第1章:大公からの使者⑤
大陸1272年9月2日、グラウエンシュタイン大公国の首都ノイ・ヴィーンの大議場で、正統帝国議会が招集された。出席した諸邦は39に上り、ザールマルク伯爵領とボレニア侯国は空席だったが、新たにローゼンベルク王国を迎えての開催であった。
壇上で演説していたのは、正統ルガルディア帝国諸侯の代表であり、実質的に帝国の頂点に君臨する『帝国摂統』、オットー・フォン・グラウエンシュタイン、世にオットー3世と呼ばれる人物である。
「ローゼンベルク国王ヴィルヘルム2世は、その類い稀なる才覚と正義を信ずる勇気によって、かの暴君ボレニア侯爵を打倒し――」
彼は声高にヴィルヘルムの偉業を称え、一年前までは同胞であったはずのボレニア侯国の主ゲオルグを「暴君」と呼んで罵倒するのを憚らなかった。
ヴィルヘルムはその演説から、グラウエンシュタインが向ける方向性を読み取った。要するに、帝国構成国の多数にとってローゼンベルク王国は依然として警戒すべき存在であり、王が代わったからといって楽観視はできない。しかし、再び戦火を交える度胸も覚悟もない。ならば、会議に参加させて恩を売り、他に敵を作って美辞麗句でおだて、飼いならそうという魂胆である。
「この正義の行いは正当であり、ローゼンベルク王国による旧ボレニア領の暫定統治は妥当である。その結果、帝国に平穏を――」
かつてのボレニア侯国は、飼いならすための餌として事実上見捨てられた。しかしヴィルヘルムにとって、この条件でも上々だった。帝国の“総意”によって支配権の正当性が担保されたのだから。旧ボレニア領を帝国諸侯の共同管理下に置こうとする勇気は、誰にもなかった。ローゼンベルクが反対すれば、一戦交えることになり、覆しようのない既成事実が生まれてしまう。帝国会議では、国家的論理が個人的感情に優先されるのが習慣である。
しかし、そこからヴィルヘルムに向けられる暗黙の要求もあった。
「ローゼンベルク王国とザールマルク伯爵領は経済的連携を強化し、関税同盟により帝国経済に変化をもたらしており――」
どうやら彼らは、自分たちの取り分を奪われることを我慢できないらしい。アーデルハイトが提案し、施行した関税政策は、ローゼンベルク・ザールマルク・ボレニアの三地域に大きな経済的利益をもたらしていた。現在は「関税同盟」という名目の下、他国製品の流入はほとんどなく、ローゼンベルク勢力圏は未曾有の経済成長を享受している。
かつてこの地域に利権を持っていた者たちにとって、この状況は到底受け入れられるものではなかった。特に、ローゼンベルク勢力に完全に包囲された貿易都市キルベックは、経済の核心で大きな損害を被っていたため、諸侯たちはローゼンベルクに譲歩を迫る形で、関税同盟の品目や税率を一律に引き下げ、従来に近い状態に戻し、同盟の範囲を帝国全土に拡大して利益を皆で分かち合う妥協案を提示した。
この要求を含めることで、ローゼンベルクの一人勝ち状態を抑えつつ、反発する諸侯の同意を取り付けようとしているのだろう、とヴィルヘルムは推測した。
それを瞬時に理解したヴィルヘルムは、涼し気な澄まし顔のまま内心で彼らをあざ笑った。
諸侯たちは単独では対処できないため、集団で状況の打開を図ろうとする。しかし、各々が損得を勘定するため、全員が完全に納得できる結論を見いだすことは困難である。結果として、妥協や折衷案、あるいは圧迫による同意の強要や、損な役回りを押し付ける者を探す手段によって、完全には合致しないパズルを無理やり完成させようとし、その結果として歪な要求が生まれるのだ。
もし彼ら一人一人に力があれば、面倒なプロセスを無視して自らの望みを叶えられるかもしれない。しかし、それを行う者は決して文明的でも理性的でもないだろう。
ある哲学者はこう表現した。
「道徳や倫理とは、弱者の手によって編まれた装いにすぎない」
世の中の絶対的多数を占める弱者は、自らの無力さを正当化するために、強者が為し得ることを“悪”と断じて非難する。原理は単純だ。自分にはできないことを強者はやり遂げる。その結果、弱者は損をする。しかし強者は圧倒的に少なく、多数の弱者は互いに傷を舐め合うために、心地の良い安寧の地を見つける。それを文明的や理性的と称して胸を張るのだ。冷酷に言えば、全員が満足する結末など生まれない話し合いこそ、弱者に好まれるプロセスである。
極端な話、ヴィルヘルムが諸侯の要求に従う義理はない。彼は強者であり、受け入れなくとも実力で排除できる。話し合いなど必要ない。国家と軍隊は彼の意志で動き、忠臣たちは皆、彼に忠誠を捧げている。
終始澄ました表情で帝国摂統の演説を聞き流すヴィルヘルムを、参席した諸侯たちは困惑と動揺の視線で見つめ合った。当事者の感触が悪く、かと言って誰もヴィルヘルムを批判できない無力さが、彼らをそうさせる。そして、自然と助けを乞う視線の先に、常に向かう相手があった。
「ヴィルヘルム陛下」
帝国会議の一日目が終わった後、帝国摂統オットー3世は、退場しようとするヴィルヘルムを呼び止め、伝言を伝えた。
「我が母、エリザーベトがヴィルヘルム陛下にぜひお会いしたいとのこと。いかがなさいますか?」
ヴィルヘルムは即座に快諾した。
「喜んでとお伝えください、帝国摂統殿」
やっと、話ができる強者が接触してきたのだ。ヴィルヘルムは、この帝国の“真の主”との対談を心待ちにしていた。弱者たちの寄り合いよりも、はるかに有意義な時間になるに違いないと、彼は思った。




