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第5章:待っていた、この時を③

「なかなか来ないな」


「敵にも慎重で有能な指揮官がいるのだろうな」


 防御陣地は小高い丘の上に構築されていた。わずかながらも確かな高低差は、馬の進軍を確実に鈍らせる。その丘の中でも特に見晴らしの利く地点に前線司令部が置かれ、総司令官ヴィルヘルムと、別働任務を命じられているジークハルトが並んで敵情を観察していた。


 当初の作戦では、ジークハルトは別の位置で待機する予定だった。しかし敵の偵察騎兵による索敵網は予想以上に密で、陣地外に潜伏することは困難だった。そのため彼は早々に判断を下し、ヴィルヘルムのもとへ戻ってきたのである。


「騎兵の機動力は偵察、索敵、伝令において歩兵の比ではない」


「騎兵全員がカールみたいな突撃馬鹿ってわけじゃねえ、ってことだな。あいつは野生の勘というか、戦闘センスだけでやってのけるが」


「お前も似たようなものだ」


「それ、褒めてる?」


「さてな」


 戦場であり、なおかつ身分と立場の隔たりがあるにもかかわらず、気安い軽口を交わす二人。その姿を見て、アーデルハイトは理解した。ヴィルヘルムが最も信頼を置く腹心は、ジークハルトなのだと。


 その対応の違いは、彼が誰に最大限の信頼を寄せているかを如実に示していた。そして同時に、アーデルハイト自身がどの位置に置かれているのかを、否応なく意識させるものでもあった。


「もっとも、敵も時間を費やすことが不利になるのは理解しているはずだ。我々には、最悪、ブラント元帥の戦勝を待つ余裕がある。そうでなくとも、騎兵相手に防勢を取る方が結果的に有利だ」


「だな。そのうち突っ込んで来るさ。じゃあ俺は、当初の予定通り待機でいいか?」


「ああ。機を見て、作戦行動に移れ」


「大胆にな」


「そして慎重に」


「はいよ」


 終始軽い口調ではあったが、彼らが語っているのは互いの命を賭ける選択だった。その意思疎通の確かさと、揺るぎない信頼関係に、アーデルハイトは思わず羨望を覚えてしまう。


「……彼を、深く信頼されているのですね」


 そんな言葉が口をついて出たのは、ほんのわずかな感情の漏れだった。自分でも驚くほど、自然に。


「こと戦場において、ジークハルト以上に鼻の利く男はいない。彼は――狼だ」


 そう語るヴィルヘルムの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。その表情を目にするのは、アーデルハイトにとって初めてのことだった。雷鳴王と畏れられる男にも、こんな人間らしい一面があるのかと、不意に感じてしまう。


「その信頼ゆえに、彼に最も重要で、最も危険な作戦を任せたのですか?」


 それは確認というより、非難に近かった。ジークハルトには危険で要となる任務が与えられ、一方のアーデルハイトは総司令官の側で、信頼厚いヨハン・リッテンベルク大尉の護衛付きという、最も安全な位置に置かれている。


 ザールマルク軍の指揮は年の離れた従兄マルティン将軍に一任され、結果としてアーデルハイトはこの戦場で重要な役割を一切担っていなかった。それはすなわち、己の有用性をヴィルヘルムに示す機会を失ったということだ。その事実が、何よりも不服だった。


 ヴィルヘルムは彼女の言葉に込められた含意を察しつつも、気遣う様子を見せることなく、きっぱりと言い切った。


「私は常に、能力と適性を基準に任務を与える。身分や私的な関係が介入する余地はない。ジークハルトにその任を与えたのは、この戦いにおいて彼が最も適任だったからだ。そしてアーデルハイト嬢を前線司令部付きとしたのも、それが最適だと判断したまでのことだ」


 その言葉の端々には、どこか突き放すような響きがあった。これ以上語ることはない――そう告げるかのように踵を返し、ヴィルヘルムはヘルマンが統括する参謀局の様子を見に行った。


 その場に残されたのは、アーデルハイトと、護衛として控えるヨハンだけだった。


「……アーデルハイト様」


「私は、陛下からは必要とされない人間なのですね」


 その声には、悔しさと無念、そしてわずかな怒りが混じっていた。傍らに控えるヨハンの位置から表情を窺うことはできないが、涙を堪えていても不思議ではない声色だった。ヨハンはその空気をいたたまれなく感じ、場を取り繕うため、そしてヴィルヘルムとの関わりがまだ浅く、彼の気質を十分に理解していないアーデルハイトへの弁明として、護衛の立場としてはやや踏み込みすぎた言葉を口にした。


「アーデルハイト様。実は私は、元々歩兵科の士官でございました。しかし、ノッセル回廊でも、王位継承争いでも、そして此度の戦でも、私は歩兵隊を率いて戦ってはおりません。それは、私が凡庸な人間であるからです。ミュラー大尉のように武芸と勇気で部下の先頭に立てるわけでもなく、グルーバー大尉のように統率力と人望を兼ね備えているわけでもありません」


 彼はまだ21歳でありながら、大尉という年齢と役目に対して分不相応とも言われかねない高い階級を与えられていた。しかしそれが、ヴィルヘルムの同情混じりの温情でも、同期と足並みを揃えるための形式的な昇進でもないことを、彼は幸運にも理解していた。


「私はヴィルヘルム陛下のお側に仕え、伝令や情報処理、副官に近い職務を全うして参りました。特別な才覚を持たぬ私にできるのは、それだけだったのです」


「……私には、貴方が陛下から厚い信頼を寄せられているように見えます」


「もしそうであるなら、恐悦至極にございます。陛下が、私のような者の働きまで見てくださっているということなのですから」


 そう言って、ヨハンは言葉を続けた。


「アーデルハイト様にも、アーデルハイト様に最も適したお役目があると、お考えになられているのではないでしょうか」


「私はザールマルク家の次期当主です。自軍の指揮も執れぬ当主など……」


「ヴィルヘルム陛下は、王国において貴族制の廃止を断行されました。それは、義務と役目を果たさぬ貴族から特権を剥奪する改革であると同時に、貴族という身分から“果たさねばならぬ義務”そのものを取り除いたとも言えるのではないかと、私は思うのです」


 そしてヨハンは、その改革によって自らの身に起こった――否、救われた出来事を語り始めた。


「私も元は貴族でした。兄がおりましたが、共和国との戦争で戦死し、私は次期当主となる立場になりました。そのため、軍人に志願したのです。しかし、私には軍人としての才覚はなく、家名を背負って生きていけるほど立派な男でもありませんでした」


 己の器を正しく理解していたヨハンは、貴族制廃止を機に、名から貴族位を示す『フォン』を取り除いた。それは伝統と名誉を捨てる行為であると同時に、生まれながらの立場から解き放たれ、ただの『ヨハン・リッテンベルク』として生きることを選ぶ行為でもあった。


「アーデルハイト様のお心の中には、多くの責務やお考えがおありでしょう。しかし、どうかそれだけに縛られぬあり方で、ご自身の証を示されてはいかがでしょうか」


「……貴方は、私よりもずっとしっかりした考えをお持ちなのですね」


 ハンカチを目元に当てるアーデルハイトを見つめながら、ヨハンはその評価が過大であることを指摘した。


「いいえ。私は浅学非才の、凡庸な人間にございます。ただ――だからこそ、自分の身の程を理解できたのかもしれません」


 ヴィルヘルムはその鋭い観察眼によって、アーデルハイトに軍事的適性がないことを見抜いていた。そして、生まれながらに課された境遇と使命を必死に全うしようとし、自己を犠牲にして努力を重ねるその姿を、どこか痛々しく捉えていたのだ。


 もし彼女が、自身に向いたことだけに専念できる人生を歩めたなら。もし血統や責務を守るために、自分自身を差し出すような自己犠牲を是としないで済んだなら――ヴィルヘルムは迷うことなく彼女を配下に加え、その能力を存分に活かす道を与えていたに違いない。


 彼の態度は、その仮定が無意味であると理解する冷徹さと、それでも叶うならばその道を選ばせてやりたいという我儘とが混ざり合った、不器用な意志表現だった。


 雷鳴王が言葉と行動で示すその心が、存外人間臭いものであるとアーデルハイトが気づくには、もうしばらく彼と時間を重ねる必要があった。


 幸か不幸か、ここは人間の本性と意志が否応なく露わになる戦場である。戦場を共にした者同士は、その濃密な時間ゆえに、本来必要とされるはずの年月を大きく短縮してしまう。地獄と見紛うこの場所で、もし一輪の花を見出すとするなら――それこそが、その奇跡なのだろう。

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