第4章:論理と野心の交差点⑤
「まったく、この城は……」
亡命者であるルートヴィヒは、特にすることもなく、ボレニア侯爵の居城をあてもなく歩き回る日々を送っていた。
彼の価値は“ローゼンベルク王国第一王子”という政治的立場に集約されており、ボレニア侯爵ゲオルグも、彼に何か役割を期待しているわけではない。むしろ本音を言えば、どこかへ行かれても困るため、部屋に閉じ込めておきたいというのが彼の本心だった。
手持無沙汰なルートヴィヒは、かつて住んでいた王宮よりも一回り小さな城内を歩き、せめてもの慰めとして絵画や美術品を眺めていた。しかし、ボレニア侯爵の城には、貴族の品位を示すはずの芸術品がほとんどない。廊下も応接室も殺風景で、それは芸術に何の関心も示さなかった父フリードリヒを思い起こさせ、彼の気分を沈ませた。
だが、そんな城にも唯一の絵画があった。
「やはり、この絵は荘厳だ」
壁一面を覆うほどの大きさを持つ戦争画。
騎兵が戦列歩兵へ突撃し、互いに血を流しながらなお戦意を失わぬ表情が、驚くほど写実的に描かれている。まるで戦場の一瞬を切り取ったかのような迫力があった。
戦争や軍事に疎いルートヴィヒとしては、城で唯一の美術品が戦争画という点に不満もあったが、それを差し引いても圧倒される出来栄えだった。
「ルートヴィヒ殿、またこちらにいらしたのですかな」
背後から声がかかる。城の主、ゲオルグだった。丸顔で愛嬌はあるが、どこか人を圧する雰囲気を纏った男である。
「ああ。この絵を見に来ていた。どういった作品なのだ?」
「……グラウエンシュタイン継承戦争の折に、昔抱えていた画家に描かせたものです」
「ほう、あの継承戦争の」
「ええ。私も従軍しておりましたので」
ゲオルグは静かに指を伸ばした。
そこには、馬上から敵陣へ突撃する一人の兵士が描かれていた。
「お恥ずかしながら、あれは若き日の私です」
「なるほど。思い入れの深い場面というわけか」
「……ええ、とても」
そう答えると、ゲオルグは話題を切り替えるようにルートヴィヒを向いた。
「ルートヴィヒ殿、食事の用意ができたそうです。どうぞ」
「そうか。貴侯も?」
「いえ。私には用事がありますので」
そうかそうかと、ルートヴィヒは特に気にもせず、そそくさと食堂へ向かった。為すことのない身にとって、食事は唯一といっていい楽しみである。その単純さを、ゲオルグはよく理解していた。
ルートヴィヒの姿が消えると、ゲオルグの表情から柔らかさが消えた。
「この絵は、俺だけのものだ……若造が」
声色を変え、細い目で絵を睨みつける。
若き日の自分が突撃する先には、屈強な敵将がサーベルを構えて立っていた。
ゲオルグは額に残る古傷に指を当てる。
「……やっとだ。ようやく決着をつけられる」
彼は毎日欠かさずこの絵を眺め、あの日の憎しみを忘れぬようにしていた。近頃は特にその回数が増え、周囲の者も、彼から立ち上る怒気と覇気の高まりを感じ取っていた。
「侯爵閣下、よろしいでしょうか」
側近が入室し、二件の伝言があると告げる。
「なんだ」
「一件目は、グラウエンシュタインの駐在外交官より。『今後の対応について対談を』との申し出です」
「断れ。理由は適当でいい」
「承知しました」
ゲオルグは舌打ちした。
ルートヴィヒの亡命が知れ渡るや否や、グラウエンシュタイン大公の代理人を名乗る外交官から、ひっきりなしに対談の申し出が舞い込んできたのだ。ローゼンベルク王国が再び帝国内に火種を持ち込んだことに反応し、ボレニアを含む諸侯で対応を協議したい――彼らの意図は明白だった。
だがゲオルグは、そのすべてを一蹴した。外交官をルートヴィヒに近づけることすら許さない。今回ばかりは、グラウエンシュタインの横やりを断固として排除するつもりだった。
「もう一件は?」
「モルゲンフェルス男爵からです。『ザールマルクに不穏な動きあり。先制攻撃が必要』とのことです」
「まったく、モルゲンフェルスの奴め。ザールマルクなど今は放っておけばよいものを……あの強欲者が」
モルゲンフェルス男爵は、ザールマルク国境に接する地を領する貴族であり、かねてより同地を征服して産業基盤を取り込むべきだと主張し続けてきた主戦派の一人であった。ザールマルクがボレニアを潜在的脅威と見なす背景には、彼のような存在が一定数いることも大きい。
彼は折に触れて侵攻案を持ち出してきたが、そのたびにゲオルグからは「時期尚早」の一言で退けられてきた。だが対ローゼンベルク戦争を前に、その主張を再び表に出してきたのである。
「しかし、情報によれば、ローゼンベルク軍もザールマルクに進軍し、我が国を攻撃する意図を見せているそうです」
「雷鳴王自ら出張ってきたか。……どいつもこいつも、まったくご苦労なことだ」
ゲオルグは少し沈黙して、思考を巡らせた。
もともとローゼンベルクとは国境地帯で戦端を切る予定だったため、戦力を二分するのは避けたかった。
しかし、相手はザールマルク軍だけではない。ローゼンベルク軍の、しかも雷鳴王自ら指揮する精鋭の中央軍がやってくるとなれば、対処する戦力も確保せねばならなかった。
「……騎兵6千だ。それ以上は出せん」
「少々心許ないかと」
「我々の目的は、ローゼンベルク軍本隊を撃破し、失地を奪還することだ。ザールマルクは必須の攻略対象ではない。最悪の場合、防衛に徹すればそれでいい」
ゲオルグの判断は、軍事的には妥当だった。ボレニアは5万の騎兵という、他国から見れば強大な戦力を有しているが、それを分散させれば威力は当然削がれる。主目標である攻略対象の撃破が叶わなくなる恐れも生じる。
ゆえに、必成目標でない戦線に戦力を割かないのは、用兵の鉄則と言えた。
だが――
「雷鳴王などどうでもいい。奴だ……あいつを倒せれば……」
個人的な執念が、軍事的鉄則という強固な盾に守られていることは、側近の目にも明らかだった。しかしその判断は理に適っており、支離滅裂なものではなかったため、排除する必要はなかった。
「かしこまりました。ただ……」
側近の歯切れの悪い返答に、ゲオルグは眉をひそめた。案の定というべきか、モルゲンフェルス男爵は彼の判断を見越し、それを逆手に取った要求を突きつけてきていた。
「派遣兵力が限定される以上、現場での判断が勝敗を分けることになります。そのため、ザールマルク戦線においては全権指揮権が不可欠である――とのことです。加えて、戦後の復興を見据え、その権限を正式にお認めいただきたい、と」
「……がめつい奴だ。戦後の利権までかすめ取るつもりか」
吐き捨てるように言ったゲオルグに、側近は一瞬ためらい、それでも言葉を続けた。
「それと……もう一点」
「まだあるのか!」
「さらに……ザールマルク伯爵令嬢の身柄についても、自由に扱いたいとのことです」
その瞬間、ゲオルグの口元が歪んだ。
「やれるものなら、やってみろ。雷鳴王を相手に勝てる自信があるのならな」
配下の貴族が口にする欲望まみれの要求など、今のゲオルグにとっては取るに足らぬ些事に過ぎなかった。
うまくやれればそれでよし。仮に失敗したとしても、本戦の決着がつくまで敵を足止めできるなら、それで十分だった。彼の関心は、終始その一点にしか向けられていなかった。
ゲオルグにとって、軍事的合理性や国家の総合的利益とは、あくまで己の執念を正当化するためにまとわせた鎧に過ぎない。




