第2章:カルノヴァ分割戦争⑧
エルンストは、自身の分析に致命的な誤りがあったことを認めざるを得なかった。それは、カルノヴァ分割戦争の最中、ヴィルヘルムに同伴したことで否応なく突きつけられた現実だった。
「アンスバッハ、全軍を布陣させろ。ここで敵集団を殲滅する。グラウエンシュタイン軍が展開する東側へ向け、包囲網を狭めろ。足の遅い彼らにも戦功の機会を与えてやらねばならんからな」
「了解いたしました、陛下。ご命令どおり部隊を配置いたします」
淀みなく指示を下す国王ヴィルヘルムと、その命令を寸分違わず戦場で具現化していく前線司令官アンスバッハ。そのやり取りを目の当たりにしながら、エルンストは自らがどれほど恐ろしい相手を見誤っていたかを痛感していた。
共和国首都ワルサヴィクに前線司令部を設置したヴィルヘルムは、到着したローゼンベルク軍をいったん同地に集結させ、そこを拠点としてさらなる占領地の拡大を命じた。それは参謀本部が当初受けていた指示を明らかに逸脱する追加戦闘を意味していたが、彼はグラウエンシュタイン軍の到着を待つ間にも戦果を積み重ね、ローゼンベルクが統治を担う領域を広げる意図を隠そうともしなかった。
当初の予定になかった戦線拡大に対し、エルンストは異議を唱えた。外交官である彼は、本国の意思を体現する存在であり、グラウエンシュタインの国益に反する行動を看過することはできなかったのである。
しかしヴィルヘルムは冷ややかな視線を向け、こう言い放った。
「エルンストよ。これはひとえにグラウエンシュタイン軍の到着が遅れ、我々の足を引っ張っているからに他ならない。同盟の目的とは、この内戦で荒廃したカルノヴァの地に平和と秩序を取り戻すことだ。遅延する友軍を待つために、その使命を放置するわけにはいかぬ」
長い時間を共に過ごし、エルンスト自身も友好関係を築こうと努めた結果、ヴィルヘルムは彼を家名ではなく名で呼ぶようになった。しかし、その名とともに投げかけられる言葉はあまりにも冷徹で、取り付く島もない。その事実に、エルンストは底知れぬ恐怖すら覚えていた。
同盟の意義と戦争目的を大義名分に掲げながら、ヴィルヘルムの行動原理が強烈な野心と、それを実現するための圧倒的な行動力によって支えられていることを知ったとき、エルンストは悟らざるを得なかった。共和国領の一部を分け与えることで雷鳴王を満足させ、グラウエンシュタインとの良好な関係を維持するという目論見は、あまりにも非現実的だったのだ。
雷鳴王は、止まらない。
なぜ彼が畏怖を込めてその名で呼ばれるのか――エルンストは、その理由を真の意味で理解してしまったのである。
グラウエンシュタイン軍がローゼンベルク軍と合流するまで、正確には12日間を要した。この合流が果たされるまでの間に、ローゼンベルク軍はワルサヴィク方面の戦線を突破し、事前の取り決めにはなかった地域にまで侵攻、制圧・占領を進めていたのである。
グラウエンシュタイン軍が到着したのは、その拡大された占領地域の外縁部であった。ローゼンベルク軍が進軍を続けていなければ、合流はさらに遅れていたことは明白である。これは、グラウエンシュタイン軍の鈍重さを白日の下にさらす失態であった。
さらに前線司令部において、司令官アンスバッハはエルンストにも聞こえる声で、こう漏らした。
「共和国人にとっては、グラウエンシュタイン軍よりローゼンベルク軍の保護下に入った方が、よほど幸せでしょうな」
それは、ジークハルト率いる機動戦闘団が目撃したパルミラートの一件を指していた。暗にグラウエンシュタイン軍の非道と規律の乱れを批判する言葉である。エルンストは反論できなかった。正式な確認こそ取れていないものの、それがグラウエンシュタイン軍の犯行である可能性は高く、しかも被害がその一件だけで済んでいるとは、彼自身も信じられなかった。
一方、ローゼンベルク軍の占領統治は見事というほかなかった。厳格な規律のもと、投降者や現地住民に手厚い支援を施すだけでなく、捕虜収容所長に任命したカジミェシュをはじめ、他の共和国軍人にも統治業務を委ね、限定的ながら自治権を認めていたのである。占領統治の負担を分散し、自軍の戦力消耗を抑えるという現実的な計算に基づく措置ではあったが、被占領民にとっては理由など些細な問題だった。強制労働や搾取ではなく、自らの手で生活を再建できるという事実が、彼らに計り知れない安心感と誇りを取り戻させたのである。
また、厳格な軍規の適用と憲兵隊による巡察・捜査によって、軍規違反や住民への犯罪も公正に取り締まられた。その理性的かつ清廉な占領軍の姿に、現地住民は次第に信頼を寄せるようになっていった。
この占領統治の差異は、戦時にとどまらず、後世においてある言葉として語り継がれることになる。
「我々は、掲げられた旗によって生死も扱いも変えられた。薔薇の刻まれた旗が翻ったときの感動を、我々は決して忘れない。別の旗が掲げられた地から逃れてきた者たちは、皆こう口にした。――雷は、いったいどこで鳴っているのか、と」
やがて合流した両軍は、共和国中央部から北上したタルニスの地において、共和国勢力を包囲した。外敵の侵入に対応するため、共和国諸勢力が一時的に結集したことを好機と捉え、両軍はこれを一挙に包囲殲滅することで合意していた。こうして『タルニスの包囲戦』と呼ばれる戦いが始まった。
だが、その戦闘においても主導権を握ったのはローゼンベルク軍であり、グラウエンシュタイン軍は鹿狩りの接待でも受けているかのように、追い立てられた獲物を待ち構えるだけの存在に甘んじた挙げ句、押し寄せる敵部隊の圧力に耐えきれず、敵指導者を取り逃がすという失態を演じた。
その役目すら果たせぬ、無様な結末であった。
「……なんという体たらくだ」
この失態と無様な有様を目の当たりにして、雷鳴王が果たしてグラウエンシュタインを盟友と見なすだろうか。軍人ではないエルンストですら、そう考えずにはいられなかった。祖国が示した一連の行動は、ローゼンベルクの野心を抑え、友好関係を築こうと奔走してきた外交官の努力を踏みにじるものだった。悪態の一つもつかなければ、やっていられない。
それでもなお、エルンストはグラウエンシュタインを祖国と仰ぐ外交官である。国益と損失に直結しかねないローゼンベルクの行動を、外交手腕によって制御するという役目を、彼は放棄してはいなかった。
『タルニスの包囲戦』を勝利で飾ったローゼンベルク軍は、グラウエンシュタイン軍が取り逃がした敵部隊の追撃を断行しようとした。それが“追撃”という名を借りた占領地拡大であることを、もはや隠そうともしない大胆さで。
「陛下、これ以上の戦域拡大は、むしろ共和国の平穏を乱すのではないでしょうか?」
――一体、どの口が言っているのだ。
エルンスト自身、そう自嘲していた。ローゼンベルクとの共同戦線を提案したのは自分であり、どのような過程を経てもグラウエンシュタインの国益になると声高に主張したのも自分だ。そして今、制御不能となったヴィルヘルムを止めるために、この戦争を始めた理由そのものを否定しかねない言葉を吐いている。エルンストは、自身の舌の軽さを呪わずにはいられなかった。
「……エルンスト」
ヴィルヘルムの声色は、決して好意的なものではなかった。軽蔑か、失望か、あるいは祖国の利益にしがみつくことをやめられない外交官という役職への哀れみか。エルンストの胸を占めていたのは、ヴィルヘルムに見放されることへの恐怖だった。
「強い国とは、なんだと思う?」
「……は?」
「答えよ。強い国とは何か」
あまりに唐突な問いに、エルンストは一瞬、思考が止まった。
「……強大な軍事力と、それを支える体制を有していることでしょうか」
ヴィルヘルムが求めているのは、自身とローゼンベルクの行いの正当化だ――エルンストはそう考えた。それは確かに、グラウエンシュタインには欠けた強みだった。
「違う」
しかし、ヴィルヘルムは即座に否定した。何かが足りなかったに違いないと、エルンストは瞬時に思考を巡らせたが、ヴィルヘルムはその場しのぎの答えを待つことなく言葉を継いだ。
「強い国とは、降りかかる理不尽な災厄から、そこに住む民を守る力を持つ国のことだ」
そう言ってヴィルヘルムは、両軍に包囲殲滅され、戦場に亡骸を晒す共和国兵たちを指さした。
「彼らは強い国ではなかった。だから、戦争しか知らぬ野蛮な軍隊に国土を蹂躙され、守るべき民草を非道から守ることすらできなかったのだ」
「……すべての国が、そうではありません。ヴィルヘルム陛下」
それは外交官としての言葉ではなかった。グラウエンシュタイン人としてでもない。この戦場を彼と共に歩んできた、一人の青年――エルンスト・フォン・ファルケンヴァルトとしての率直な言葉だった。
その変化に気づいたのか、ヴィルヘルムは初めてエルンストに正面から向き直った。青く深い、蒼穹を思わせる瞳。彼がこうしてこちらを見据えるのは、いつ以来だっただろうかと、エルンストは思う。
「そうだ。すべての国が強ければ、戦争など入り込む余地はない。誰もが自分の守れる範囲の者を守れるのだから、決着がつかない」
だが、とヴィルヘルムは続けた。
「ではなぜ、力を求めない?力なきがゆえに蹂躙されると分かっていて、なぜだ?」
「陛下、それは極論でございます」
「そうかもしれんな。だが、自ら守るべき民を守る力も持たぬ者が、君主として威張るのはおかしな話ではないか?」
「……」
エルンストは答えられなかった。あまりにも正しすぎた。
正論だけなら、反論はいくらでもできる。だが目の前の雷鳴王は、理念を語るだけの者ではない。それを実行し、実現してきた男だ。彼の正論には実体がある。ゆえに鋭く、固く、容赦なく、弱き者を切り裂く。
「強き国が弱き国を蹂躙するのは自然の摂理だ。彼らは怠慢を甘受すべきではなかった。だからこそ、守るべき領土も民草も、財産も、すべてを奪われる。そういう国は、滅ぶしかないのだよ、エルンスト」
あまりにも傲慢で、あまりにも独善的だ。エルンストはかつて読んだ、シャルル騎士王を記した著書を思い出した。これが侵略者の論理なのか、と。
――しかし
「だからこそ、私は強くあろう。私の国の民を守るために。ローゼンベルクの民だけではない。怠慢な君主のもとで、果たされぬ安全保障を信じ続ける蒙昧な人々をも救う。彼らがその生涯において、一度たりとも“守られない”ことがないように」
侵略者と呼ぶには、あまりにも人々に夢を見せている。徹底した現実主義の中に、わずかに混じる清廉な理想。その相反する要素こそが、雷鳴王の人間的な核なのだと、聡明なエルンストは微かに理解し始めていた。
共和国の国土をパイでも切り分けるかのように奪っていく雷鳴王の狙いは、領土欲でも名誉欲でもない。強き自身のもとで守られるべき民を、より多く抱え込むこと。統治もままならぬ共和国議員でもなく、自軍すら制御できぬ大公でもなく、彼自身と、彼が信じる者たちによる安全保障と清廉な統治、そして豊かさを享受できる生活。その実現こそが、雷鳴王の野心のすべてだった。
エルンストは、自身の分析に致命的な誤りがあったことを認めざるを得なかった。




