第5章:待っていた、この時を⑥
「あらら橋だよ、おっこちた~、コロンと音して、おっこちた~」
「音痴な歌はやめろ、ハンス。というか、そんなのどこで覚えたんだ」
ローゼンベルク中央部で親しまれている童謡をハンスが口ずさみ、それをジークハルトが馬上からたしなめる。一見すれば穏やかなひとときに見えるこの光景も、実際には戦場の一角であった。
「次はあそこにある橋だ。さっさと落として、次へ行くぞ」
「はいよ」
ザールマルク国境線での戦いを終えたローゼンベルク・ザールマルク連合軍は、軍勢を三つに分け、それぞれ独立した作戦行動に移っていた。
主力は、ヴィルヘルム自らが指揮する連合軍本隊で、首都ボヘリクを目指して進軍中である。
カール率いる騎兵隊は、ボレニア騎兵軍の残党を追撃する別動隊として行動しており、敵に主力軍の作戦を妨害する余地を与えぬよう、執拗な追撃を任務としていた。
そして、ジークハルトが率いる特別強襲大隊は、首都ボヘリクと主戦場グラドロッサ平原の間を流れる大河『ティーファ川』に架かる連絡橋を次々と爆破し、ボレニア騎兵軍の連絡線および補給線を断ち切る別働作戦を遂行していた。
ノッセル回廊会戦で共和国側の橋を落とした時とは事情が異なる。ボレニアの国土は広く、ティーファ川は長大で、そこに架かる橋の数も多かった。そのため、作戦遂行には“機動力の確保”が不可欠であり、特別強襲大隊は騎乗による機動戦力化のための訓練を重ねてきた。
しかし、その訓練で最も苦戦したのは、意外にもジークハルトであった。
「……」
「ジーク、馬に向いてねぇんじゃないか?」
要領よく騎乗するハンスとは対照的に、ジークハルトはそもそも馬に乗ること自体に難航した。だがそれは、彼の運動神経や才能の問題でも、馬を恐れていたわけでもない。
単純に――馬のほうが、彼を恐れていたのだ。
教官を務めた騎兵隊の熟練兵ですら手を焼き、「フォルラート大尉は殺気が強すぎる」と評するほど、動物相手には致命的な資質を持っていたのだった。
それでも機動化は今後の戦場に不可欠である。試行錯誤の末、輜重隊の馬車を引いていた穏やかな性格の馬が譲られ、ようやく彼は騎乗を可能とした。
その牝馬は『ヘルティ』と名付けられ、以後ジークハルトの愛馬として名を残すことになる。
勇猛さや俊足といった軍馬としての突出した能力はなかったが、ジークハルトの纏う殺気に鈍感で、巨体ゆえの安定感を備えたヘルティは、彼にとって理想的な存在だった。
巨大で穏やかな馬に、小柄で殺気立った男が跨る。そのちぐはぐな組み合わせは、当初こそ同僚たちの笑いの種であったが――
今では訓練を重ねた両名が、部隊の先頭を走っている。
「爆薬の残量と補給体制の確認は怠るな。なくなったら帰還だ」
「了解。数学が使えるって便利だな」
特別強襲大隊は三個中隊と一個補給中隊で編成され、各中隊は割り当てられた目標に向かって連絡橋を破壊して回っていた。補給中隊は現地に臨時補給処を設け、爆薬や弾薬の補給、戦果の整理と情報分析を担っている。
その結果、歩兵・騎兵・砲兵の専門技能を融合した同大隊は、ノッセル回廊会戦で動員された選抜中隊を凌ぐ、独立行動可能な総合機動戦闘集団へと成長していた。
ジークハルト直率の第一中隊は、ザールマルクから最も遠い地域――すなわち、ボレニアの主要連絡路の分断を担当していた。道中で見つけた橋はすべて破壊し、川岸に係留された渡し船すら沈める徹底ぶりである。
そして、最大の目標――グロース・ティーファ大橋を視認した瞬間、状況が切迫していることに気づいた。
「あれ……ボレニア軍の主力じゃないか?」
ハンスの指摘は的中していた。グラドロッサ平原から退却してきたゲオルグ率いるボレニア騎兵軍――その本隊に先行する小規模な先遣隊が、まさに大橋を渡ろうとしていたのだ。
「一歩遅れた!中隊総員、戦闘準備!
橋の爆破は後回しだ。まずは橋上の敵騎兵を止める!」
号令一下、第一中隊は速度を上げ、迅速に陣形を変えて橋の入り口両端に展開した。敵が渡り切る前に配置を完了できたのは、幸運だった。
「総員、下馬!戦闘に移行!
小銃部隊、射撃開始!騎馬砲兵、軽野戦砲の設置を急げ!」
特別強襲大隊は騎乗しているが、騎兵ではない。馬はあくまで移動手段であり、戦闘は下馬して行うのが原則だった。
この“歩兵・砲兵の機動化”という発想こそが、ジークハルトの戦術思想であり、遠隔地で敵主力と渡り合える機動力と火力を両立させていた。
内地での遭遇戦を想定していなかったボレニア騎兵軍の先遣隊は混乱に陥り、判断と指揮の乱れが致命的な隙を生んだ。
「よし、敵に銃砲はない!一気に狩り尽くせ!」
橋の両翼に展開した小銃部隊は、斜め方向から橋上の騎兵を射撃する。死角のない十字砲火を浴びた騎兵たちは、逃げ場を失い、なす術もなく撃ち倒されていった。
橋という退路の限られた地形で、この戦術は決定的だった。
やがて、軽野戦砲の設置が完了し、砲撃までもが戦闘に加わる。
反撃を試みたボレニア騎兵も突撃を敢行したが、そのたびに射界の中で撃破されていった。彼らはこの時になって、かつて捨て去った馬上銃の価値を悔やむことになる。飛び道具を持たぬ騎兵は、もはや抗う術を持たなかった。
こうして防御態勢を構築し、騎兵軍の先鋒を撃破したジークハルトは、後続部隊へ連絡を入れ、戦力を増強したうえでグロース・ティーファ大橋の封鎖に専念することを決断した。
携行している爆薬では大橋の完全な破壊には不足していること、敵への射撃を続行しながら爆破作業を行うのは極めて危険であること――これらが戦術眼から導き出された直接的な理由である。
しかし同時に、主要連絡線として十分な機能を有するこの大橋を失うことは、戦後において大きな損失となり得る。封鎖という選択は、ジークハルトの中に芽生え始めた戦略眼の表れでもあった。
ボレニア騎兵軍は周辺の橋を用いた迂回を検討したが、それらはすでに悉く制圧されていた。安全な後方地帯、あるいは首都へ通じる橋は、このグロース・ティーファ大橋をおいて他に存在しない。そう悟ったとき、彼らはまさに死地に活路を求めるがごとく、勇猛にして無謀な戦線突破を試みることになる。
この大橋を巡って繰り広げられた一連の戦いは、後に『グロース・ティーファ大橋攻防戦』と呼ばれ、戦史を主題としない歴史書においてさえ、ジークハルトの名声が初めて記される戦いとして語られることとなった。
「して、どのような理由でその男を連れてきたというのだ、“突撃のカール”よ」
ヴィルヘルムの問いに、カールは端的に答えた。
「はっ!投降して参りましたので、捕らえた次第にございます!」
ハキハキとした返答を聞き、ヴィルヘルムはカールの前に跪く男へと視線を移した。
「モルゲンフェルス男爵、と言ったか。ザールマルク戦線の敵将が、こうもあっさり降伏するとはな。ボレニア騎兵軍とやらは腰抜けなのか?それとも、そこにいるカールが一枚上手だったか?」
鼻息荒く返答を待つカールとは対照的に、モルゲンフェルスは人を食ったような口調で淡々と答えた。
「どちらも違いますな。ボレニア騎兵軍は勇猛であって、蛮勇ではない。命を賭すべき戦いと、そうでない戦いを見極めただけのこと。もう一方についても同様です。我々を執拗に追撃していたのが彼一人だったため、彼に投降の意志を示したまで。他に適当な相手がいれば、そちらに白旗を掲げていましたとも」
「相変わらず癪に障る喋り方だな」
不要に貶されたカールはわずかに憤慨し、モルゲンフェルスが投降してきた際の状況を総司令官ヴィルヘルムへと説明した。
曰く――
カールの追撃は執拗を極めた。敵を発見するたび進路に先回りし、下馬して待ち伏せ、小銃射撃で先制。反撃を受けるとすぐに馬に飛び乗って離脱し、距離を取れば再び追撃する――その繰り返しで、モルゲンフェルス隊は体力も精神も削られ、ついに降伏を決断したのだという。
その場でもモルゲンフェルスは減らず口を叩き、業を煮やしたカールが「勲章をもらうのに首から下はいらないんだぞ」と脅すと、「生きて連れて行った方が利用価値が高く、功績も大きいのでは?」と返した。
「それもそうか!」と納得してしまったカールに対し、「貴方は戦場では有能かもしれませんが、基本的に愚かですね」と余計な一言を添えたことで一悶着起こり、最終的に本隊まで連行することになった――という顛末である。
武勲として語っているのか、それとも正直なだけの馬鹿なのか。あっけらかんと話すカールの姿を見て、彼との交流が浅いアーデルハイトは判断に迷った。
しかし、あのヴィルヘルムが側に置いている以上、決して無能ではないのだろう――そう自分を納得させるまで、少しばかり時間を要した。周囲の反応から察するに、彼にとってはこれが平常運転なのだと理解したことで、この件は彼女の中で決着した。
彼の扱いに慣れているヴィルヘルムはカールの肩に手を置き、
「確かに成果だ。今回も勲章を約束しよう」
と告げた。カールは満足した様子で、それ以上口を挟まず控えることに納得した。
「カールに追い回されるとは災難だな。彼は一度狙った獲物を、たとえ死んでも離さない騎兵なのだよ。文字通りな」
「ローゼンベルクの騎兵とは、かくも野蛮なのですね」
「時代遅れの胸甲騎兵より、よほど有用だ」
軽い舌戦を経て、ようやく本題に入る。
「それで?我々が貴候の投降を受け入れたとして、どのような利がある?カールの言う通り、首から下は不要と判断することもできるのだぞ。なにせ我々は“野蛮な”ローゼンベルク軍だからな」
皮肉を込めたヴィルヘルムの言葉に、モルゲンフェルスは冷ややかで挑発的な眼差しを返した。
「私を生かした方が、有用かと存じますが」
「どのように、だ?」
モルゲンフェルスは、ヴィルヘルムが欲する二つのものを差し出す条件として命乞いをした。
「一つ。私が首都ボヘリクまでご案内しましょう。無駄な戦闘なく落城させた方が、陛下にとってもお楽では?」
「では、もう一つは?」
「兄君ルートヴィヒ様の引き渡し。加えて、彼を断罪するための大義名分もお付けします」
まるで商談のように条件を提示する敗将に、ヴィルヘルムはその有能さを認め、首を縦に振った。
「いいだろう。その二つを、貴様の命で買ってやる。有能であったことを喜ぶがいい――ディートリヒ・モルゲンフェルス」
「“フォン”をお付けください。これでも男爵位を授与されておりますので」
「私の国では、もはやそうはならんがな」
ヴィルヘルムに臆することなく言い返す蛇のような男を、アーデルハイトは汚物を見るかのような目で見下ろした。
彼女は知らない。かつてこの男が、戦場の混乱に乗じて彼女を拉致し、身柄と血統を己の欲望のために利用し尽くそうとしていたことを。
減らず口の彼だが、愚かではない。だから、かつて自分の胸中にあった下劣な企てを、口に出すことはなかった。
しかし、その本性の片鱗は、アーデルハイトの直感に確かに届いていた。




