第4章:論理と野心の交差点④
「はぁ……」
ヴィルヘルムらを見送った後、アーデルハイトは騎兵服も脱がぬままベッドに大の字になり、見慣れた天井をぼんやりと見つめながら大きなため息をついた。
それは将来の結婚相手に出会ったことによる高揚から生まれる、乙女じみた吐息――などではない。もっと打算的で、政治家としての思考が生んだものだった。
「うまくやれたかしら……」
彼女が気にしていたのはただ一つ。
――ヴィルヘルムの目に、自分が“有益な存在”として映ったかどうか。
結婚相手としてどう見られたかなど、彼女にとっては二の次でしかない。
「私が、ザールマルクを守らないと……」
その思いだけが、常に彼女の胸の中心にあった。
年若く、しかも女性という政治的に不利な立場にあるアーデルハイトが、これほどの使命感を抱くようになったのは、思春期を迎えるよりも前のことだった。その大きな要因は、高齢の父フェルディナントの存在にある。
アーデルハイトは父を深く愛していた。娘に惜しみない愛情を注いでくれる父を、最高の父親だと信じて疑わなかった。しかし同時に、その高齢という事実が、彼女の愛情に別の感情――責任と焦燥――を植えつけていた。
平均寿命を大きく超え、周囲の誰よりも年老いたフェルディナントの身体には、すでに多くの不調が現れていた。幼い頃、父に甘えて抱きついたその腕の感触からも、それが決して強健なものではないと理解できてしまったほどだ。
フェルディナントは口癖のように言っていた。
「心配するな。私がお前を守ってやる」
だが聡明なアーデルハイトは、その言葉が永遠ではないことを悟っていた。父と共に過ごせる時間は、一般的な家庭よりも決して長くはない。
父を安心させなければならない――そう確信した時から、彼女はザールマルク伯爵領と自身の未来、その両方を守り抜くことに全てを注ぎ込むようになった。
フェルディナント譲りの背丈のおかげで長銃も扱え、騎乗も苦ではなかった。数多く付けられた家庭教師によって教養も身につき、学問への苦手意識もなかったことは幸運だった。そうして彼女は、ザールマルクを発展させる手段として経済学に出会う。
資源に乏しいザールマルクは、地理的特性を活かし、資源を輸入して加工・輸出する工業中心の産業構造を築いていた。手工業や織物業に加え、ローゼンベルクとの関係によって軍需産業も活発化し、特にヴィルヘルムから外注されたドライゼン小銃の生産は、かつてない経済的恩恵をもたらした。
その資金を元手にさらなる工場建設を構想していた矢先、ローゼンベルク国内で王位継承戦争が勃発する。第一王子ルートヴィヒのボレニア亡命をきっかけに、20年近く平穏だったザールマルクにも、安全保障上の危機が迫った。
潜在的脅威であるボレニア侯国に屈し、合併によって緊張を解消するか。
軍事力はないが富裕なキルベックの商人と結婚させ、安穏な生活を与えるか。
あるいは、グラウエンシュタイン大公の庇護を求めるか。
フェルディナントは、領地よりも娘の身を案じ、これらの選択肢を模索し始めた。
だがアーデルハイトは、それらすべてに明確な否を突きつけた。
ボレニアとの合併は吸収に過ぎず、キルベックに守る力はない。グラウエンシュタインにとっても、ザールマルク伯爵令嬢は決定的な交渉材料ではない――彼女は冷静にそう指摘し、父を説き伏せた。
「では、どうすればお前の安全は守られるのだ」
その問いに対し、アーデルハイトが示した答えが、ローゼンベルク王国の雷鳴王――ヴィルヘルム2世だった。
雷鳴王と呼ばれるその手腕は、近年つとに名高い。合理的で清廉な人物像に加え、彼女は一連の行動から“野心”を読み取っていた。それは先王フリードリヒ2世のものとは異なり、実力と意志を伴った野心である。
彼は、ただ一国の王で終わる器ではない――会ったことすらない相手に、彼女はそう確信していた。
その前提のもと、なぜヴィルヘルムが最適なのかを、彼女は父に説いた。
将来、彼は対外戦争に乗り出し、周辺国を併呑して王国を拡大する。その候補にザールマルクが含まれるのは必然だ。ならば、飲み込まれる側になるのではなく、最初から国家事業の一員として名を連ねるべきだ。
未婚の王と、女性である自分。結婚という形でローゼンベルクと結びつき、王妃となることでザールマルクの血を王家に組み込める。
その推測は、概ね正しかった。
後の歴史が示す通り、ヴィルヘルムは対外戦争によって版図を広げていくことになる。会う前から、そこまでを見通していたのである。
だが同時に、重大な懸念もあった。
彼は野望のためなら政略結婚すら冷徹に切り捨てられる人物だ。ザールマルク伯爵令嬢がそれに見合う価値を示せなければ、提案は容易く白紙に戻される。そうなれば、ザールマルクは遅かれ早かれ併合される運命にある――それがどの国であろうと、大差はない。
だからこそアーデルハイトは、ヴィルヘルムにとって有益であり、王妃として利用価値のある存在だと証明しなければならなかった。彼の反応を気にしているのも、恋心ではない。
女性という武器を用い、それでもなお“必要とされる”ための使命感だった。
そう考えると、初日の手応えは決して良くなかった。
ヴィルヘルムはザールマルクを同盟国・経済的パートナーとしては評価していたが、それが「彼女との結婚でなければ得られないものか」という問いを否定するには至っていない。
彼は選ばれる側ではなく、選ぶ側の人間だ。
一度きりの政略結婚という手札を切るに値すると判断させられなければ、意味がない。
ザールマルクの後継者としての国家的合理性と、父を安心させたいという思いやりから生まれた野心――それらが彼女の胸中で交錯していた。
そこに、彼女個人の願いは存在しない。
そして、その事実を見抜いている者が、確かに存在していたのである。




