第1章:大公からの使者③
大陸暦1272年7月13日、ローゼンベルク王城に国外からの使者が訪れた。
それは“国外”と呼ぶべき存在でありながら、別の意味では“国内”とも言える場所からの来訪であった。そして、そこからの使者がローゼンベルク王国の地を踏むのは、実に20年ぶりのことである。
「お初にお目にかかります、ヴィルヘルム陛下」
国王ヴィルヘルム2世に謁見したのは、礼装を優雅にまとったエリート然とした青年――エルンスト・フォン・ファルケンヴァルトであった。彼はその国を代表する外交官として、ローゼンベルク国王の前に立っている。
「グラウエンシュタインより、よくぞ参った。ファルケンヴァルト外交官殿」
彼は正統ルガルディア帝国の事実上の盟主、グラウエンシュタイン大公国に属する外交官である。25歳という若さでローゼンベルク王国担当の外交官主任に抜擢された、稀有な秀才であった。
エルンストは貴族の模範とも言える所作で一礼し、嫌味にすら聞こえない前置きと挨拶を終えると、来訪の本題へと静かに話を移した。
「来る9月2日、グラウエンシュタイン大公国の首都ノイ・ヴィーンにて開催される『正統帝国議会』へのご参加を具申するため、参上いたしました」
――ついに来たか。
ヴィルヘルムは玉座の上で、内心ほくそ笑んだ。
正統ルガルディア帝国の意思決定機関『正統帝国議会』。
グラウエンシュタイン継承戦争以降、ローゼンベルク王国には参加の機会すら与えられてこなかった帝国政治の中枢である。先王フリードリヒ2世が、生涯をかけて叶えられなかった悲願が、今まさにヴィルヘルムのもとへ差し出されたのだ。
だが同時に、彼は内心で嘲笑もしていた。
この決定に至るまで、彼らはどれほどの時間と労力を費やしたのだろうか。新進気鋭の雷鳴王が即位し、急進的な改革を断行し、宿敵ボレニアを屈服させ、ザールマルクとともに一大勢力へと成長した――その機運を好機と見たか、あるいは危険視したか。いずれにせよ、「参加を提案する」という形で、制御可能な場へ引きずり出そうとする魂胆は明白であった。
国王即位から7か月以上、ボレニア戦争終結からも半年近く経ってからの提案。あまりにも後手に回りすぎている。
――“外交力のグラウエンシュタイン”
聞こえは良いが、実態は調整と協議に時間を費やす連帯に過ぎない。
だが、その外交力によって父フリードリヒ2世は敗れた。その事実だけは、決して侮ってはならない。
これは言葉で行われる戦争だ。
ヴィルヘルムは慎重に返答を選んだ。
「少し、時間をいただきたい。急な話でな。我々には会議に参加する準備すら整っていない」
「ご心配には及びません。帝国会議の支度はすでに万全に整っております。陛下にはただ、そのご尊顔を帝国内の諸侯へお示しいただければ、それ以上のものは求めません」
――すでに処遇は決まっている。余計なことはするな。
そう言外に告げていることを、ヴィルヘルムは正確に理解していた。
「……なるほど。そこまで用意してもらって無碍にするのも忍びない。クロイツェル、どう思う?」
老宰相への問いかけは、信頼の証であり、同時に政治的な一手でもあった。
「よろしいかと存じます。正統帝国議会への復帰は、先王陛下からの悲願。陛下の戴冠に際し、新たな王国の姿を示す好機かと」
好意的な返答に、エルンストは卑しさのない満足げな微笑みを浮かべた。
――予定通り。そう言われた気がした。
だがクロイツェルは、老獪な政治の戦い方を熟知していた。
「しかし、王国が未だ盤石とは言えぬこの時期に、陛下がご不在となられるのは臣民にとって憂慮すべき事。民の心情を慮る必要もございましょう」
承諾を装いながら、参加を揺さぶる一手である。
「確かに……私が国を空けては、不安を与えるやもしれぬな」
「そこで、陛下が信頼される将校団を同行させては如何でしょう。警護が盤石であることを示せば、臣民も安心いたしましょう」
「なるほど。名案だ。ファルケンヴァルト殿、そのような体制を取らせてもらっても構わぬか? 私としても、信頼する側近がいれば憂いなく赴ける」
エルンストは即座に計算を巡らせた。
将校団同行――無視できない条件だが、軍そのものの派遣ではない。危険な武力介入とも言えず、むしろ情報収集の機会ともなり得る。彼は自身に許された権限の限界を正確に把握したうえで、最善の選択肢を瞬く間に弾き出した。
「はい。もちろんでございます。雷鳴王陛下の腹心たる将校団の来訪を、我々は歓迎いたします」
その言葉を受け、ヴィルヘルムは帝国会議への参加を快諾した。
条件は飲ませた。ならば、結論の決まった寄り合いに顔を出すのも無駄ではない。
この条件が真に意味するところを、エルンストが知るのは、もうしばらく後のことであった。
「では、この陣容で進めてくれ。このリストに名のある者は必ず同行させろ。業務の都合もあるだろうが、何としても調整するよう命じてほしい。最優先事項だ」
「了解いたしました。軍務省および参謀本部との調整に入らせていただきます」
「頼んだぞ、リッテンベルク」
国王の執務室で、ヴィルヘルムは間近に迫った帝国会議に同行させる将校団の人選を進めていた。
グラウエンシュタインの外交官エルンストには、その真意もおおよそ見抜かれているだろう。ならば下手に隠す必要はない。むしろ意図的と言えるほど、錚々たる顔ぶれで固めていた。
王国宰相クロイツェルを筆頭に、参謀総長ヘルマン、第2軍団長ブラウエンといった将官クラス。さらに将来を嘱望される若手として作戦参謀エリアス、兵站参謀ソフィア。そして腹心たる第101機動戦闘団団長ジークハルト――いずれも最優先人選として名を連ねている。
「王国が未だ盤石とは言えぬ時期」という建前とは裏腹に、その顔ぶれはあまりにも豪華だった。
それだけ、このグラウエンシュタイン訪問が、ヴィルヘルム個人にとっても、ローゼンベルク王国にとっても重大な意味を持つことを示している。結果として、人選は彼の信頼する者たちに大きく偏る形となった。
だが、その中に王妃にして財務相であるアーデルハイトの名はなかった。
彼女はザールマルクの当主として帝国会議に出席する資格を有していたが、ヴィルヘルム自らその参加を辞退させている。ザールマルクがすでにローゼンベルクの配下として事実上一体化している、という政治的判断もあったが――今回の決断は、それ以上に個人的な理由によるものだった。
「……陛下、申し訳ありません。このような大切な時期に、お役に立てず……」
寝台に横たわるアーデルハイトの顔色は優れず、身動き一つにも苦痛が滲んでいた。
財務相としての過酷な職務による疲労――それだけが理由ではない。彼女の身体には、明確な変化が訪れていた。
「構わぬ、アーデルハイト。今は己の身体のことだけを考えろ。なに、グラウエンシュタインでも私はやるべきことをやってくる」
「ふふ……そのような心配はしておりません。陛下は、きっとすべてをうまくやってしまわれますもの」
「買いかぶりすぎだ。私にだって、できぬことくらいある」
「……射撃の腕前、とかでしょうか?」
「おい、それはジークハルトに聞いたな?あいつも口が軽い」
二人が夫婦となって4か月。
恋愛感情すら伴わぬ政略結婚であったが、だからといって情が芽生えぬわけではない。ゆっくりと、しかし確実に、二人は“夫婦”と呼べる距離へと近づいていた。それは心の面でも、そして身体の面でも同じだった。
「ですが陛下……帝国会議となれば、舞踏会も催されるのでしょう?どなたを同伴なさるのですか」
外交を重んじるグラウエンシュタインでは、帝国会議の前後に舞踏会を開き、各国の交流の場とするのが慣例だった。本来であれば、ヴィルヘルムの伴侶としてアーデルハイトが同席する。しかし今の彼女に、その役を務められる体調はない。
「その件も心配はいらぬ。私が信頼している者を連れていく」
「……そうではなく、その……」
歯切れの悪い言葉に、ヴィルヘルムは首を傾げた。
「……陛下のお心をお預けになる夜があっても、よろしいかと存じます。ですが……最後には……いえ、戻ってきてくだされば、それで……」
回りくどい言い回しに、ヴィルヘルムは一瞬理解できなかった。だが、恥ずかしげに俯き、耳まで赤く染めたアーデルハイトの様子を見て、ようやく察する。
彼女は照れるとき、耳まで赤くなる癖がある――夫婦になってから知ったことである。
「ははは、心配無用だ、アーデルハイト。私には、少々手に余る相手だよ」
まさか、自分がこうして相手を想う日が来るとは――二人は同時に、心の奥でそう感じていた。
清廉冷酷と称される雷鳴王にも、使命に生きる財務相にも、人並みに“愛情”を抱く心は残されている。
そして、その愛情の結晶は、すでに二人の間で、確かなかたちを伴って息づき始めていた。




