第2章:カルノヴァ分割戦争③
ローゼンベルク軍の共和国領侵攻は、順調そのものだった。各地で敵対勢力との遭遇戦は発生したものの、それらは細密に計画され、統制された侵攻を阻むほどの障害にはなり得ず、制圧地域は着実に拡大していった。
この周到に統制された各部隊の侵攻ルートと補給体制は、参謀本部第1局の作戦局次長エリアスが立案した作戦案によるものである。広大な共和国領において部隊を効率的に分散進撃させ、補給線の停滞や錯綜を防ぐため、彼は膨大な計算と作業を積み重ねた。その結果、円滑かつ計画的なローゼンベルク軍の進撃が実現したのであった。
「さすがは名参謀ヘルマンの嫡子だ」と称賛の声が上がったが、エリアス自身は父と比較されることを快く思っていないらしく、その賛辞には耳も貸さず、作戦図に戦況と各部隊の位置を書き込み続ける作業に没頭していた。やや子供じみた態度ではあったが、その執念深い記録作業のおかげで、想定外の事態や遅延、急な救援要請にも即応でき、これまで最大目標到達に至る過程で重大な障害は一度も発生していなかった。
ヴィルヘルムは、グラウエンシュタイン軍にローゼンベルク軍の機動力という切り札をすべて明かすことを避けたかったため、今回の作戦に迅速性よりも確実性を求め、一地点ずつ制圧し、補給を滞らせない方針を作戦局に要求した。エリアスはその方針を自らの適性に合うものと感じたらしく、彼の能力を熟知する参謀総長ヘルマンもほとんど修正を加えず、提出された作戦案を次々と承認していった。
その成果として、ローゼンベルク軍は別方向から進撃してくるグラウエンシュタイン軍との合流地点――共和国首都ワルサヴィク――に、予定通り到達した。
問題は、同時に到着するはずだったグラウエンシュタイン軍が姿を見せなかったことである。随伴する連絡将校からの報告によれば、進軍は予定より遅れており、首都到着までにはさらに10日を要するという。戦場では不測の事態が頻発し、計画通りに進まないことなど日常茶飯事である。この遅延も、程度の差こそあれ、強く非難される類のものではなかった。
むしろ、ローゼンベルク軍が一切の問題なく予定通り進撃できたのは、エリアスをはじめとする参謀本部の働きによるものであり、それだけでも彼らはヴィルヘルムの期待を大きく上回る成果を実戦で示していた。しかし、合流の遅れによって、首都総攻撃を最低でも10日間延期せざるを得ないという事実は、参謀本部にとって不満の種であった。彼らは後方の遠征軍総司令部に詰めており、実際に戦場を目にしてはいない。それでも地図上の部隊配置図を見るだけで、この持て余した時間が惜しくてならなかった。
そして、その感覚は現地にいるジークハルトも同じであった。
「ああ……これは確かに複雑怪奇だな……」
ヴィルヘルムが第101機動戦闘団に配備した最新鋭の双眼鏡を覗き込みながら、ジークハルトは偵察部隊から寄せられていた報告の煩雑さの正体を理解した。
「なあ、ジーク。あっちの鳥の旗が正義院って連中だろ?」
「ああ。今はおそらく市民院の部隊と戦っている」
「でも、その市民院と一緒にいるのも正義院の旗を掲げてるよな」
「……二つに分裂してるんじゃないか?」
「じゃあ、向こうで戦ってる連中はどっちだ?」
「……ここまで来ると、分からんな」
戦闘団長であるジークハルトが、指揮下部隊を置いてまでハンスを伴い前線に出向いたのは、目の前で展開される戦闘の様相を、偵察部隊だけでは正確に整理・報告できなかったためである。
そこにあったのは、二つの明確な勢力が整然と陣形を組んで戦う光景ではなかった。敵味方が入り乱れ、同じ旗を掲げた者同士が刃を交え、異なる旗の部隊が共闘し、さらには事前情報に存在しない勢力が独自に戦闘を行っている――まさに混沌そのものの戦場であった。
この首都周辺の状況について情報を提供した共和国軍人カジミェシュは、この戦闘を『オテロヴィチの旗』と呼ばれる現象だと説明していた。それは共和制成立以前、カルノヴァ内戦で起きた出来事に由来する言葉である。
オテロヴィチという貴族は、内戦中、その場その場で自分に有利な陣営を選び、驚くべき変わり身の早さで寝返りを繰り返した。陣営に属するには識別用の旗が必要であったため、彼は表裏で異なる紋章を施した旗を用意し、戦場で使い分けたという。この手法は戦場に混乱をもたらし、やがて模倣者が現れたことで敵味方の識別は不可能となり、内戦は複雑に泥沼化した。その故事になぞらえた言い回しであった。
「要するに、いろんな思惑が絡み合った結果、ああなったってことだな」
「厄介だな。あれじゃ、どうやって勝つのか見当もつかねえ」
「妥当なのは、首都を押さえちまうことじゃないか。一番わかりやすい」
そこまで言って、ジークハルトは黙り込んだ。迷っているのだとハンスにも分かり、茶々を入れる気にはなれなかった。今頃、参謀本部が偵察情報を基に、どの勢力を排除し、あるいは取り込むべきか、どの進路が首都攻略に最適かを分析しているはずである。機動戦闘団はその判断を待つ立場にあり、ハンスは半ば他人事のように暇を持て余していた。
その時、前触れもなくジークハルトが口を開いた。
「……攻めちまうか」
あまりに軽い口調に、ハンスは思わず咳き込んだ。
「待てって。上の命令を待った方がいいだろ」
「この状況見て、どんな命令が出ると思う?」
「でもやるなら、俺たちだけだぞ。他の部隊はまだ来てない」
「だからいいんだ。今は向こう同士で潰し合ってるが、俺たちの大軍を見れば、協力して対抗してくるかもしれない。なら、少数のうちに叩いた方が勝算はある」
「俺は嫌だね、あんな滅茶苦茶な戦場」
「戦場なんて、どこも滅茶苦茶だ。全員敵だと思って撃てる分、気は楽だ」
「独断で動いて、後で怒られないか?」
「威力偵察ってことにしよう。無理なら引く。いけそうなら、そのまま墜としたって報告すればいい」
こうして、ジークハルトの思いつき一つで機動戦闘団の出撃が決定した。
彼には現場における大幅な自主裁量権が与えられており、司令部に報告した上で独自行動を取ることは一定範囲で許容されていた。もちろん、命令を無視して好き勝手に振る舞ってよいという意味ではない。だがヴィルヘルムは、行政におけるエリックと同様、戦場においてもジークハルトに強い裁量を与えることを拒まなかった。
この特例と予測不能性を嫌うエリアスからは再三苦言が呈されたが、ジークハルトの戦術眼と戦闘センスを熟知する参謀総長ヘルマン、そして中央軍で共に戦った司令官アンスバッハの了承もあり、彼の部隊は「温存された特記戦力」として、戦局を決定づける役割を期待されていた。
もっとも、この強権と自主裁量が許されているのは、結果を出し続けてきたからにほかならない。参謀本部の常識的な判断からすれば、ジークハルトの存在そのものが異様なのである。




