第5章:待っていた、この時を④
ボレニア戦争の一戦『ザールマルク国境線の戦い』でも、ボレニア騎兵軍の攻撃によって戦端が開かれたと記録されている。
モルゲンフェルス男爵は少なからぬ数の偵察騎兵を繰り出し、アーデルハイトの所在、ザールマルク軍の配置、さらには塹壕線の規模を探るため、数日を費やした。しかし、塹壕陣地は予想をはるかに上回る規模を誇り、その末端に至るまで重厚な戦力が配置されていた。陣地を迂回しての後背強襲は困難であり、たとえ騎兵の機動力をもって迂回自体が可能であったとしても、大規模な騎兵軍であるモルゲンフェルス隊では行動が察知される。そうなれば、どの地点から攻撃を仕掛けても状況に大差はない――彼はそう判断した。
念入りな偵察と情報収集が無駄に終わらなかったのは、ザールマルク軍の主配置地域を把握できたこと、そして長大な塹壕線では、たとえ精鋭の連合軍であっても戦力を分散せざるを得ないという確信を得られた点にあった。
偵察任務において陣地へ接近するたび塹壕からの応射を受け、ついにアーデルハイトの正確な所在を掴むことはできなかった。しかし、ローゼンベルク・ザールマルク連合軍が構築した陣地障害には強弱の差があり、防御の薄い箇所とザールマルク軍の配置地点が重なる地点が存在していた。モルゲンフェルスはそこに狙いを定め、騎兵突撃を命じる。
自軍が危機に陥れば、アーデルハイトは自らその戦線へ姿を現す。探し出すよりも、誘い出す方が容易――そう判断しての決断であった。
モルゲンフェルスの指揮する騎兵軍は6千。そのうち4千を先発として突撃させ、彼自身が率いる残る2千は、突破口が開かれ次第、そこから侵入するという作戦である。
戦力の分散は軍事作戦において愚策と評されがちだが、限られた攻撃正面に一度に大部隊を投入すれば混雑して機動力を失う。また、彼らの戦略目標はあくまでアーデルハイトの確保にあり、防御線を突破できる箇所が生じてから本命を送り込んでも任務は果たせると考えた末の配置だった。
つまり、先発の4千騎は防御陣地を崩すという目的さえ果たせるなら、どれほどの損害を被ろうと構わない。最終的にアーデルハイトを捜索・確保し、後方へ退避するための戦力が残っていれば、それで十分だったのである。
この戦力分散は、彼の想定とは異なる形ではあったが、結果として彼の命を救うことになる。その事実を、モルゲンフェルスは後になって知り、胸を撫で下ろすことになる。
「突撃は順調なはずなのに……何でしょう、この違和感は」
先発した騎兵隊は連合軍の応射を受けつつも、防御線が長大であるがゆえに砲撃も銃撃も火力密度は低く、突撃を粉砕するほどの威力には至っていなかった。想定よりも軽微な損害で陣地障害に到達したものの、そこから先へは一向に進めずにいた。
やがて前線から引き返してきた伝令騎兵が、その原因を報告する。
「敵の障害物に阻まれ、前進できません!」
「見れば分かります。ですが、あの程度の木杭や柵でしょう?なぜそこまで手間取るのです。壊せぬなら馬で飛び越えれば良いものを……まったく愚かな」
嫌味の混じったモルゲンフェルスの口調に、側近たちは顔を歪めたが、彼の言葉自体は決して的外れではなかった。
「鉄線です!妙な鉄線が幾重にも絡まり、馬の脚が取られて前へ進めないのです!」
「……鉄線?」
陣地から距離を置くモルゲンフェルスらの位置からは見えなかったが、防御線前面には、報告の通り鉄線が茨のごとく張り巡らされ、騎兵の行く手を阻んでいた。
これこそが、後に戦争の常識と様相を一変させることになる――『有刺鉄線』が、実戦で初めて投入された事例である。
「なんだ、これ?」
ヴィルヘルムへの有能さを示す一環として、アーデルハイトは彼と側近たちをザールマルク産業の中枢、工業地帯の一角にある軍需工場へ案内していた。自領の工業力を誇示するための視察である。
その最中、ジークハルトはこれまで目にしたことのない工業製品の数々に興味を示し、視察そのものも十分に楽しんでいたが、彼の目を最も引いたのは、工場の外周に張り巡らされた“鉄線の柵”であった。
その疑問を向けられ、アーデルハイトはやや気まずそうに、その正体と経緯を語り始めた。
それは製品加工の過程で生じた、長さの不揃いな鉄線を繋ぎ合わせた余り物に過ぎない。本来であれば再加工もされず放置されるそれらだが、森林資源に乏しいザールマルクでは、一般的な木柵を設置するにも相応のコストがかかる。かといって鉄線を再加工する方が、手間も費用もかさむ。その結果、使い道のない鉄線を簡易的な柵として流用することになったのだという。
繋ぎ目はささくれ立ち、見た目はまるで茨の棘のようであることから、『有刺鉄線』などと半ば嘲笑気味に呼ばれているらしい。優れた工業力を示したかったアーデルハイトにとって、製造過程で出た廃材を、資源が乏しいからという理由だけで柵代わりに使っている事実は、いかにも貧相で恥ずかしいものだった。
しかし、ジークハルトの見方は異なっていた。
彼はこれとよく似たものを、故郷で見た記憶があったのである。同行していた同郷の友、ハンスにもそれを示した。
「“バラ線”みたいだな」
「やっぱり、ハンスもそう思うよな?」
「バラ線?」
要領を得ていないヴィルヘルムたちに、ジークハルトは自らの故郷――王国東部に自生するバラ科の植物について語った。
それは長いつるを地面や木の幹に絡ませて伸びる植物で、ローゼンベルクの名の由来となった薔薇とは異なり、特別美しい花を咲かせるわけでもない。むしろ鬱陶しい存在として、特に山に入る者たちから忌み嫌われていた。人も動物も自然とそれを避けて通り、手を出せば痛い目を見る。
彼らはそれを『バラ線』と呼び、「バラ線に絡まる」という、厄介事に巻き込まれることを意味する地方の諺まで存在するほどだった。
その話を踏まえ、ジークハルトはヴィルヘルムに向き直る。
「ヴィルヘルム、これ……使えるかもしれないぞ」
「その鉄線がか?」
「ああ。騎兵除けだ。防御陣地には障害が足りないんだろ?これで代用できる」
ヴィルヘルムはもちろん、生産元であるアーデルハイトでさえ、当初はその有用性を疑っていた。これほど細い鉄線で騎兵を止められるはずがない、と。
しかし、それを幾重にも重ねて前線に張り巡らせることで、馬が突破できそうでいて、実際には突破できない障害を構築できることが判明する。鉄線は大量に余っており調達に苦労はなく、固定に必要なのは木の杭だけという低コストも魅力だった。
その現実的な利点が、ヴィルヘルムに渋々ながらも採用を決断させる理由となり――
こうして、世界で初めて『有刺鉄線』が実戦で導入されることとなった。
「これは……予想外だったな……」
眼前に広がる戦場の有様を見て、ヴィルヘルムは思わず感嘆の声を漏らした。
有刺鉄線に絡め取られた騎兵たちが、必死にそこから抜け出そうともがいている。しかし、幾重にも絡み合う鉄線は容易に解けず、金属であるがゆえにサーベルでも馬上槍でも断ち切ることができない。これまでの戦場では見たことのない光景だった。
本来は、馬の脚に絡みつき、進軍速度を落とせればそれで十分――その程度にしか考えられていなかった。それが、想定を遥かに超える戦果を挙げていたのである。
さらに、有刺鉄線の設置作業は、それに慣れていたザールマルクの兵士たちの方が円滑に進み、結果として彼らが配置されていた陣地周辺には、有刺鉄線を中心とした障害帯が重点的に構築されていた。有刺鉄線自体は細く、遠目には全容を捉えにくい。そのため、様々な要因が重なり、最も防御が薄いと侮られていたザールマルク軍の配置陣地こそが、この戦場で最も騎兵に対して強固な地点となっていた――皮肉な結果であった。
そして、一度動きを止め、機動力と突破力を完全に失った騎兵など、もはや格好の的に過ぎない。
塹壕に籠る歩兵たちは次々と銃火を浴びせ、ようやく移動と展開を終えた砲兵による、密度の高い砲撃も始まった。そこで明らかになったのは、有刺鉄線がそれらの砲火に耐え、なお健在であるという事実だった。
木製の柵は砲撃や爆風、小銃弾を受けて次第に破壊されていったが、有刺鉄線はそれらを受け流し、金属ならではの強靭さをもって戦場に残り続けたのである。
「やはり……あいつは、戦場ではこれ以上ないほど優秀だ」
ヴィルヘルムがジークハルトに全幅の信頼を寄せる理由を、アーデルハイトは改めて思い知らされた。
自分たちで作りながらも、再生産の費用対効果が悪いとして、工場の柵代わりにしか用いてこなかった有刺鉄線。その有用性を、これほどまでに突きつけられるとは思っていなかった。先日ヨハンから聞かされた話とも重なり、どこか胸の奥で、自分自身にも通じるものを感じずにはいられなかった。
そのとき、ヴィルヘルムの声が再び弾んだ。
「ほら、来たぞ。やはり、あいつは鼻が利く」
視線の先――ボレニア騎兵軍の後背から、ジークハルト指揮下の特別強襲大隊が姿を現していた。敵に察知されぬよう大きく迂回し、潜伏し、好機を逃さず一気に仕掛ける。恐るべき強襲能力。それこそが、彼の真骨頂であった。
「しっかり騎乗の練習をした甲斐があったな、ジークハルト」
そして、その能力に“騎兵としての機動力”が加わった今、この戦場において、機動力や展開力で彼らに比肩する者は、もはや存在しなかった。
「奇襲です!後背から敵騎兵が!」
「ならば退却する。総員、隊列を崩して散開しなさい」
モルゲンフェルスは突如として背後を衝かれ、不意を突かれた。彼は自らの存在を敵に特定させぬため、部隊を分散させ、攻撃目標を絞らせないよう努める。
この判断は、結果としてモルゲンフェルス自身の生存には寄与した。しかし同時に、分散した各部隊が、ジークハルト率いる強襲部隊によって次々と各個撃破される事態を招くことにもなった。
しかも、迫る脅威は背後のジークハルトだけではなかった。
「カール突撃騎兵隊!俺に続け!」
防御陣地から飛び出したカールの騎兵隊が側面から突入し、挟撃を完成させる。これにより、モルゲンフェルスの騎兵軍は急速に消耗していった。
敵重要目標を狙うジークハルトの後背強襲、そしてカールの騎兵隊による執拗な追撃。いずれも、彼らが士官学校時代、シュトラウセン志塾の図上演習で得意としてきた戦法であり、その完成度の高さは、目の前に積み上がる戦果が如実に物語っていた。
モルゲンフェルスは辛うじて戦場からの離脱に成功したものの、与えられていた騎兵軍の大半をこの地で失った。もはや、ローゼンベルク・ザールマルク連合軍に対して攻勢をかける力は残されていなかった。
そして、その後の退却行においても、カールの騎兵隊による執拗な追撃は続き、モルゲンフェルスらを苦しめることになるのである。
「では、当面の邪魔者も排したことだ。次の段階に移るとしよう」
戦局を読み切り、満足げにそう告げたヴィルヘルムは、参謀局長ヘルマンと、彼の配下で兵站分野の責任者を務めるソフィアへと視線を向け、次なる作戦行動の発動を命じた。
「補給を完了次第、進軍態勢を整えろ。目標は――ボレニア侯国首都ボヘリクだ」
命を受けた二人は即座に動いた。各自が指揮下の部署へ指示を伝達し、前線司令部はみるみるうちに攻勢準備の色を濃くしていく。
そこにあったのは、組織を信頼し、また自らの役割を全うする配下を信頼し切って仕事を委ねる、ヴィルヘルムという指揮官の器量そのものであった。
「――雷鳴王――」
アーデルハイトの呟きは、活気と喧騒に満ちた前線司令部の空気の中に溶けて消えた。その異名に相応しい姿を、これほど間近で目にしたことへの純粋な感動が、胸の内に広がっていたのだ。
それは、自分には決して真似のできない軍事的手腕だった。
だが同時に、彼女は理解していた。それがヴィルヘルム一人の力によって成し遂げられたものではないということを。部下の実力と適性を見抜き、相応しい任務と責務を与え、そして何よりも自らの選択と配下たちを信じ抜いたからこそ、この大業は形になったのだ。
もし、自分がその隣に立つとしたら――どのような形で彼を支えることができるのだろうか。
戦勝の余韻に酔うこともなく、粛々と次なる行動へ移っていく軍の躍動を見つめながら、アーデルハイトは静かに、自身の在り方を見つめ直していた。




