第5章:待っていた、この時を①
ボレニア侯国の軍事戦力は、ほとんどが騎兵で構成されていた。そのため、彼らは自軍を『ボレニア騎兵軍』と呼称していた。軍隊をほぼ一兵科だけで編成するという極端な偏りは、通常の国家では考えにくい。軍はあらゆる状況に対応し、困難を克服しつつ作戦を遂行することが求められるからである。しかし、ボレニア軍がここまで偏った編成をとった背景には、帝国内での政治的制約、豊かな資源、そして騎兵に対する神話的な信奉が複合的に関わっていた。
ボレニア侯国は正統ルガルディア帝国の構成国の一つである。だが、その帝国では、軍事力の強化や軍事への熱意は、帝国内の安定や均衡を乱すものとみなされ、軍事に後ろ向きな風潮が強かった。帝国の成立は騎士王という外部の強力な侵略者によるものだったが、百年を経て成熟した国家連合体は、内部の平穏維持にのみ注力する寄り合いに成り下がっていた。その結果、帝国の軍事的尖兵であるローゼンベルク王国は、かつてほど構成国から頼られず、むしろ平穏を望む国々にとって脅威となる存在にまで変質してしまった。
そのローゼンベルクを抑える役割を担ったのが、グラウエンシュタインとボレニアである。しかし、そこにも軍事的制約は存在した。「ローゼンベルクを抑えてくれるのはありがたいが、だからといって軍事力を増強してよいわけではない」という制約である。
それでも、ボレニアは資源豊かな地勢を享受しており、財や資源の多くをコストのかかる兵科に集中させることが可能だった。こうして選ばれたのが、全て騎兵で構成される軍隊である。馬の育成・維持・訓練には膨大な労力と費用がかかるが、ボレニアは軍事費の大部分を注ぎ込んでも十分に余裕があった。結果として、騎兵5万という異例の戦力を擁することができ、額面上の兵力としても「5万人の軍」と誤認されるほどだった。
ボレニアが最初から騎兵に全力を注ぐ冒険家気質を持っていたわけではない。しかし、グラウエンシュタイン継承戦争での一幕が、強烈な成功体験をもたらした。ボレニアはローゼンベルクと戦う立場にあったが、軍事力では劣っていた。戦場での勝率は三戦して一度勝てば上出来という状況である。そのわずかな勝利をもぎ取ったのが騎兵隊だった。
彼らの駆る馬は、人間の体重の10倍近くを誇り、走行速度は人間の3倍に達する。この質量と速度の組み合わせにより生まれる衝撃力は、歩兵や軽装備部隊では太刀打ちできない破壊力を発揮した。銃器の発達によって絶対的優位は失われたが、銃器には射程や連射制限があり、戦闘終盤には近接戦が避けられない場面も多かった。そのため、騎兵の戦術的優位はなお健在であった。
こうした社会的事情と国家の地理的・経済的土壌、そして希少な成功体験により、ボレニアは騎兵5万を擁する強力な機動戦闘部隊を生み出した。さらに、騎兵は貴族や戦士階級に限定されていたため、国民と軍を完全に分離できた。その結果、民衆は騎兵への信頼と尊敬を抱き、従順な国民性を獲得した。一方、騎兵は“選ばれた者”として誇りを持ち、職務を忠実に遂行することで、侯爵への忠誠心と国家権力の安定を支えることになった。民衆は戦争に駆り出される心配がなくなり、労働や生産に専念でき、豊かな土地はさらなる富をもたらした。
しかし、この騎兵軍は、ボレニア侯爵ゲオルグの積年の恨みを晴らすために育てられたものであった。ローゼンベルクとの戦争という絶好の機会を前に、ゲオルグはグラウエンシュタインらの介入を排し、自らの最強騎兵軍団でローゼンベルク軍を打ち破る状況を心から喜んでいた。
「待っていたぞ…この時を!」
ローゼンベルクとボレニアの国境地帯。かつて全てボレニア領だった『グラドロッサ平原』に布陣する両軍の陣容を目にし、ゲオルグの胸は期待と興奮で高鳴った。
「やっとだ…やっと、決着をつけられるぞ、ブラント!!」
宿敵レオンハルトの名を叫ぶ声には怒りも憎しみも混じっていた。その名前、その姿、その声の一つ一つを、ゲオルグは決して忘れたことはなかった。
「やはり、奴か……」
敵陣を見据えるレオンハルトの表情には、どこか得心した色が浮かんでいた。
「敵将に、お心当たりが?」
エリアスの問いかけに、レオンハルトは遠い昔を語るように口を開いた。
「奴とは、グラウエンシュタイン継承戦争の折に一度だけ刃を交えている。勇敢にも騎兵突撃を敢行してきてな。こちらの戦列歩兵を突破し、指揮官であった儂の目前にまで迫ったことがあった」
「それは……極めて危機的な状況でございますね」
「だが、突撃は失敗した。率いていた部隊は悉く潰走、いや、全滅だ。混戦の末、ほとんど一騎打ちのような形になり、奴は儂を討ち損ね、代わりに額に一太刀を受けた」
その時の光景を、レオンハルトは今も鮮明に覚えている。戦列を踏み越えて突入してきた騎兵隊、その先頭に立つ若武者の鬼気迫る形相。指揮官が佩くサーベルを、実戦で本当に振るったのはあれが初めてだった。振り下ろされる槍を捌き、踏み込んで斬りつけた一瞬は、後にローゼンベルク軍の逸話として語り継がれることになる。
「それきり顔を合わせることはなかったが……伝え聞くところによれば、あれがよほど許せなかったらしい。随分と恨まれたようだ」
額を裂いて帰還したゲオルグは、表向きには勇者と称えられた。しかし陰での評価は、決して芳しいものではなかった。
戦列歩兵を主力とするローゼンベルク軍に対抗し得る兵科は騎兵のみ。その切り札を、侯爵家の跡取りという立場だけで任され、挙げ句に全滅させて一人戻ってきた――それが彼に向けられた率直な評価である。
功名心に囚われ、無謀な突撃を行い、部隊を無駄死にさせた愚か者。包帯に覆われた顔を見て、「あの丸顔が隠れている分、まだ見られる」と囁かれた陰口も、ゲオルグの心を深く刺した。
彼は己の容貌を理由に侮られることを、何よりも憎んでいた。だが、その怒りを身内に向けることはできなかった。評価に不満はあれど、行ったことは紛れもない事実であり、冷静さを欠いていたのも己の性格に由来する。弁解の余地はなかったのである。
ゆえに、事後評価そのものは妥当だった。
それでも、怒りの行き場を求めずにはいられなかった。その矛先として選ばれたのが、レオンハルトであった。
同じ戦場に立ちながら、評価は正反対だった。騎兵隊を殲滅し、敵将に一太刀浴びせた英雄レオンハルト。無謀な突撃の末に部隊を失い、一人帰還したゲオルグ。
戦果を認められ、公爵位にまで上り詰めた敵将。自らは敵指揮官の目前にまで迫ったにもかかわらず、結果として指揮下の歩兵部隊を壊滅させられたはずのレオンハルトの方が高く評価されたことに、ゲオルグはどうしても納得できなかった。
当のレオンハルトは、この戦いを誇ることもなく、数ある戦歴の一つとしてしか記憶していなかった。それに対し、ゲオルグは異様なまでの執念と執着を育てていった。
執着される側にとっては些細な出来事でも、執着する側の人生を歪める契機となることはある。ゲオルグはその光景を巨大な絵画として残し、20年以上にわたり、毎日それを眺め続けた。レオンハルトへの執念が薄れることは、ついになかった。
「閣下は、よく人に憎まれますね」
一連の話を聞き終えた副官エリアスは、先王フリードリヒ2世のみならず、敵将ゲオルグにまで忌み嫌われる宿命にある司令官を、どこか冷ややかな目で見た。
「ですが……それにしても異常です。今時、あのような騎兵は」
エリアスが指したのは、ゲオルグの率いる騎兵軍の装いだった。金属甲冑に兜、主武装は銃ではなく馬上槍。まるで騎士王戦争以前の時代を再現したかのようである。
「確かに古風だ。しかし、騎兵の強みを突き詰めれば、決して侮れん」
レオンハルトは実戦を通じて、騎兵の恐ろしさを知り尽くしていた。
人馬一体の突撃は、歩兵では受け止めきれない威力を持つ。射撃で迎え撃てたとしても、次弾装填の隙に距離を詰められれば、白兵戦で蹂躙される。迫り来る馬体の威圧感は想像を超え、恐怖を抑え込むことは容易ではない。
銃の発達により騎兵も銃を携えるようにはなったが、馬上で扱うには銃身を短くするなどの工夫が必要だった。それでも装填の手間が機動力を殺すと考える者は多く、当時でさえ槍やサーベルを装備した騎兵は珍しくなかった。
「ゲオルグの場合……儂との因縁に決着をつけるため、あえてそうしているのだろう」
過去に縛られることを、レオンハルトは愚かだと感じていた。だが同時に――その執念こそが、レオンハルトにとっての勝機を見いだす隙でもあると理解していた。
後に、このローゼンベルク王国とボレニア侯国との間で勃発した戦争は『ボレニア戦争』と呼ばれることになる。そして、その戦端を切ったのが、『グラドロッサの戦い』におけるレオンハルトとゲオルグの激突であった。
「第1騎兵軍団、前進!」
ゲオルグの号令とともに、騎兵の一団が動き出す。その数は8千。これほど大規模な騎兵突撃は、騎士王戦争の全盛期ですら滅多に見られないものだった。
「ブラント司令官、敵軍が動き始めました。威力偵察と呼ぶには些か大軍です」
「承知した。各砲兵隊、砲撃開始。敵の先頭を叩け」
レオンハルトの命令は即座に伝達され、後方に控える砲兵隊が第一斉射を放った。砲弾は前線の歩兵の頭上を越え、前進する騎兵第一集団の眼前に着弾する。爆音とともに土煙が巻き上がり、驚いた馬たちが前脚を跳ね上げた。
どれほど精強な騎兵であろうと、操るのは人であり、乗るのは生き物である。砲撃と爆発音は生理的恐怖を引き起こし、隊列は乱れ、逃げ出す馬も現れた。しかし、それだけで突撃を止めるには至らない。前線まで距離がある間、砲兵は最大限の支援射撃を続ける。
修正射と効力射が混じる砲撃の中で、騎兵は少しずつ、しかし確実に数を減らしていった。だが距離が詰まるにつれ、騎兵たちは歩みを速める。
「速歩!速度を上げろ!」
それまで秩序を保っていた一団は、馬ならではの速度で一気に間合いを詰め始めた。その勢いは先ほどの倍に達する。
迫る騎兵を前に、レオンハルトはようやく前線歩兵へ命令を下す。
「各歩兵大隊、“方陣”を組め!」
前線指揮官たちは命令を受け、約600名の大隊を横隊から密集した箱形へと変形させていく。一辺20mほどの正方形が形成され、各辺には8列の歩兵が銃剣を装着した小銃を構えた。四方に突き出る銃身は、まるで棘を広げたハリネズミのようである。防御が厚い中央部には指揮官が陣取り、部隊を統制する。
これが、対騎兵陣形の典型である『方陣』だった。騎士王戦争の時代に確立されたこの陣形は、現在においても騎兵突撃に対抗する最も基本的な防御手段である。
レオンハルトの軍は、障害物のない平原に人の砦とも言うべき方陣を次々と築き上げた。
「やはり方陣か!騎兵相手にはそれしかあるまい!駈足!」
ゲオルグはその態勢を見て、ほくそ笑んだ。機動力のある騎兵は、突撃の場所や方向を任意に変更できる。その機動力は、横隊を基本とする戦列歩兵にとって、火力を集中させられず、有効な射撃ができないまま全滅する恐れさえある危険な脅威だった。また、横隊では敵騎兵の突撃が成功すれば、そのまま後背を突かれ、帰り際に背後から攻撃を受ける可能性もあった。方陣はその脆弱性をカバーする優れた陣形であり、歩兵たちはそれぞれの辺が分厚い横隊になることで、隙のない防壁を築くことができる。
「歩兵隊、各個に撃ち方始め!」
敵騎兵に面している辺の歩兵たちが引き金を引く。放たれた銃弾は突撃する馬や騎兵に命中し、一部を距離を保ちながら削ることに成功する。
しかし、それでも騎兵の突撃を完全に防ぐことはできなかった。
「襲歩!突っ込め!」
突撃の最終段階に達した騎兵たちは、最高速度で歩兵の方陣へ突入した。その直後に広がるのは、馬に踏み殺される歩兵、馬上槍で貫かれ引き裂かれる歩兵、そして至近距離の射撃や銃剣で突撃を打ち砕かれ、前のめりに馬体や身を投げ出される騎兵たちの乱戦である。
方陣は全方位をカバーできる陣形ではあったが、それは一辺あたりの火力密度を下げる代償を伴う。どんなに密集した陣形でも、それは生身の人間による肉の壁であり、体重が10倍、速度が40km/h以上の馬の突進を完全に防ぐ万能の防壁ではない。
馬たちも本能的に、銃剣を槍のように突き出した人の壁への突入をためらったが、騎兵たちはそれを抑え、馬を道連れにして敵兵へ突進した。
騎兵の突撃と方陣の衝突後に目にするのは、夥しい数の死屍累々の惨状。敵も味方も、人も馬も傷つき、血を流して倒れていた。しかし、騎兵突撃の第一波は司令官レオンハルトが陣取る最奥部には届かず、多大な損失を出しつつも、生き残った騎兵たちは素早く戦場から離脱し、本陣へ戻っていった。
わずか数分の出来事だったが、その結果は両軍に重くのしかかる。互いに決着がついたとは考えず、再び命令が飛んだ。
「第2騎兵軍団、前進!今度こそ陣形を食い破れ!」
「第二波が来るぞ!各大隊、損害を補填しつつ方陣を再編せよ!」
新たな騎兵隊と、態勢を立て直す歩兵たちが再び対峙する。砲兵隊は再度砲撃を開始し、先ほどと同じ光景が繰り返されようとしていた。
「それしかできないのか、ブラント!本当に芸がない!」
「逃げるな、兵士たちよ!儂は諸君らと共にある!」
戦争は、まだ始まったばかりだった。




