第6章:生涯に意味があるとすれば②
「失礼いたします、王太后様」
国王ヴィルヘルム2世の母、カタリーナの私室へと通されたのは、元内務省官僚であり、かつてルートヴィヒの側近でもあったマティアス・フォン・リンドハイムであった。
部屋に足を踏み入れた彼の目に最初に映ったのは、喪服を思わせる黒いドレスに身を包み、ハンカチを何度も目元へと運ぶ王太后の姿だった。
「失礼しましたね……このような、恥ずかしい姿をお見せしてしまって」
「いえ、そのようなことは……」
かつて“王宮の薔薇”と称えられたその女性は、深い悲嘆に沈み、泣き腫らした目と積み重なった心労によって、年相応――いや、それ以上に老いたように見えた。
色褪せ、しぼんでいく薔薇の花を見ているかのような感覚を、マティアスは覚えずにはいられなかった。
「もしお邪魔でしたら、私はこれで失礼を――」
「いいえ、大丈夫よ。それより……ルートヴィヒの話を聞かせてちょうだい。貴方は、最後まであの子の傍にいたと聞いているわ」
「……最後まで、お供することは叶いませんでした」
カタリーナと向かい合って腰を下ろしたマティアスは、静かに語り始めた。自身の来歴と、どのようにしてルートヴィヒと出会ったのかを。
マティアスは、売官制によって貴族に列せられたリンドハイム子爵家の子として生まれた。本人は画家を志していたが、父の反対により断念し、縁故によって内務省の官僚となったという。
軍人に向かない華奢な体躯、官僚試験を突破するほどの才覚も持ち合わせていなかった彼は、いわば親の七光りでその職を得たに過ぎなかった。
地方派遣の記録官として職務に就いていた折、報告書に添えた挿絵の腕前をルートヴィヒに見出され、気に入られたことが転機となる。以来、彼は側近としてルートヴィヒに仕え、内務省内でもその庇護を受けながら昇進していったのだという。
無能で無気力――そう陰口を叩かれていたルートヴィヒだが、それは軍事や内政に関心も適性も欠いていただけであり、彼の芸術的才能は決して嘲笑されるべきものではなかった。
似た境遇にあった二人は次第に心を通わせ、ルートヴィヒが王位に就いた暁には、これまでの軍事偏重の治世とは異なる道を歩みたいと語り合っていた。
帝国内構成国グラウエンシュタインなどと強く連携し、平和を享受しながら、軽んじられてきた芸術に力を注ぐ――
いつの日か、芸術の都と称されるグラウエンシュタインの首都に並ぶような王都を築きたい。それが、二人の共有した夢だった。
「……そう。ルートヴィヒは、そんな夢を……」
カタリーナは、息子が芸術を好んでいたことは知っていた。だが、国王となってそれを国のかたちにまで昇華させようとしていたことまでは、知らなかった。
「王位継承問題が表面化し、ルートヴィヒ様のお立場が危うくなった時――あの方を支持する者は、決して少なくありませんでした」
実際、ヴィルヘルムの急進的な改革に反発する貴族たちの精神的拠り所となったのは、ルートヴィヒであり、その数も相当なものだった。
「その折、ルートヴィヒ様は彼らの前で、こうおっしゃいました」
『私が王位に就いたならば、ヴィルヘルムのように貴族を切り捨てる政策は決して行わない。貴族こそが、この王国を支える柱なのだ』
その言葉は、周囲の者たちが吹き込んだ都合の良い解釈の受け売りに過ぎなかった。
だが少なくとも、彼に王位継承の意思があったこと、そして貴族という階層にとって“都合の良い君主”であったことは示された。
しかし、それを行動へと移す段階には至らなかった。結局のところ、それは耳障りの良い言葉を並べ、不満と愚痴を言い合うだけの寄り合い――それ以上のものではなかったのである。
「ヴィルヘルム陛下は、私がルートヴィヒ様の所在を問われた際、命までは取らないと約束されました。ですが……その約束は果たされませんでした」
マティアスは、その裏切りをどうしても許すことができなかった。
ルートヴィヒの命だけは守ると確約していたはずだ。にもかかわらず、彼は最終的に兄の首を落としたのである。
「……でも、それはルートヴィヒにも非があったわ。あの子は、国を売ってしまったのよ」
悲嘆に暮れるカタリーナは、ルートヴィヒが王位を得るために王国の領土を割譲し、そこに住む民までも無条件でボレニア侯爵の支配下に置くという条件を提示していた事実を知らされた時、もはや彼を全面的に庇うことができなくなっていた。
ヴィルヘルム派のみならず、宮廷も、軍も、そして国民も激昂した。
「裏切者ルートヴィヒを許すな」
「売国奴を処断せよ」
王都を覆い尽くしたその声の中で、ルートヴィヒの運命はすでに定まっていたのである。
そして実のところ、マティアスはその結末に対して、深い自責の念を抱いていた。
なぜなら、ボレニア侯国への亡命と、そこでの再起をルートヴィヒに進言したのは、ほかならぬ自分だったからだ。
もし、あの提案をしなければ。
もし、別の道を示していれば。
あるいは――ルートヴィヒは生き延びることができたのではないか。
ヴィルヘルムが約束を違えたと思い込みたい気持ちはあった。しかし、悲劇の端緒を作ったのは自分だという事実が、マティアスを復讐へと向かわせることを許さなかった。
彼はそれらすべてを、包み隠さずカタリーナに語った。
本当の意味で、王子の死の原因は自分にあるのだということも。
そして、その罪に対して、どうか処断してほしいとも願い出た。
夫を失い、息子をも失った王太后の悲しみを、ほんのわずかでも和らげられるのなら――それを己の贖罪としたかったのである。
しかし、カタリーナは静かに首を横に振り、マティアスの右手をそっと包んだ。
「……貴方も、辛かったのでしょう?その罰は、もう十分に受けたのではなくて?」
小指を失ったその手を、かつて仕えた主の母は、慈しむように撫でた。
その瞬間、マティアスは涙を堪えることができなかった。
自分がどれほど罪深いことをしたのか。
これほど優しく、深い愛情を持つ人から、息子を奪ってしまったのだという現実が、胸を締めつけた。
生きていることさえ耐え難い。
それほどまでに、彼は罪の意識に押し潰されかけていた。
「……もし、貴方が嫌でなければ、なのだけれど」
カタリーナは、ためらいがちに口を開いた。
「また、ルートヴィヒの話を聞かせてくれないかしら。私の知らない、あの子のことを……もっと知りたいの」
「王太后様……それは……」
「そのためには、貴方は生きていなくては駄目よ?」
涙に滲む視界の中でも、それだけははっきりと分かった。
目の前の女性が、精一杯の慈悲と愛情をもって、自分の身を案じてくれていることを。
裏切者、売国奴と罵られた息子の、ただ一人の味方であり続けようとする、母の愛を。
だからこそーー
マティアスは、生き恥を晒すことに、その生涯のすべてを捧げると決めた。
「……はい。お望みであれば、いくらでも」
マティアス・フォン・リンドハイムは、王太后専属の宮廷詩人、ならびに宮廷画家として彼女に仕えることとなった。
彼はルートヴィヒの思い出をカタリーナに語り聞かせ、それらを詩にまとめ、あるいは絵画として描くことで、せめてもの慰めとしたのである。
その過程で遺された膨大な記録や作品群は、後にルートヴィヒを題材とした舞台演劇の成立へとつながっていく。
マティアスの文才や画才は、決して突出したものではなかった。だが、一人の人物に真摯に向き合い、その生を詩と絵に刻み続けたことで、「悲運の王子ルートヴィヒ」という存在を、生き生きと立ち上がらせることに成功したのである。
それは同時に、歴史の敗者にも人格があり、温かみや人間的魅力を備えていたのだということを、後世へ伝える営みでもあった。
勝者の栄光のみが華々しく語られる歴史の中で、敗者に光を当てるこうした作品は極めて珍しかった。
やがて、この感性から生まれた思想は、題材となった王子の名を取って『ルートヴィヒズム』と呼ばれるようになる。
この思想は、絶対的支配者の君臨を至上原理とするアドリアンの逆鱗に触れた。しかしヴィルヘルムは、あえてその存在を黙認し、政策顧問官となっていた彼にこう諫めたという。
「寛大な器量で受け止め、それでもなお君臨する君主こそが、お前の理想ではなかったか?」
その言葉により、アドリアンは一応の納得を示し、態度を和らげたと伝えられている。
ヴィルヘルムは決してルートヴィヒを好んではいなかった。彼が政敵であり、王国を裏切った存在であり、王家の汚点であるという認識を、最後まで否定することもなかった。
それでも――血を分けた兄であることに変わりはない。もしこの営みが、せめてもの供養となるのなら、それでよい。彼は密かに、そう思っていたのである。
その後の施策により、宮廷は解体され、『宮内庁』として再編されることになった。ヴィルヘルムは、その長にマティアスを推挙した。
詩人や画家としての経歴を持つ彼を重職に据えることは、実力主義を標榜するヴィルヘルムの治世において異例であり、不適任ではないかという批判も少なくなかった。
それでもヴィルヘルムは、母カタリーナが息を引き取るその日まで、マティアスを宮内庁長官の地位に留め置いた。
それは、政治的判断であると同時に、王として、そして一人の息子として下した、静かな決断でもあった。




