第5章:待っていた、この時を⑤
「負傷者を収容しろ!戦線復帰可能な軽傷者を優先だ!」
戦場にエリアスの指示が響く。
グラドロッサの戦いが始まってから、すでに数時間が経過していた。レオンハルト率いるローゼンベルク軍は、三度目のボレニア騎兵軍の突撃を耐え抜き、今は負傷者の救護と収容に追われていた。
三度目の突撃は戦場に夥しい死体を晒し、負傷者も同等の数に上った。しかし、騎兵突撃での負傷者は、軽傷者を除けば、大半は骨折や肉体欠損など致命的な状態だった。そのため、軽傷者よりも戦死者のほうが多いという、奇妙な状況が生じていた。
「今のうちに陣形を立て直せ!」
陣形の再編を指示するレオンハルトの号令に、エリアスはとうとう我慢ならず司令官に詰め寄った。
「閣下!これ以上は無理です!戦線を維持するのにも限界があります!」
「しかし、方陣を完成させねば、騎兵の餌食になる。我々がまだ立っていられるのは、方陣を維持してきたおかげだ」
「ですが、相手は5万の騎兵です!このままではじり貧です!」
「それはどうかな?」
レオンハルトの含みある指摘に、エリアスは戸惑った。何を言っているのか測りかねたが、戦場、特に敵陣を観察すると、その言葉が強がりでないことが明らかになった。
「…騎兵軍の突撃が止んだ?」
これまで矢継ぎ早に突撃していた騎兵軍の動きが滞り、向こうも陣形を再編している最中だった。
「いや、あれは戦力再編だ」
「戦力再編?大軍の騎兵がなぜ?」
戦力再編とは、戦闘で消耗した部隊を整理し、残存戦力を結集して戦闘力を維持する戦術的手法である。これはどの軍隊でも行われる常識だ。
しかし、エリアスが納得できなかったのは、5万の騎兵を有すると言われるボレニア軍が、三度の突撃で投入した戦力は2万5千であり、同数の騎兵がまだ温存されているはずなのに、なぜ現場で再編を強いられているのかという点だった。
「ヴィルヘルム陛下の軍勢に対抗するため、戦力を二分したのでは?」
「それもあるだろう。しかし根本的な疑問は、“本当に5万騎いるのか?”ということだ」
レオンハルトの指摘に、エリアスは愕然とする。
「まさか…“ボレニア軍には5万騎がいる”というのは常識では?」
「それは向こうが言っているだけだ。実際はもっと少ないかもしれない」
レオンハルトの分析は正しかった。
ゲオルグはモルゲンフェルスに6千の騎兵を与えていたが、彼自身が現場で指揮する騎兵軍は、差し引き4万4千騎ではなく、実際にはさらに少ない3万2千騎にすぎなかった。
しかもそれは純粋な戦闘騎兵の数ではなく、後方に控える補給隊の馬車や伝令兵などを含めた総数である。したがって、戦闘に参加できる騎兵は2万5千騎が限界であり、戦闘力として数えられる全戦力は、先ほどまでの三度の騎兵突撃ですでに投入され尽くしていたのである。
「彼らは、数を誇張しているとお考えなのですか?」
「必ずしもそうとは思わん。だが、そもそも騎兵5万を養うこと自体が非現実的だ。資源が豊かで、軍の力をほぼ騎兵に注いだとしても、その数には到底及ぶまい」
レオンハルトは以前から、ボレニア騎兵軍5万という数字を虚偽、あるいは少なくとも誇張されたものだと見ていた。
それは、これほどの騎兵数を成立させるために必要な馬の数が、常識的な実現範囲を大きく超えていることを理解していたからである。
騎兵が用いる馬は、一人につき一頭というわけではない。
戦闘中に騎乗するのは確かに一頭だが、激しい行軍や戦闘による消耗、あるいは不調に備え、予備の馬を用意するのが常である。最低限でも、騎兵一人につき二頭の馬が必要とされ、余裕を持たせるのであれば五、六頭を確保するのが理想であった。
これを踏まえれば、騎兵5万を擁するには、軍馬だけで最低でも十万頭以上を維持しなければならない。これこそが、レオンハルトが“騎兵5万”という数字を非現実的だと判断した最大の根拠であった。
馬の飼葉や飼料の消費量は人の比ではなく、その供給を十万頭分以上、恒常的に生産し続けるのは現実的とは言い難い。加えて、馬も生き物である以上、老い、病み、常に軍馬として使い続けられるわけではない。すなわち、馬そのものの生産と更新を維持するだけでも、莫大な費用と労力を要するのである。
騎士王戦争以前であれば、騎兵は戦場の華であった。しかし銃器の発達によって騎兵の絶対的優位が崩れた当時においては、騎兵という兵科は、言ってしまえば“割に合わない存在”となっていた。
ボレニアが騎兵に全力を注いでいるという点は事実であろう。だが、その数に関しては、レオンハルトは到底、額面どおりに受け取ることはできなかった。
もっとも、ゲオルグが意図的に虚偽や誇張で飾り立てていたわけではない。彼は配下の貴族たちに馬の生産と育成を厳命していたが、馬は機械のように大量生産できるものではない。
育成ノルマを果たせず処罰される者を目の当たりにした他の貴族たちが、出産数を誤魔化したり、軍馬として不適格な馬を数に含めたり、現時点での動員可能数ではなく見込み数を報告したとしても、不思議ではなかった。そうして積み上げられた数字が、結果として5万に達したに過ぎない。ゲオルグは、その額面上の数を信じていただけなのである。
とはいえ、ボレニア騎兵軍が依然として戦術的優位を有する戦力であることは揺るがなかった。
その対策を、レオンハルトは20年以上にわたって思案し続けてきた。ゲオルグが彼に執着し続けた年月と同じだけ、レオンハルトもまた、騎兵を打ち破る戦法を考え続けていたのである。
そしてこの日、ついにそれを実行する時が来た。
それは――
「方陣によって騎兵突撃を減退させ、敵を消耗させる」
騎兵対策の模範とされる方陣戦法を、レオンハルトは飾り気なく適用した。奇策も妙手もない、戦術としては王道そのものだ。
しかし、だからこそ揺るがなかった。
再編を終えた騎兵軍が、四度目となる突撃を敢行する。
その兵力は、これまでの三個軍団の寄せ集めにすぎず、馬も騎兵もすでに著しく消耗していた。突撃の速度は鈍り、度重なる疾走で荒れ果てた地面が、さらに足並みを乱す。
そこへ、砲兵隊から容赦のない砲撃が浴びせられた。
「エリアス、儂が何かとんでもない策で敵の騎兵を打ち負かすと考えておったのではないか?」
図星だった。
猛将として名高いレオンハルトが、華麗で大胆な戦法をもってボレニア騎兵軍を打ち破る――エリアスは、どこかでそれを期待していた。
だが、目の前にあるのは、徹頭徹尾、王道の戦いであった。
「残念ながら、そんなものはない。20年考え続けてきたが、結局、百年も前に騎士王が編み出した方陣しか残らなかった」
接近した騎兵が突撃態勢に入る。
方陣を形成する歩兵たちが一斉に射撃を開始し、銃剣を構えた人の壁が立ち上がった。
「方陣戦法は騎兵対策の基本だ。だが、華々しさはなく、犠牲も多い。だから誰も積極的には用いぬ。対処策として温存され、それゆえに相手も騎兵突撃を捨てきれない」
方陣と騎兵が激突する。
騎兵は果敢に銃剣の生えた人の壁へと突進し、歩兵たちは一丸となってその馬体を迎え撃った。
「敵も王道、我も王道。ならば王道同士、根競べするほかあるまい」
やがて、騎兵隊は方陣を突破できなくなった。
馬の消耗、騎兵の脱落、小銃の連射性能、そして規律によってその場に踏みとどまる歩兵たち――それらが積み重なった帰結として、騎兵突撃は幾重にも連なる方陣の砦の前で、その歩みを完全に止められた。
「いいか、エリアス。兵士たちは、儂が指揮官だから命を捨てるのだ。儂は元帥の地位と、兵士たちの信頼や羨望を利用して、命を懸けろと命じている。これは、儂にしかできぬ……いや、儂で最後にせねばならんことだ!」
その姿には、勝ち戦に臨む将軍の昂揚はなかった。
栄誉ある元帥の威厳とも違う。
エリアスの目に映ったのは、この瞬間を20年以上待ち続け、誰の制約も受けず、自らの裁量で戦い、多くの兵士の屍を積み上げてきた――一人の大罪人の姿であった。
レオンハルトは、ここぞとばかりに檄を飛ばす。
「一瞬のためだけに研ぎ澄まされた刃は鋭い!だが、一度や二度振るっただけで刃こぼれするようでは、鈍らの鉄塊にも及ばん!」
騎士王戦争において騎兵の絶対的優位は崩れ、ボレニア戦争によって対騎兵戦術は完成し、実戦で証明された――後の軍事戦略家はそう記した。
その後も騎兵が戦場から姿を消す技術的・戦術的要因は生まれるが、レオンハルト・ブラント元帥の名は、「騎兵の滅亡」を語るうえで、決して避けて通れぬものとなった。
かくして『グラドロッサの戦い』は、ボレニア騎兵軍の自壊と、レオンハルト率いるローゼンベルク軍の規律と忍耐によって、その勝敗が決した。
騎兵軍としての組織的戦闘力を失ったゲオルグは、軍を反転させ、首都ボヘリクへと退却の途につく。この決断は、彼自身の独断というよりも、側近たちの進言――否、圧力とも言うべき提言によって導き出された英断であった。彼らは著しく消耗した軍馬に休息と補給を与えつつ、秩序を保ったまま戦場を離脱し、敗走したのである。
一方、レオンハルトは負傷兵の収容と部隊の再編を終えると、間を置かずゲオルグ軍の追撃に移行した。その途上、副官エリアスに対し、次のように語ったと伝えられている。
「騎兵の時代は終わった。彼らは華々しい正面突撃という名誉を捨て、別の道を模索せねば、もはや生き残ることはできぬだろう」
そして、しばしの沈黙の後、さらに続けた。
「エリアス・フォン・シュトラウセン。聡い貴様は、儂のような指揮官になるな。新しい時代の、新しい戦場で、良き指揮官となれ。名誉や名声に飾られた将軍でなくとも、良き指揮官にはなれるのだ」
それは、名参謀ヘルマンの息子へと贈られた、戦場の猛将レオンハルト・ブラントの言葉であり、後にエリアスの生涯を決定づけた訓戒であったとされている。




