第1章:大公からの使者②
ヘルマンは作戦立案を担う参謀としても、彼らを統率する長としても優秀であった。しかし、彼が単なる“優秀な参謀組織の長”に終わらなかった理由は、その能力と知見を次世代へと継承する“教育者”としての才をも発揮した点にある。
ヘルマンは、かつて侯爵家であった私邸を転用し、『国軍大学校』を新設した。これは将来的に参謀本部や各軍団の中核を担う将校に対し、士官学校以上に高度かつ専門的な教育を施す場であった。作戦計画に不可欠な軍事戦略・戦術はもとより、地理、兵站、外国軍事情、軍事史、さらには語学、科学、哲学に至るまでを履修内容に含む広範なカリキュラムが用意され、参謀将校として必要とされる総合的知識の修得が求められたのである。
もっとも、新設当初は教官陣も体制も未成熟であり、学生と教官の境界は曖昧であった。「皆が学ぶ学生であり、同時に教える教官でもある」――それぞれが己の専門と知見を持ち寄り、共有する場であったのが、初期の国軍大学校の実態であった。
第1期生は、王国軍全体から初期戦力を充足する目的で選抜された109名の将校で構成されていた。その中には、すでにヘルマンの下で頭角を現していた兵站参謀の俊英ソフィア・フォン・ホーエンフェルト少佐や、国王ヴィルヘルムへの伝令・情報処理を担う高級副官部部長ヨハン・リッテンベルク少佐の姿もあった。
そして、第101機動戦闘団の指揮官ジークハルト・フォルラート少佐もまた、その一人であった。彼は参謀本部の構成員でも、軍団参謀でもなかったが、参謀本部の直接命令を受け、戦略的勝利を狙う機動作戦を遂行する立場にあり、実質的には作戦参謀と同等、あるいはそれ以上の能力を要求される存在であった。
この国軍大学校において、ジークハルトはエリアス・フォン・シュトラウセン中佐と出会ったとされている。エリアスはヘルマンの嫡子であり、かつて猛将レオンハルトの副官を務めた人物であった。前線での戦闘指揮はレオンハルトが担ったものの、その背後で部隊配置、作戦準備、追撃戦に至る再編計画を一手に引き受けていたのがエリアスであり、まさに「レオンハルトの参謀」と呼ぶべき存在であった。
ジークハルトが補給線と連絡線を遮断し、敵軍の封じ込めと継戦能力の喪失によって戦略的勝利をもたらした英雄であるならば、エリアスは敵軍主力の撃滅に至る作戦を立案し、元帥を補佐して実質的勝利を導いた、もう一人の英雄であった。両者は戦った戦場も所属部隊も任務内容も異なっていたが、ボレニア戦争の勝利を支えた若き軍事的天才として、しばしば並び称されていたのである。
後年、参謀本部の隆盛を語る際には、次の言葉がしばしば引用された。
「参謀本部を生み出したのはヴィルヘルムとヘルマンであるが、参謀本部を鍛え育てたのはエリアスとジークハルトである」
“知のエリアス”と“武のジークハルト”。この対照的な二人こそが将来の参謀本部を担う双璧であり、参謀本部が『狼たちの牙城』と畏怖を込めて称される要因でもあった。
しかし、二人の関係は決して良好とは言い難かった。互いの能力と実績を認め合ってはいたが、根底にある戦略観が決定的に異なっていたのである。
ジークハルトは、現場での直観と旺盛な行動力を武器に、少数精鋭の機動戦力をもって大胆かつ勝負強く戦い、戦略的勝利を掴み取ることを是とした。一方、エリアスは徹底した事前準備と分析を重んじ、最も勝算の高い作戦を選び抜くことで、特定の天才に依存しない、軍全体として揺るぎない勝利を築くことを理想とした。
この違いに優劣はない。それは性格と立場、そして彼らが学んできた師の影響によるものであった。理論上は、状況に応じて両者を適切に切り替えることこそ最善である。しかし、その柔軟な切り替えこそが最も困難であり、それが二人の間に横たわる埋めがたい溝であったのかもしれない。
さらに決定的であったのは、ヘルマンという存在に対する認識の違いであった。
学校嫌いで教師嫌いのジークハルトにとって、ヘルマンは稀有な尊敬に値する師であり、その思想と指揮は彼に多くの学びを与えた。人格者であり、教養人であり、頼れる父のような存在――それがジークハルトの抱くヘルマン像であった。
しかし、実子であるエリアスにとって、父ヘルマンは素直に尊敬できる存在ではなかった。軍人としての才覚と世評の高さは否定しようがないが、感情の次元では、父に向ける反発と反抗心が常に付きまとっていた。実績を挙げながらも職を転々とし、政治力にも無頓着なまま昇進で同輩に先を越されても意に介さない。その姿勢は、エリアスには耐えがたいものであった。
母が無条件に父を支え続けたことも、エリアスの反発を強めた。ヘルマン自身は、そうした冷遇や家庭の事情を深刻に受け止めることなく、家族との距離を保ち続けた。その無関心さこそが、エリアスには許せなかったのである。
エリアスが父と同じ宮廷幕僚ではなく、レオンハルト率いる南部方面軍への配属を選んだ際も、ヘルマンはただ「そうか。励め」と言うだけであった。
優秀な父を持つがゆえに、あえて逆方向へ進もうとする息子――エリアスの選択には、そんな意地が色濃く表れていた。
ヘルマン在任中、ジークハルトはその指揮下で自由裁量を与えられ、存分に戦うことができた。一方、エリアスは不本意ながらも作戦局次長として父を支えた。しかしヘルマンが退いた後、両者は戦略目標では一致しながらも、その過程と根本理念において決定的に相容れず、ついにそれを共有することはできなかったのである。
ただし、『雷鳴王の親征戦争』と総称される一連の戦争群の最中においては、両者の不仲が問題となることはなかった。彼らはいまだ参謀本部の中枢を担う立場にはなく、その差異が表面化する段階には至っていなかったことも理由の一つである。だが何よりも、巨大で明確な一つの目標に向かい、ただ前進することそのものに没頭できていたからであった。
そして今、雷鳴王の親征戦争の第二戦は、すでに目前に迫っていた。




