第4章:論理と野心の交差点⑥
「ブラント元帥、出発準備が完了いたしました」
ローゼンベルク軍南部方面軍本部。少佐の階級章を肩章に携え、端正な容姿を持つ青年将校エリアスは、仕える上官への出撃準備完了の報告のため、司令官室へと足を踏み入れた。
当の司令官は、一枚の書類に目を落としたまま顎鬚をいじり、にやにやと笑みを浮かべている。その姿を目にして、これが王国軍最高司令官たる元帥のあるべき姿なのかと、エリアスは思わず小さくため息をついた。
レオンハルトは、入室した気配よりも、聞き慣れた副官のため息によって、ようやく彼の存在に気づいた。
「おお、エリアス!準備は万全か?」
「先ほどから、そう申し上げております」
エリアスは内心で「高級将官とは皆このような人物なのか」と、これまで出会ってきた将軍クラスの面々を思い浮かべながら、冷ややかな視線を向けた。
だがレオンハルトは意に介する様子もなく、満足げに読んでいた書類を机の上に置く。
「ところで、何を読まれていたのですか?」
「中央軍から送られてきた指令書だ。些か一方的でな」
「指令書とは元来、そういうものです、閣下」
そう言いながら差し出された書類を受け取り、エリアスも目を通す。副官である以上、中央軍――すなわち軍の最高責任者である国王ヴィルヘルム2世からの命令を把握しておく必要があった。
しかし読み進めるうちに、“一方的”という前評判の意味が、彼の想像とは決定的に異なっていたことに気づき、エリアスは愕然とした。
「これは……」
「一方的と言った意味が分かっただろう?中央軍は自分たちで作戦行動を決めておきながら、こちらにはそれを頭の片隅に置いたまま、“随意に戦え”と言ってきよった」
随意――すなわち、状況に応じて現場の判断に委ねるという意味合いの指令である。それはもはや指令書と呼ぶには、あまりにも“現場任せ”に過ぎた。
「ヴィルヘルム陛下はクロイツェルを王国に返還し、不在中の国政運営の権限をすべて委譲していると聞いていたが……」
「それはあまりにも危険です。即位されて間もないというのに、国を離れ、臣下とはいえ他人に権限を明け渡すなど」
「まったくだ。陛下ご自身の判断だとすれば、実に豪胆だ。仮に周囲の進言を採用した結果だとしても……それはそれで度量を示している。なるほど、確かに名君の器だ」
ヴィルヘルムは、自らがボレニアで軍事行動を取る間、本来国王が握るべき権限を、部下たちに大胆にも委ねた。政治においてはクロイツェルに、軍事においてはレオンハルトに――である。
「陛下は……本当に、儂に元帥として自由に軍を動かさせるつもりなのか……」
しばし思案したレオンハルトは、再び机上に置かれた、現在立案中の作戦計画書へと視線を落とした。
「エリアス……悪いが、この作戦案に修正を加えてくれ」
「閣下?」
レオンハルトが作戦案に異議を唱えるのは、エリアスの知る限り初めてのことだった。王国中枢からの命令であれ、部下から提出された計画であれ、彼は常に頷いて受け入れてきた。その彼が、初めて“待った”をかけたのである。
「軍務相アルテンブルクに至急問い合わせろ。予備戦力として後方待機している予備軍を、すべて前線に回せと伝えるんだ」
「それでは権限を逸脱してしまいます!軍務相に命令できるのは国王陛下のみです!」
「その国王陛下から、“自由に戦え”と指令が届いたのだ。ならば儂は、与えられた元帥の地位に相応しい働きをしてみせねばならん」
レオンハルトの表情は真剣そのものだった。先ほどまでのおどけた雰囲気は消え失せ、張り詰めた緊張感が一瞬にして室内を支配する。
「……閣下は、何をお考えなのですか?」
その問いに、レオンハルトはすぐには答えなかった。
司令官室に、紙の擦れる音と、遠くから響く軍靴の足音だけが満ちる。
やがて彼は顔を上げ、エリアスを真正面から見据えた。
「最良の戦法で、ボレニアとの戦争に勝ってみせよう」
それは自信に満ちていながら、驕りも虚勢も一切含まない声だった。
猛将の宣言とも言うべきその一言に、エリアスは全身の毛が逆立つ感覚を覚えた――そしてその感覚を、生涯忘れることはなかった。
戦争とは、相手に自らの意志を強制することを目的とした実力の行使である。
ヘルマン・フォン・シュトラウセンは、名著『戦争の秩序』の中でそう記している。
この定義における主語は国家であり、それはすなわち“人間の政治的共同体の総称”を指す。しかし、その意志が、そこに住まう人々の総意と常に一致するとは限らない。人々は、政治を司る一部の者たちが掲げる国家の論理に従い、戦争へと動員されるのである。
それが全体の利益を追求する行為だとするならば、確かにそこには理性の香りが漂うだろう。だが、人間とは感情の生き物である。その論理の内には野心が宿り、あるいは野心が論理という装いをまとって人前に現れる。時として、野心を伴わぬ純粋な論理が存在し得るとしても、それらは総じて人間的な温度を欠いている。
ならば、戦争とは、論理と野心が交差する地点に生じた人間の熱情が引き起こす発火点であると言える。そこから外れた関係――論理だけの戦争も、野心だけの戦争も――いずれにせよ人間的とは言い難い。
人間であるがゆえに生まれる、その不健全な均衡の帰結こそが、戦争なのである。




