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第1章:大公からの使者⑥

 エリザーベト・フォン・グラウエンシュタイン


 正統ルガルディア帝国において、この名を知らぬ者がいるとすれば、それは文字を解さぬ者か、あるいは自国の動向が一切自らの人生に影響を及ぼさない、ある意味で幸福な境遇にある者だけであろう。


 彼女はグラウエンシュタインが輩出した稀代の外交戦略家であり、女性でありながら大公の位と帝国摂統の地位を同時に戴いた女君主であった。ヴィルヘルムが生きた時代において、彼女以上の影響力を持つ政治家は帝国内に存在しなかったと言ってよい。


 父オットー2世の死去と、後継者となるに足る年齢の男子が不在であったという事情から、三女でありながら、かつ当時未婚であったエリザーベトが、グラウエンシュタイン直系の当主として大公位を継承することとなった。


 女性の当主という前例のなさは、諸侯たちに侮りと不安を同時にもたらした。


 大公家が独占してきた帝国摂統の地位も、いよいよ他家に移る時が来たのだ――誰もがそう確信していたのである。


 事実、一時期その地位はグラウエンシュタインの手を離れ、次代有力と目された諸侯のもとへ渡った。だが、エリザーベトが本格的に政治と外交の手腕を発揮し始めると、情勢は一変する。帝国を代表する存在として、彼女を再び帝国摂統に推す声が各地から上がり、かくして史上初の女性帝国摂統が誕生した。


 彼女の治世のもと、正統ルガルディア帝国は安寧を享受し、グラウエンシュタイン大公国はかつてない発展を遂げたと伝えられている。


 長男オットー(後のオットー3世)への帝国摂統位継承を発端とするグラウエンシュタイン継承戦争においても、彼女はその真価を遺憾なく発揮した。


 “帝国の剣”ローゼンベルクを、武ではなく外交力と政治的影響力によって打ち破るという偉業を成し遂げたのである。


 勝利を機に彼女は大公位と帝国摂統の座から退いたが、帝国内における影響力は些かも衰えなかった。実質的には、彼女こそが真の帝国の主であったと言って差し支えあるまい。


 また、彼女の外交術は個人に留まるものではなかった。生涯に産んだ14人の子どもたちは、グラウエンシュタインを支える有力貴族となり、あるいは他家に嫁いで大公家の影響力を広げ、帝国の権力構造をより盤石なものとした。


 彼女は有力諸侯たちの実母であり義母であり、やがて生まれる次世代の担い手たちの共通の祖母でもあったのである。


 こうした経緯と信望から、エリザーベトはいつしか「国母様」と敬称されるようになり、その名は尊崇そのものを意味する呼び名となった。


 そして、その帝国の女主人と、ヴィルヘルムは初めて相まみえた。


 七十の齢を超えているはずの彼女の肌にはなお健康的な張りがあり、刻まれた皺すら威厳を強める装飾のようであった。老婦人というよりも、未だ健在なる女主人――そう形容するのが相応しい存在感である。


「会えてうれしいわ、ヴィルヘルム。なんて聡明そうで立派なお姿でしょう」


「私もお会いできて光栄です、大叔母上」


 初対面でありながら、二人のやり取りは久方ぶりに再会した親類のそれに近かった。実際、血縁関係は遠いながらも確かに存在していた。


 政略結婚により暴君カール1世に嫁いだヨハンナは、エリザーベトにとって叔母にあたり、その子である停滞王ヨーゼフ1世は従兄妹となる。


 すなわち、かつて帝国摂統の座を争ったオットー3世とフリードリヒ2世は、はとこの関係にあった。


 そう考えれば、フリードリヒ2世が帝国摂統の地位を要求したのも、血筋の上では全く無理のある話ではない。彼の子であるヴィルヘルムもまた、エリザーベトから見れば「やんちゃだった親戚の息子」に過ぎなかった。


 二人は穏やかな世間話から対談を始め、互いに探りを入れながら、慎重に距離を測っていた。


「そう、ヴィルヘルム。あなた、ザールマルクのお嬢さんとご結婚なさったのね。


 あの子はとても理知的で聡明な、いい娘だったわ。――大切になさい」


「はい。私には過ぎたほど、よくできた妻でございます。


 ですが、大叔母上の直系のお孫様にあたるマクシミリアン殿も、最近ご結婚なさったと伺いましたが?」


「そうなのよ。マクスったらね、私が由緒正しい家柄のお嬢さんを紹介したというのに、


 オペラ劇場で一目惚れした舞台女優のお嬢さんと結婚するって、まったく聞かなかったの」


「身分の差をものともしない恋……それはまた、さぞ揉められたのでは?」


「ええ、最後は私が折れたわ。


 あの子、彼女と結婚できないなら家を出る、なんて言い出すものだから。まったく、舞台演劇の見過ぎよ」


 二人の穏やかな対談の裏で、同席していたクロイツェルは珍しく緊張を隠せずにいた。この和やかな会話は、エリザーベトが得意とする世間話を装った前哨戦に過ぎない。いつ本題が切り出されるか分かったものではなかった。


 老獪な政治家として知られるクロイツェルでさえ、外交という分野においてはエリザーベトに一日の長がある。それも、埋めがたい差として。


 そして――あまりにも自然に、しかし唐突に、会話は世間話とは言い難い領域へと踏み込んだ。


「エルンストに聞いたのだけれど、ヴィルヘルム。あなた、ずいぶんと軍人を重く用いるそうね?やっぱり、フリードリヒみたいに帝国摂統を目指しているのかしら?」


 来た、とクロイツェルは内心で息を呑んだ。


 かつて先王フリードリヒ2世も、彼女との舌戦の末に、引き返すことのできない開戦への道を選ばされている。その場に同席していたクロイツェルは、彼女の外交力の恐ろしさを誰よりも理解していた。


「いいえ。帝国摂統の地位には興味はありません」


 ヴィルヘルムは、即座に、そしてきっぱりと否定した。


 その答えを聞いた瞬間、クロイツェルは判断に迷った。


 これは野心を完全に覆い隠すための否定なのか、それとも本心からのものなのか。もし前者であれば妥当な返答だが、後者であった場合、将来得られたかもしれない地位や権威への道を自ら閉ざすことにもなりかねない。


 通常であれば、言葉を濁すのが無難である。だが、ヴィルヘルムはそうしなかった。さらに言えば、クロイツェルに助け舟を求めることもなかった。


 ――何か考えがある。


 そう判断した老宰相は、あえて口を挟まず、静観に徹することを選んだ。


「そうなの?では、どうして?」


「我がローゼンベルクの使命は、帝国の剣として在ることです。

 忌まわしき侵略者、シャルル騎士王の再来を防ぎ、この帝国の安寧を守る――それが我々の国是です」


 それは確かにローゼンベルクの掲げる理念であった。


 だが同時に、その剣がかつて権威を誇示するため、帝国へ向けられた過去を思えば、その言葉を額面通りに受け取ることは難しい。


 しかし、エリザーベトの反応は意外なものだった。


「その答えが聞けて安心したわ」


 彼女は微笑み、静かに続ける。


「実はね、今の帝国には、どうしても解決しなければならない懸念事項があるのよ」


「……ほう。それは、どのような?」


「カルノヴァ=ストリェッツ共和国の内戦よ」


 帝国の女主人は、はっきりとそう断言した。


「かの国は正確には帝国領ではないわ。でも、国境を接する国が秩序を失い、内戦に明け暮れてすでに2年。

 その混乱が飛び火することだけは、何としても避けなければならない」


 そしてエリザーベトは、両手を合わせると、まるで世間話の延長のように“提案”を口にした。


「そこでね。

 我がグラウエンシュタイン大公国と、ローゼンベルク王国が協力して、かの地に秩序と平和を取り戻せないかと思っているの」


 それは明確な“軍事同盟の申し出”であり、共同作戦によるカルノヴァ=ストリェッツ共和国への“軍事介入”を意味していた。


 クロイツェルは、その言葉を聞いた瞬間、驚愕と困惑が表情に出ないよう必死で抑えた。


 ――あのグラウエンシュタインが、ローゼンベルクに軍事同盟を⁉


 それはこれまでの大公国の国是とも、表向きの主義主張とも明確に矛盾する提案であった。その裏にある意図を探らずにはいられない。


 話を遮ろうとクロイツェルが口を開きかけた、その時だった。


「畏まりました。時期はいかがなさいますか?」


 ヴィルヘルムが、即答したのである。


「私たちはすでに準備を進めているわ。収穫期も終わったことですし、一か月もあれば軍を動かせるでしょう」


「承知しました。では、10月半ばの開戦でよろしいですね?」


「ええ、結構よ」


 あまりにも淀みのないやり取りに、さすがのクロイツェルも黙ってはいられなかった。


「陛下、共和国へ軍を差し向ける余力は、我が軍にはございません」


 それは半ば意図的な誇張――提案を退けるための口実であった。


 だが、ヴィルヘルムは首を横に振る。


「いや。共和国の混乱を放置すれば、いずれ我々の安寧を脅かす事態になりかねない。

 軍に動員準備をかけよう。加えて――“じっくり”参戦部隊の召集も行う」


 その言葉の意味を即座に理解し、クロイツェルは静かに息を吐いた。


「……畏まりました。帰国次第、軍務省に召集命令を。

 “間に合うか”は些か不安ではありますが、善処いたします」


「うむ。頼む」


 こうして、帝国の女主人エリザーベトと雷鳴王ヴィルヘルムの初対談は幕を閉じた。その結果は、20年ぶりとなる両軍の接触、そして共同作戦への合意であった。


 あまりにも突然で、周到な調整など存在しない決断。


 だが、それは先刻の帝国会議の形式的な寄り合いと比べれば、遥かに実りある合意であり、二人の強者の意思によって、二国と二軍が動かされることになったのである。


 雷鳴王の決断力と、女主人の老獪な外交――その双方が噛み合った結果であった。

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