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第3章:外交官エルンストの苦悩①

 大陸暦1273年――後に「雷鳴王ヴィルヘルムの内政時期」と位置づけられるこの年、カルノヴァ分割戦争の終結を除いて最初に起こった大きな出来事は、“内務相の任命”であった。


「エリック・グルーバー。貴官を予備役中佐とし、併せて内務省大臣に任命する」


 ローゼンベルク王城で執り行われた大臣任命式において、ヴィルヘルムはかつて戦場を共に駆け抜けた戦友に、王国の内政を司る要職を託した。


「誠心誠意、職務に励む所存です!」


 長身の若き内務相の誕生は、参列者すべての拍手喝采をもって祝福された。その中には、老獪な食わせ者として知られる王国宰相クロイツェルの拍手も含まれていた。


 エリックは、ボレニア統治行政局の特別行政補佐官として、約一年にわたりボヘリクで職務に従事していた。彼は優れた統率力と調整能力、そして誠実で献身的な人柄によって、統治行政局の官僚たちのみならず、旧ボレニア領の住民からも厚い信頼を勝ち得ていた。


 占領下にある旧ボレニア領は、将来的にローゼンベルク王国へ併合される予定であり、その過程で人心を掌握し、反発を最小限に抑えるための事前統治行政が行われていた。その中核を担ったエリックの働きは、まさに見事というほかなかった。


 とりわけ、20年近く軍事とほぼ完全に切り離されてきた平民にとって、ローゼンベルク式の軍制や徴兵制は最大の不安要素であった。徴兵制は兵力確保の制度であると同時に、国家の意志のもとで軍務に服することで、愛国心や帰属意識を育む役割を持つ。旧ボレニア領の人々にもいずれその一端を担ってもらうことは、支配体制を盤石にするうえで避けて通れない道であったが、それを現実のものとしたのがエリックであった。


 彼が軍人出身であったことは大きな利点となった。軍事経験を持たない官僚では非効率に陥りがちな軍政を円滑に運営できただけでなく、武骨で威圧的な王国軍人とは異なり、「なぜあなたが軍人なのか」と思わせるほど穏やかな風貌と人柄が、ボレニアの人々に安心感を与えていた。その一点だけでも、ヴィルヘルムは彼に任せて正解だったと確信していた。


 さらにエリックは、徴兵制と、ボレニア出身者によって編成された統治行政局直属の『軍警予備隊』を積極的に活用した。治安維持や国防といった任務を現地住民自身が担う体制を築くことで、住民の安心と信頼を獲得すると同時に、「自らの手で故郷を守る」という使命感と誇りを植え付けることに成功したのである。


 ボレニア統治行政局を最終的に監督する立場にあったクロイツェルも、エリックの手腕と人望を高く評価していた。彼の強い後押しを得たことが、エリックを内務相に推挙する決定打となった。先任の内務相ルートヴィヒが退いた後、その職務は一時的にクロイツェル自身が兼ね、政治基盤の一部としていたが、それを進んでエリックに譲るほど、彼への信頼は厚かった。


 エリックを内務相として不適ではないかと囁く者もいたという。しかし、その声に対しクロイツェルは一言で黙らせた。


「グルーバー内務相の欠点を挙げるとすれば、“若すぎる”ことだろう。だがヴィルヘルム陛下も同い年だ。年齢を理由に否定するのは、不敬極まりないとは思わんかね?」


 彼にここまで言わしめる人物である。ヴィルヘルムを摂政に任命した時や、アーデルハイトを財務相に据えた時よりも、クロイツェルははるかに素直に内務相の欄へ「エリック・グルーバー」の名を記した。


 こうして内務相となったエリックは、その実績を買われ、ボレニア統治行政局およびカルノヴァ統治行政局といった占領地行政を統括する『統治行政総監部』の総監を兼任することとなった。同総監部は内務省の管轄下に置かれ、新たに獲得した領地を将来的に併合するための行政全般を担うことになる。


 ローゼンベルクが、戦争によって得たボレニアとカルノヴァを平和裏に取り込むことができたのは、疑いなくエリックの功績であった。ヴィルヘルムもまた、士官学校時代に彼と出会って以来、相応しい地位に就いてほしいと願っており、この登用はあらゆる意味で最良の人事であった。


 内務相就任により軍籍は予備役となり、エリックはかつてのヴィルヘルム軍団から離れることになったが、同期生たちはその栄進を盛大に祝った。カールは「俺たちの誰よりも出世しやがって」と肘で突き、ヨハンは「あるべき場所に落ち着いた、と見るべきだろう」と当然の結果として評した。


 そして何より彼の出世を喜んだのは、その家族であった。平民出身のエリックは、官僚の道を歩ませられず士官学校へ進ませたことに、両親が負い目を感じていた。その彼が軍人として出世し、さらに官僚の頂点とも言うべき大臣に任命されたことは、これ以上ない喜びであり、栄誉であったに違いない。


「運が良かったのと、出会った人たちのおかげだよ」


 そう謙遜するエリックの言葉は、彼の人柄を示すものであると同時に、その出世が単なる幸運だけによるものではないことを、雄弁に物語っていた。


 もっとも、エリックを裏から支えた人物が存在しなかったわけではない。


「モルゲンフェルス。貴様を内務省保安監察局局長に任命する」


 ほぼ同時期、ボレニア統治行政の“陰の功労者”もまた、内務省の管轄下で職を与えられていた。


 エリックがボレニア統治行政局において卓越した手腕を発揮したことは疑いようがない。だが、それはすべてが円滑かつ平和裏に進んだことを意味しない。先のボレニア戦争を生き延びた騎兵軍の残党は各地に潜伏しており、ローゼンベルクに対し徹底抗戦の意思を捨てない者も少なくなかった。


 そうした者たちの情報収集、裏工作、そして“始末”を一手に引き受けていたのが、蛇のように強欲で、執念深い男――モルゲンフェルスであった。彼はボレニアに潜む不穏分子を調査し、拘束し、時には闇に葬ることで、エリックの行政を文字通り裏側から支え続けたのである。


 もっとも、その行動原理はエリックへの忠誠心や好意によるものではない。自らにとって利益があるかどうか、それだけが判断基準であった。事実、秘密裏に処分した旧貴族の財産を掠め取ったり、あるいは彼らを取り込んで自身の勢力としたり、統治行政局内での権限を強めるために他者を貶めたりと、その振る舞いは決してヴィルヘルムの好むものではなかった。


 しかし、モルゲンフェルス自身は、ローゼンベルクとエリックの側につくことが最も得策であると冷静に判断していたのだろう。少なくとも、体制そのものに反抗の意思を示すことはなかった。人格に重大な欠陥を抱えてはいたが、有能であることもまた否定できず、結果として彼は登用されるに至ったのである。


 彼が担った職務は、端的に言えば“秘密警察”であった。表向きは行政機関や地方官庁の監察、国家治安の維持を任務とする部署である。しかし実際に求められたのは、反乱分子や不穏分子の調査と無力化であり、とりわけ占領地域において顕著な成果を挙げていたことが、後世に発見された文書によって明らかになる部署であった。


「私が裏切るとは思わないのですか?」


 その職に就く際、モルゲンフェルスがヴィルヘルムに投げかけた言葉である。実に彼らしい、嫌味と挑発に満ちた問いであった。


「裏切るのか?」


「可能性としては考慮すべきでしょう。この職務を駆使すれば、いかようにも事を成せます。それを憂慮もせず権限を与えるなど……愚かだ」


 それに対するヴィルヘルムの返答は、あまりにも豪胆であった。


「貴様は賢い男だ。私が、貴様にとって利益をもたらす木である限り、そんな愚かな真似はすまい」


「……後悔されませぬように」


「後悔させてくれるなよ」


 かくしてモルゲンフェルスは、その歪んだ人格と、職務への適性、そして冷酷な能力をもって、何ら心を痛めることなく、ヴィルヘルム体制に反抗の意志を示す者たちを駆除していった。


 そして後に、極めて不愉快な功績によって、ヴィルヘルムの命を救うことになるのだが――それは、今ここで語るべき話ではない。

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