨て、新しい自分として再出発するという決意であり、何よりも、自分が最も慕う人物に呼ばれ続けた名への、静かな愛着からであった。
こうしてカジミェシュは、彼の真の名を知ることのないまま、パトリク・ミハウスキと共に働き、人生を歩むことになる。しかしその矛盾は、誰かを欺き、あるいは傷つけるためのものではなかった。ただ、互いの信頼の上に静かに横たわる、名もなき選択であった。
一方ヴィルヘルムは、ヤンの働きを高く評価すると同時に、将来的に敵対する国家や地域、あるいは潜在的な敵国の内部に人員を潜入させ、情報収集や工作活動を行う専門組織の必要性を強く認識した。そして、その構想をもとに、極秘裏に一つの機関を設立する。
その名を『ピレツキ機関』という。
しかし、その存在も、その名の由来も、カジミェシュとパトリクが知ることはなかった。みすぼらしい風貌の一人の男の名を冠したその機関は、やがて後世において一部の者から憧憬の対象となる。だがそれもまた、彼自身のあずかり知らぬところで語られる物語である。




