第5章:待っていた、この時を⑦
「ここ最近は、食べてばかりな気がするな……」
今日も今日とて、食事しか楽しみのないルートヴィヒは、ボレニア侯爵の居城で一人、昼食を取っていた。侯爵が意気揚々と戦場へ出陣して以来、城内は驚くほど静まり返り、最低限の護衛兵すら時折見かける程度である。
その単調な日々に終わりを告げるかのように、侯爵に仕える侍女が足早に報せを持ってきた。
「軍が到着いたしました」
ルートヴィヒは当然、ボレニア侯爵の軍勢が戻ってきたのだと思い込んだ。しかし扉を開けて姿を現したのは、まったく別の人物だった。
「久しぶりですね、兄上。しばらく見ないうちに、ずいぶんと肥えられたのでは?」
白金色の髪。成長し、精悍さを増した整った顔立ち。軍の総司令官としての威厳を湛えた軍服に身を包んだ――弟、ヴィルヘルムであった。
「な……なぜだ、ヴィルヘルム……貴様……!」
突然の再会に動揺するルートヴィヒをよそに、ヴィルヘルムの傍らに控えていたボレニア侯国の貴族が、彼を指さして言い放つ。
「こちらが、ローゼンベルク王国の王位継承を条件に、自国の領土割譲を約して我が侯爵へ軍の派遣を要請した、第一王子殿でございます」
「ふむ。自国の国土を対価に王位を奪おうとした、というわけか。それは看過できんな」
あらかじめ用意された言葉を口にし、二人は明確にルートヴィヒを糾弾する姿勢を示した。しかし当の本人は、なおも自らの立場を理解しない。
「なにが悪い!私は第一王子だぞ!王国は私のものだ!私がどう扱おうと構わないだろう!」
「反省もなく逆上するとは……ローゼンベルク王国の王子とは、かくも愚かなものなのですね」
「やめろ。私も“彼”を王族の一員とは認めたくない」
冷え切った声でそう告げると、ヴィルヘルムは軽く手を挙げた。次の瞬間、控えていた兵士たちが一斉にルートヴィヒを取り押さえる。
「さ、触るな!無礼者!私を誰だと思っている!第一王子ルートヴィヒ・フォン・ローゼンベルクだぞ!」
「王子であろうとも、国を裏切り、国土を切り売りして外敵を招いた罪は免れない。“国家反逆罪”だ、ルートヴィヒ・フォン・ローゼンベルク」
ローゼンベルク王国には王族を処刑する法は存在しない。しかし“国家反逆罪”においては、そこに王族免責の条文はなかった。
かつて内務相の地位にあったルートヴィヒも、その事実を知らぬはずがない。今この罪を突きつけられた意味を、彼は否応なく理解した。
「ま、待て……待ってくれ、ヴィルヘルム!俺が悪かった!もう口出ししない!だから……命だけは……!」
運命を悟った瞬間、第一王子は弟の前で無様に命乞いをした。しかし、それはあまりにも遅すぎた。
「首を差し出せ。私の手で終わらせてやる」
サーベルが抜かれる。兵士たちは、なおも暴れるルートヴィヒを必死に押さえつけた。
「見苦しい。最後くらい、王族らしくしろ」
「頼む、ヴィルヘルム!私たちは兄弟じゃないか!」
「兄弟だからこそ、許せぬこともある」
その言葉は、かつてルートヴィヒ自身が母に吐いたものと酷似していた。皮肉にも、彼らは紛れもなく兄弟だった。そして、だからこそ結末は変わらない。
自ら下した決断には、自ら向き合うしかない。
「頼む、ヴィルヘ――」
それ以上の言葉は続かなかった。
鈍い音が響き、床に静寂が戻る。赤い染みがゆっくりと広がっていった。
ヴィルヘルムの胸中は、驚くほど静かだった。剣を握る手も、微動だにしない。
「ああ……そうか……私は、この時を待っていたのだな」
ふと、先ほどまで兄が座していた食卓へ視線を向ける。そして、ヴィルヘルムは嘲るような笑みを浮かべ、もう動かぬ兄へ告げた。
「最後の食事には、相応しい献立でしたね、兄上」
昼食の皿には、白豚のソーセージのソテーが残されていた。ナイフで切られた断面が、静かに光を反射していた。
「陛下……」
部屋を出た先には、アーデルハイトが待っていた。入室こそしていなかったが、そこで何が起こったのかは察している。だからこそ、ヴィルヘルムにどのような言葉をかけるべきか、即座に判断することができなかった。
「ああ……アーデルハイト嬢……終わったぞ。戦争には勝った」
いつもと違い、どこか放心したようなヴィルヘルムの様子は、「勝った」という言葉とは裏腹に、喜びも誇りも感じさせなかった。アーデルハイトは、続く言葉を見つけられずにいた。
「いい機会だ。アーデルハイト嬢にも話しておこう。貴女の企ては、私の治世では実を結ばない」
その言葉に、胸を強く締めつけられる。
「……企て、とは?」
とぼけたわけではない。ヴィルヘルムが見抜いていることの大半は、おそらく正しい。ただ、どこまでを指しているのかを確かめる必要があった。
「ザールマルクを守るため、私に取り入ろうとしていることだ。だが心配はいらない。私はザールマルクと良好な関係を続けたいと考えている」
それは確かに、アーデルハイトが当初から抱いていた思惑だった。ヴィルヘルムと結婚すれば、ザールマルクはローゼンベルクの庇護を受けられる。たとえボレニアが滅びたとしても、将来的に有益な関係であることは間違いない。
だがヴィルヘルムは、それを婚姻なしで約束すると言っているのだ。
「陛下、私は……」
「そして、その先だ。貴女が最も重視しているものだろう。だが、残念ながら、それだけは叶えてやれない」
なぜ先に断りを入れるのか、理由は分からない。それでもアーデルハイトは、最も妥当だと思える問いを口にした。
「私では、王妃として魅力のある結婚相手ではありませんでしたか?」
ヴィルヘルムが最も重視するのは、政略結婚という外交上の切り札だ。それは原則一度しか使えない強力な手段であり、彼が無駄遣いを許すはずがない。
アーデルハイトは、自分がその価値に見合わないと判断されたのだと考えた。
最初に湧き上がった感情は、悔しさだった。安堵でも喜びでもない。雷鳴王に認められなかったという事実への不満と、自身への情けなさである。
しかし、その考えに対し、ヴィルヘルムは静かに首を振った。
「貴女は魅力的な人間だ。博識で、自ら考える聡明さを持ち、課せられた責務のためなら己を犠牲にすることすら厭わない。愛情深く、家族や一族、そして領地の民を真に思いやれる。その在り方こそが、貴女を軍事に向かわせない理由でもある。人を傷つけ、犠牲を強いる行為を受け入れられない――その慈悲深さがあるからだ。これを理想の王妃と呼ばずして、何と呼べばいいのか。私には他の言葉が見当たらない」
放心しているように見えたヴィルヘルムの瞳は、人の本質を見透かすかのような深い蒼を湛えていた。そこにあるのは情に流される温もりではなく、事実を事実として受け止める、揺るぎない視座だった。
「陛下……」
それゆえに、アーデルハイトは涙を抑えることができなかった。取り繕った賛辞でも、気遣いの言葉でもない。ただ純粋に「見てくれている」という実感が、今は何よりも胸を打った。
「では……なぜ、私ではいけなかったのでしょう」
「それは、貴女を深く傷つけ、貴女の拠り所を奪うことになるからだ」
そうしてヴィルヘルムは、ジークハルトにすら明かしていなかった構想を語り始めた。それは常識を超え、先進的で、伝統という支柱すら許容しない――雷鳴王の治世にこそ相応しい未来だった。
聞き終えたとき、アーデルハイトにも理解できてしまった。
その未来の中に、自身の望みが叶う余地は、あまりにも乏しいという現実を。
「……陛下は、それでよろしいのですか?」
最後まで話を聞いた彼女が、まず口にしたのはその問いだった。常識的に考えれば、それはヴィルヘルム自身にとっても過酷な選択であるはずだからだ。
「私が、歴史を終わらせる」
その言葉の意味を、アーデルハイトは理解していた。アドリアンの著作で示されていた概念だ。しかし、ヴィルヘルムの視線は、その先すら見据えていた。
「なるほど……だから、“私の拠り所を奪う”という言葉だったのですね」
ようやく、彼の真意に辿り着く。
「陛下。一伯爵令嬢の身であることは、重々承知しております」
その眼差しに、もはや涙はなかった。
「どうか、私を侮らないでくださいませ」
それは挑戦であり、誓いだった。
「陛下のお考えは立派です。実現すれば、どれほど素晴らしい未来でしょう。私自身も、ぜひその景色を見てみたい」
だが、とアーデルハイトは続ける。
「そのための保険は必要です。もし成し遂げられなかった時には、私は必ずお役に立てます。そして、仮に実現したとしても――私は、そこで希望を捨てません」
その表情は、これまでに見せたどの顔よりも輝いていた。そこに絶望の影はなく、深い闇の先に光を求める者の、揺るぎない意志が宿っていた。
「……ふふ。なんと豪胆な女性だ」
ヴィルヘルムは、自身の展望を語り尽くしてなお、絶望するどころか挑もうとする気概を見せたアーデルハイトを、初めて一人の女性として強く魅力的だと感じた。
いや――違う。彼女は最初からそうだったのだ。ただ、自分がそれを見ようとしてこなかっただけ。その事実に気づき、ヴィルヘルムは自嘲気味に小さく息を吐いた。
「どうやら、私は随分と無礼を重ねてきたようだな」
そう言って、彼は片膝をつき、静かにアーデルハイトの手を取る。
「これまでの非礼を詫びよう、アーデルハイト。どうか――私の妃になってほしい」
それは、ザールマルク伯爵令嬢として持ち込まれた政略的提案ではなかった。
雷鳴王と呼ばれる新進気鋭の若き国王が、ただ一人の女性に向けて差し出した、私的で真摯な求婚だった。
「はい。陛下の御心のままに」
アーデルハイトは、迷いなくそれを受け入れた。
この女性こそが、雷鳴王を支える王妃であり、やがて歴史に名を刻む――後の『皇后』である。




