第2章:カルノヴァ分割戦争⑦
「…ジークハルトに何かあったのか?」
ワルサヴィク前線司令部に着任したヴィルヘルムはそう問うた。
機動戦闘団が首都攻略を完了し、グラウエンシュタイン軍との合流を果たすため出立したと聞き、その帰還を迎えに来たのだ。
しかし再会したジークハルトの表情、そして彼を包む雰囲気は、いつもとは明らかに異なっていた。
「それが…」
団員たちは言い淀み、誰も事情を説明しようとしない。業を煮やした副団長のシャルロッテが、事の経緯を口にした。
その瞬間、ヴィルヘルムは、損な役回りを彼女に押し付けてしまったことを後悔した。
シャルロッテが語ったのは、ワルサヴィク南方の都市パルミラートで起きていた事件だった。
非武装の民間人への一方的な虐殺、生死を問わぬ非人道的扱い、物資や財産の略奪、正当化できない暴行――そして、それらを是正せず放置する現場指揮官の姿まで。
彼女は見てきたすべてを、ヴィルヘルムに報告した。
「そんな⁉ 我がグラウエンシュタイン軍が⁉ ありえない!」
同行していた外交官エルンストは反射的に否定した。だが、直後に向けられた戦闘団員たちの視線が、事実を否定しようのないものとして示していた。
「まさか…そのような非人道的行為が……」
エルンストも愕然とし、言葉を失った。
その態度こそ、彼が何も知らず、それを肯定も否定もしない誠実な人物であることを、皮肉にも証明していた。
「なるほど、ジークハルトはそれで…」
事情を理解したヴィルヘルムは、戦闘団の面々を労い、休養を許可した。
そして、そっと告げる。
「今は、ジークハルトと二人にしてくれ」
瓦礫の山に腰を下ろしたジークハルトのもとへ、ヴィルヘルムは足を運んだ。
ヴィルヘルムは瓦礫の一つを踏みしめ、崩れる音を立てた。
「……」
「ジークハルト、よく無事に戻った。この度の戦果、見事である」
「ああ…ヴィルヘルム。ごめんな、色々と勝手なことをしちまった」
彼の視線の先には、独断で行った首都攻撃、砲撃による瓦礫の山、そしてグラウエンシュタイン軍との合流を目指した一連の行動があった。
それらに対する、彼なりの謝罪だった。
「良い。結果的には、お前のおかげでグラウエンシュタイン抜きにワルサヴィクを手中に収められた。
瓦礫だらけだが、新しい都市に作り替える予定だ。区画整理の手間が省けたと思えばむしろ好都合だろう。
それに、グラウエンシュタイン軍の正確な位置も判明した。参謀本部にとっては褒められることはあっても、責められることではない」
「そうか…そう言ってくれると、助かる」
「「……」」
二人の間には、しばしの沈黙が影を落とした。
そして、その沈黙を破ったのはヴィルヘルムの方だった。
「前にも言ったが、お前の感覚は正しい。何も間違ってはいない。今回の件も例外ではない」
しかし、その言葉はジークハルトの心に落ちた影を、完全に取り払うことはできなかった。
「あいつら人間じゃない……いや、人間だから、そんな酷いことができるのか……」
「その考えは半分正解で、半分不正解だ、ジークハルト」
ヴィルヘルムは冷徹な口調で、人間社会の理不尽さを告げた。
「ここは戦場だ。戦争は、人間独特の卑しさと愚かさが生み出した地獄であり、あらゆる人間的営みが力と野獣性によって蹂躙される」
彼はさらに、ジークハルトが知らないローゼンベルク軍の汚点についても語った。
「我が軍も例外ではない。この戦争においても、私のもとにはいくつもの報告が上がってくる」
「今までそんなことは聞いたことがない」
「それも無理はない。お前が戦った戦場は、ノッセル回廊のような軍事的要衝に集中した局地戦であり、王位を巡る身内同士の政治的掃討戦でもあった。そして先のボレニアでは、軍人と民間人がほぼ分離され、軍人だけを相手にしていればよい限定戦だったのだ」
ジークハルトはこれまで幾つもの戦場を経験してきたが、それらは限られた範囲の短期戦であり、民間人の生活圏を巻き込む長期大規模戦争は初めてだった。
もしかすると、自分が身を置いていた戦場は、思ったよりも理性的な場所であったのかもしれない――本来の戦場とは、こうも残酷で、理不尽に満ちた場所なのだろうか、とジークハルトは密かに失望した。
「我がローゼンベルク軍では、兵士たちに“規律厳守”を絶対の使命として課している。彼ら一人一人がそれを守ろうと努め、グスタフのような憲兵が乱れを正す。そうしてこれまでやってきたし、これからもそうあるべきだと私は思う、ジークハルト」
しかし、とヴィルヘルムはすべてを美談で終わらせようとはしなかった。
「それでも人間には限界がある。理性や自制心が欠けているのではない。人間という生き物だからこそ、弱い自分を守ろうと必死に足掻くのだ」
「……弱い自分を守る?」
「そうだ。ジークハルト、お前は強い。誠実で、真っすぐで、感受性も豊かだ。お前を見ていると、人間も捨てたものではないと感じられる。その実直さは、私には眩しくて仕方ない」
ヴィルヘルムは少し悲しそうに目を伏せた。
「だが、全ての者がそうではない。理不尽で残酷な状況を受け止めきれず、押し潰される者は多い。それは弱さではなく、生き抜くための健気な足掻きだ」
ヴィルヘルムは、実際には対面したこともないグラウエンシュタイン軍の兵士たちの姿を、頭の中で思い描いた。
「彼らは、もし戦争がなければ――良き息子であり、良き友であり、良き夫であり、良き父であり、良き隣人であり続けられたはずだ。そして、そのほとんどが、生涯に誰も殺めることなく、穏やかで人間らしい日々を送ることができたに違いない」
「だとしたら、俺たちのやっている戦争は……クソだな」
「そうだ。我々はクソのようなことをしている。私が命じ、お前が戦い、心を壊す者もいれば、良き人であることを放棄する者もいる。その濁流に、民間人が蹂躙される。どれだけ英雄譚として語っても、本質は誤魔化せない」
ヴィルヘルムは決して、自分の行為も、ジークハルトの戦果も賛美しなかった。
その冷静さが、二人の心に痛みを残した。
「そんな戦争が、今まさにこの世界の至るところで起きている。これまでも歴史がそう綴ってきたように、これからもその頁は増えていくだろう。――それを喜ぶのは、本を書く歴史家くらいなものだ」
「……なら、俺たちがやっていることは無意味なのか?結局は、その中の一つでしかないのか?」
ジークハルトは、不意に自分の戦う拠り所が失われたことに気づいた。
自分の気持ちに正直であったがゆえに、その残酷な事実があまりにも明確に突きつけられてしまったのだ。それは、ジークハルトにとってとても耐え難いものだった。今まさに、彼の心は折れかかっていた。
「私が意味を与えてやる、ジークハルト」
しかし、それを白金の国王は許さなかった。
「こうも考えられないか。世界が、たった一つの国家の下に集約されたとしたら――その国は、一体誰と戦争をすればいい?」
それは哲学的な命題だった。
壮大で、途方もない。だが、人間の善性だけに依拠した空疎な理想論ではない。現実的な実利に裏打ちされた、たった一つの冴えた答えでもあった。
「歴史上、それを成し遂げた者が一人だけいる。その者は――“皇帝”と呼ばれた」
そしてそれは、かつてヴィルヘルムがジークハルトに語った、尊大な夢の行き着く先でもあった。
「人間の弱さを認めなくていい。お前はそのままでいい。いや――そのままでいてくれ。ジークハルト、我が“狼”よ」
ジークハルトの目から、静かに涙が零れ落ちた。
人前で泣いたことのない彼に、そうさせた理由が何だったのかは分からない。
自分もまた弱い人間であると悟った悲しみだったのか。
歴史に無意味と断じられてきた自らの行為を、否定しなかったその優しさだったのか。
あるいは、人間の業というべきすべてを背負うことを決意した、友の美しくも痛々しい姿を見てしまったからなのか――
それは、自分自身に実直であったジークハルトにすら、ついぞ分からなかった。
しかし――
「私が、歴史上最後の戦争執行者になってみせよう」
――この人について行きたい。
そう思ったことだけは、はっきりと理解できたのである。




