第6章:生涯に意味があるとすれば③
「…アーデルハイト」
ザールマルク伯フェルディナントは、もはや動かせない長身の体をベッドに横たえ、意識が朦朧とする中で愛する娘の名を呟いた。当時の平均寿命を大きく超えていたフェルディナントに、ついにその時が訪れたのである。
これまで体調に不調はあったものの、なんとか騙し騙し健在であり続けていた。しかし、アーデルハイトがザールマルク軍を率い、雷鳴王ヴィルヘルムと共にボレニア侯国を打倒したという吉報を聞いた瞬間、長年張り詰めていた気持ちが緩み、体調を崩してしまった。以降、それは回復することなく、ついには歩くことも叶わなくなったのである。
父の状況を目の当たりにしたアーデルハイトは、深く悲しみ、柄にもなく取り乱した。いくら覚悟していた宿命の時でも、いざ受け入れるのは容易ではない。戦場帰りで疲れていながらも、アーデルハイトは夜通し看病を続けた。その目元にクマを浮かべた娘の姿を見たフェルディナントは、心の奥底で「どうか早く迎えが来て、娘を楽にしてやりたい」と切実に願ったのだった。
その様子を見たヴィルヘルムは、決断力と行動力をもってある命令を下した。
「明日、私とアーデルハイトの結婚式を挙行する。各隊は指揮官の命に従い、その支度を進めよ。これは王勅である」
雷鳴王は力強く宣言し、忠誠を誓う部下たちは戦場帰りで疲れていたとは思えない迅速さで命令を実行した。
式場となったのはザールマルク伯爵家の屋敷であった。一族や関係者を迎えるには十分な広さはあったが、一国の王が挙げる結婚式としては、ややこぢんまりとしている印象は否めなかった。
本来であれば時期を見定め、格式高い式場、たとえばローゼンベルクの王城のような場所が相応しかっただろう。しかしヴィルヘルムは形式にこだわらず、事態の迅速な解決を優先した。それが自身の余命を気遣った判断であることを、老いたフェルディナントの頭脳が理解するには時間が必要だった。
ザールマルク伯爵家の一族は急な招待にもかかわらず、フェルディナントの容態とアーデルハイトの結婚を受け、一同に会した。残念ながらローゼンベルク側の王族や国家重臣は参列できず、中央軍の面々が出席した。若く武骨な彼らではあったが、礼服に準ずる軍礼装で身を飾り、ジークハルトでさえ、戦功により授与されたローゼンベルク最上級勲章『騎士候勲章』を躊躇なく身に着けた。その姿は、若き軍人でありながらも、将来の国を支える重鎮としての威厳を漂わせていた。
「汝、アーデルハイト・フォン・ザールマルクは、ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクを夫とすることを、汝の神に誓いますか?」
ヴィルヘルムの要望により、ヘルマンが婚礼の見届け人に選ばれた。教養と礼節に優れた彼は、その役を完璧に務め、参列者に違和感を与えることはなかった。
「はい。ルガリスの名において誓います」
純白のドレスに身を包んだアーデルハイトが、厳かに宣言した。
「汝、ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクは、アーデルハイト・フォン・ザールマルクを妻とすることを、汝の神に誓いますか?」
国王の正装に準じた端正で豪華な軍服に身を包んだヴィルヘルムは、雷鳴王らしい力強さで宣誓した。
「我が名、ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルクの名において宣誓する」
参列者は皆驚愕した。神に誓う場で、自らの名前を用いるとは傲慢ではないか、とザールマルク側は思わず疑念を抱く。しかしローゼンベルク軍の面々の驚きは、傲慢さではなく、彼の誓いの重大さに向けられていた。
彼は、やると決めたことは必ず実現する男である。どれほど困難で、ほとんど不可能と思えることでも、例外は一つもなかった。これまでそうであったように、これからもそうであろう。彼の誓いは、最も重い宣誓だったのだ。
「なんと大胆不敵な婿殿か…」
フェルディナントは心中で驚きつつ、だからこそこの男なら娘を守ってくれると確信できた。
雷鳴王の妻となったアーデルハイトを見て、フェルディナントは自らの役目の終わりを悟り、相応しい後継者の出現に安堵した。
彼らの未来が幸福かはわからない。険しい道を歩むヴィルヘルムと使命感の強いアーデルハイトの二人が、どのような夫婦となるか、一国を導く者としてどのように生きるかを確信することは誰にもできない。しかし、その旅路は決して不幸ばかりではなく、希望も皆無ではない。フェルディナントは、自らの人生がそうであったように、彼らの人生もまたそうかもしれないと感じていた。
「…アーデルハイト」
今度の呟きは、娘へのものではなかった。もうずっと前に会えなくなった、亡き妻への呟きである。
フェルディナントが人生で最も深く愛した女性。名を“アーデルハイト”という。若き日に一目惚れした彼女に、フェルディナントの全ての愛情は注がれた。二人の間に子はなかったが、決して不幸ではなく、二人だけの生活は幸福に満ちていた。
妻に先立たれた時、フェルディナントの心にはぽっかりと穴が開いたような空虚感が残った。その後も、一族の強い希望があっても、後妻を迎えることに抵抗を感じ、拒み続けた。彼の心には、亡き妻しか存在しなかったのだ。
グラウエンシュタイン継承戦争を生き延び、“老君フェルディナント”と称えられるようになったものの、その評価すら、どこか煩わしく感じていた。しかし一族は、彼がザールマルク家にふさわしい当主であり、直系の子が後継者に相応しいと考えていた。そして後妻を迎えない彼に、一計を案じる。
「初めまして、フェルディナント様。私はアマーリエと申します」
ある日、フェルディナントの前に現れた亡き妻アーデルハイトの姪だという若い女性。確かに亡妻にどこか雰囲気が似ていたが、代わりになるものではないことは明白だった。一族の策略だと察したフェルディナントは、当初、彼女を相手にせず、邪見に扱った。
しかしアマーリエは続けた。
「私は、フェルディナント様と結婚できなければ家を追い出されてしまうのです」
その言葉に、心根の優しいフェルディナントは渋々彼女を家に迎え、奇妙な共同生活が始まった。
「フェル様」と愛称で呼び、亡妻と同じ味付けの料理を作るアマーリエとの日々は、久しぶりに家庭の幸福を思い出させてくれる時間であった。亡き妻への罪悪感もあったが、アマーリエに亡妻の面影を重ねてしまう自分に、どこか侘しさを感じていた。
フェルディナントは一度、面と向かって「やはり君とは結婚できない」と告げた。しかしアマーリエは真っ直ぐな瞳で応じた。
「私はアーデルハイト叔母様ではありません。私の意志で、フェル様と一緒になりたいのです」
勝気で一生懸命なその姿に、ついにフェルディナントは根負けし、アマーリエを妻に迎える決意をした。亡妻への想いに偽りはなかったが、アマーリエも自分を愛してくれることを自覚し、彼女のことも愛そうと誓った。
そして、56歳で初めて我が子を抱く。元気な女の子だった。
小さく温かい命を抱いた瞬間、フェルディナントの目には涙が溢れた。まさかこの歳で父になれるとは思わなかったのだ。この子に全てを捧げ、この命がある限り守り続けよう。そう心に誓った。
「フェル様、この子の名前はお決めになられましたか?」
その問いに、フェルディナントは胸を締め付けられた。名前の候補はあったが、それはあまりにも未練がましく、今の妻に対する礼を欠く行為に思えたのだ。
「…」
沈黙が続く。アマーリエの顔を直視できなかった。
「フェル様」
彼女は、まるで不思議な力で彼の心を開くようだった。
「…アーデルハイト。私が最も愛した――いや、今も愛している人の名だ」
その名を口にする勇気は、亡き妻への裏切りとも、アマーリエへの裏切りとも思えた。しかし、アマーリエの反応は意外だった。
「良いと思います。アーデルハイト、フェル様を見守る守護天使と同じ名前ですから」
優しく微笑む彼女の言葉に、フェルディナントは再び涙を零した。
物事にひたむきに一生懸命向き合えるのは母譲りで、感情が昂ると涙を零してしまうのは父譲り――そのすべてを受け継いで生まれた子が、アーデルハイトであった。
「…アーデルハイト、幸せに――」
これに続く言葉は、亡き妻へのものか、娘へのものか――定かではない。しかし、この瞬間、彼の人生は確かに幸福に包まれていた。
大陸暦1272年3月11日、娘アーデルハイトの結婚式から二日後、ザールマルク伯フェルディナントは静かに息を引き取った。享年75、大往生であった。
亡骸に縋りつき、泣きじゃくる娘の姿は、彼がどれほど愛されていたかを物語っていた。
彼は生涯の中で多くの誓いを立てた。
娘を守ると誓った婿がそうであったように、フェルディナントもまた、その誓いを一度も裏切らなかった。
その誠実を貫いた果てに、この光景があるのならば、娘の涙は悲しみではなく、愛と生の証であり、生涯に意味があるとすれば、それはまさにこの瞬間に宿っているのだろう。




