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第5章:待っていた、この時を②

 『グラドロッサの戦い』より数日前、ボレニア侯国とザールマルク伯爵領の国境地帯でも、二つの軍勢が対峙していた。


 一方は、騎兵軍の一部を与えられたモルゲンフェルス男爵が率いるボレニア軍。


 もう一方は、塹壕と障害物によって構築された防御陣地に布陣する、ローゼンベルク・ザールマルク連合軍であった。


「ふむ、初手から陣地戦ですか。少々読みが外れましたね」


 ボレニア騎兵軍の別働隊を託されたディートリヒ・フォン・モルゲンフェルスは、国境線に沿って築かれた敵陣を眺めながら、事前に立てていた作戦との誤差を計算し、即座に修正を加えていた。


「情報では攻勢に出ると見ていましたが……騎兵相手では分が悪いと判断し、急遽守勢に転じたのでしょう。事前構築にしては、陣地の完成度がやや甘い」


 連合軍の陣地は、主に塹壕を基幹とし、前面に木杭や柵を設けて騎兵の突入を阻む構造となっていた。防御線は国境に沿って横に長く伸びているが、縦深はそれほど厚くないことが、偵察騎兵の報告から判明している。


「であれば、一点に騎兵を集中させるべきでしょう。防御線を突破できれば、あとは機動力を活かして後背を衝き、攪乱する。理想を言えば殲滅戦ですが……少々強引ですね」


「しかし男爵閣下。侯爵様からは、防衛に専念せよとの命令が――」


 命令を改めて口にした側近に、モルゲンフェルスは眉をひそめ、不快感を露わにした。


「貴方は愚かですか?騎兵が守勢に徹するなど、愚の骨頂です。機動力も突破力も捨てて、何ができるというのです。相手は陣地に籠って防御の構え。時間を与えれば、利するのは敵だけです」


 モルゲンフェルスは、軍事的才覚においてボレニア侯国でも指折りの実力者であり、その戦局分析は概ね合理的だった。無能者の類では断じてない。


「それに、時間をかければ侯爵閣下の本隊がこちらに合流してしまう。それでは、今後が些か面倒になる」


 彼は軍事的能力だけでなく、政治的分析力と野心をも併せ持つ人物だった。自軍のみの力で連合軍を撃破し、ザールマルクの支配権を独占する――その野望を胸中に秘めていたのである。


「とはいえ、敵は塹壕と防御陣地を備え、完全に守りの態勢です。それに、相手はあの“雷鳴王”……」


 ヴィルヘルムの軍事的手腕は他国にも広く知られており、彼が直々に指揮を執っていることも、事前の情報で把握されていた。その名が示す通り、幕僚たちの胸には警戒と不安が広がっている。


 モルゲンフェルスも決して彼を侮ってはいなかった。短期間で数々の行動を成功に導き、レオンハルトと連動して戦線を分け、敵戦力を分散させる――その戦略的発想は、確かな才覚の証である。


 だからこそ、彼はそれを正面から受け止めるのではなく、より効果的に屈服させる手段を選んでいた。


「ザールマルク軍が防衛を担当している区画を、集中的に攻撃します」


「敵の弱点を突く、ということですか?」


「それもありますが、本命は別です。ザールマルク軍の指揮を執っていると思われる、伯爵令嬢アーデルハイト――彼女の確保です。最優先目標とします。いいですね?」


「……そこまで重要な人物なのですか?」


 開戦準備の段階から、モルゲンフェルスが彼女の身柄確保を最優先事項としていたことに、側近たちは疑念を抱いていた。その執着の理由が理解できなかったのである。


「ええ。戦況を動かすためにも、将来的にザールマルクを従えるためにも、彼女の存在は極めて都合がいい」


「戦況を……彼女一人で?」


「やはり愚かですね。これから支配しようという相手について、何の下調べもせず、将来の展望も持たないとは」


 嘲るような口調に、側近たちは内心で反発を覚えたが、モルゲンフェルスは淡々と続けた。


「ザールマルク一族、そしてその民が最も健気で、最も愚かな点――それは“血統に対する絶対的信仰”です」


 彼は、政治的野心だけでなく、それを達成するための周到な分析を怠らない人物だった。アーデルハイトという直系の血統が、彼らにとって何より尊重される存在であることを、正確に理解していた。


 伯爵家を継ぐ資格を持ち、なおかつ適任と目される人物が他にもいるにもかかわらず、一族が高齢のフェルディナントに直系の子を残すことを強く求めたのはなぜか。それは彼らが、“血統の直線性”こそを何よりも重んじる哲学に縛られていたからに他ならない。


 ザールマルク伯爵家は、騎士王戦争後に爵位と領地を与えられた、いわば新興貴族に過ぎない。彼らがそれらを獲得できたのは、戦争終結直後、荒廃したその地の復興に誰よりも早く乗り出したからであり、「ザールマルク」という家名もまた、その過程で得られたものであった。歴史の厚みに乏しい彼らにとって、一族を結びつける拠り所となったのが血統である。わずか一世紀半ほどのザールマルクの歴史において、直系であることは、何よりも信頼に足る特性だったのだ。


 ゆえに、高齢で引退を迫られても不思議ではないフェルディナントが長く当主の座に留まり続けたことも、彼の甥でありアーデルハイトの年の離れた従兄にあたる人物が、ザールマルク軍の実質的な指揮官でありながら、若きアーデルハイト主導の改革を素直に受け入れたことも、すべては直系の血統に対する彼らの揺るぎない信頼に基づくものであった。


「つまり、彼女を掌中に収めれば、彼らは逆らえなくなる」


「……そこまで思惑通りに進むでしょうか?」


「それは、やってみなければ分かりません。しかし雷鳴王と正面から戦うより、戦力的に劣るザールマルク軍を崩す方が容易い。彼女を利用できれば、彼らは抵抗力を失い、彼女の安否を盾にローゼンベルク軍と戦わせることも可能でしょう」


 モルゲンフェルスは冷淡に言い切った。


「仮にそうならずとも、彼女が直系である事実は、使い道に困りません。幸い、若い女性だ。将来に向けて、いかようにも」


 その言葉に、側近たちは背筋に冷たいものを覚えた。


 しかし同時に、この男に従えば得られるであろう利益と恩恵を、否定できずにいたのも事実だった。


「では、攻撃準備を。死にたくなければ、必死でザールマルク軍の配置と、アーデルハイトの所在を探りなさい」

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