第4章:論理と野心の交差点③
「お久しゅうございます、クロイツェル殿」
「そちらもご健在のようで、何よりにございます」
ザールマルク伯爵と王国宰相クロイツェル――実に20年ぶりとなる両者の再会。その場に同席していたジークハルトは、混乱しかける思考を必死に抑え込み、状況の把握に神経を集中させていた。
「ねえ……やっぱり変よね?」
隣に整列していたシャルロッテも同じ違和感を覚えたのか、そっと横目でジークハルトに視線を送る。
「クロイツェルの爺さんより、年上に見えないか?」
「ええ。私も、ここまでのおじい様は初めて見るわ。もしかしたら、私のお祖父様よりも年上かもしれない……」
クロイツェルの年齢は63歳。彼も十分に高齢と言えるが、ザールマルク伯爵はそれをさらに上回る75歳であった。
当時の正統ルガルディア帝国地域における平均寿命は40代半ばとされている。乳幼児死亡率の高さや未発達な医療事情が主な要因であり、さらに戦争による若年層の死亡も少なくなかった。そのため、この数値がそのまま健康寿命を示すとは言い切れない。特に貴族階級は、栄養や衛生環境に恵まれていた分、平民より長命な傾向にあった。
それを差し引いてもなお、ザールマルク伯フェルディナントの長寿は、異例と言って差し支えなかった。
「あの人が当主……で合ってるんだよな?隠居した元当主じゃなくて」
「人の家のことを、あまり詮索しない方がいいわよ。貴族なら、そういうことも珍しくないもの」
ジークハルトはその時、ヴィルヘルムが結婚に乗り気でない理由はこれかもしれない、と考えていた。75歳の当主の娘となれば、相応に年齢を重ねた女性である可能性が高い。21歳になったばかりのヴィルヘルムに、はるか年上の姉さん女房があてがわれるとすれば、気が重くなるのも無理はない――そう彼なりに気遣っていたのである。
しかし、彼の娘と対面した瞬間、ジークハルトはさらに深い混乱へと突き落とされることになる。なぜなら――
「お初にお目にかかります、ヴィルヘルム陛下。私はザールマルク伯爵が嫡女、アーデルハイト・フォン・ザールマルクと申します。このたびの縁談の申し出、ならびに同盟の具申をお受けくださり、恐悦至極に存じます」
すらりとした体躯に騎兵服をまとい、マホガニー色の艶やかな髪をなびかせる。白皙の肌に整った端麗な容貌を備えたその“少女”は、紛れもなくザールマルク伯爵の娘を名乗った。
彼女の年齢は19歳。ヴィルヘルムより二つ年下であった。
「なあ、ヴィルヘルム」
宰相クロイツェルとフェルディナントは会合と諸調整を終え、それぞれの役目へと戻っていった。クロイツェルは王国に残る政務を預かるため足早に帰途につき、ヴィルヘルム一行はアーデルハイトの案内のもと、同盟国となるザールマルク軍の視察へと向かっていた。
その道すがら、ジークハルトは頃合いを見計らい、胸中に渦巻く最大の疑問をヴィルヘルムにぶつけた。
「あの子が伯爵の娘さんなのか?孫娘じゃなくて?」
「そうだ。私も初対面ではあるが、彼女がザールマルク伯のご令嬢で間違いない」
「シャルロッテとも話してたんだけど……やっぱり貴族では、そういうこともあるのか?」
「下世話な想像をしているのなら、礼を失する。やめておけ。彼女はれっきとしたザールマルク伯と正妻との間に生まれた嫡女だ。……もっとも、事情はあるがな」
そう前置きしてから、ヴィルヘルムは事前にクロイツェルより聞かされていた、ザールマルク伯爵家の内情を語り始めた。
当主フェルディナントには正妻がいた。しかし二人の間に子はなく、彼女は50歳を迎える前にこの世を去っている。フェルディナントは亡き妻を深く愛しており、一族の再三の勧めにも耳を貸さず、彼女への義を守り続けた。
グラウエンシュタイン継承戦争ではザールマルクの指揮官として戦い、ローゼンベルク軍と同盟を結び、激戦を生き延びて伯爵位にとどまり続けた。その姿を見てきた一族は、彼の後継者は必ず直系でなければならないと考えるようになる。ほかに後継たり得る男子がいたにもかかわらず、彼を再婚させ、正統な血を引く後継者を得ようとしたのだ。
フェルディナントは最後まで亡妻への愛を貫く覚悟を崩さなかったが、ついに周囲の圧に抗しきれず、55歳という高齢で後妻を迎えることになった。その相手は、亡き妻の姪にあたる女性だった。血縁が近く、面影もあるという理由から、親子ほど年の離れた彼女が選ばれたのである。
戸惑いはあったものの、後妻となった彼女の強い想いに押され、フェルディナントは56歳にして初めて我が子を腕に抱いた――それが、アーデルハイトだった。
一連の話を聞き終え、ジークハルトは小さく息を吐いた。道中で語られた国家の論理もそうだが、貴族社会の理屈もまた、理解しがたいほどに複雑怪奇である。なぜそこまで血統に執着するのか、その疑問は胸の内で消化しきれずに残っていた。
その戸惑いを察したのだろう。ヴィルヘルムは、ジークハルトを宥めるように言葉をかけた。
「ジークハルト。お前の感覚は正しい。どこも間違ってなどいない。安心しろ」
ヴィルヘルムは、ジークハルトの在り方を肯定した。彼は貴族の血を引く者でもなく、国政に関わる宿命を背負って生まれたわけでもない。ゆえに国家や貴族社会の論理に馴染めないのだが、その純粋さこそが、彼の何よりの武器だった。
理解があることは、必ずしも寛容であることと同義ではない。時としてそれは、宿命を黙認する残酷さを孕む。ジークハルトは理解力に乏しいのではない。賢しらに目を背けることを良しとしない、そのひたむきさこそが彼の美点だった。
そしてその輝きは、ヴィルヘルム自身がもはや持ち得ないと感じてしまうほど、眩しい光でもあった。
そのような事情を聞かされ、ジークハルトはしばし言葉を失っていた。だが、ザールマルク軍が集結する野営地に足を踏み入れた瞬間、その思考は別の驚きによって上書きされる。
彼の視界に映ったのは、数こそ多くはないものの、精鋭と呼ぶにふさわしい軍勢だった。
「すげえな……ここでも全員がドライゼン小銃を持ってるのか」
ザールマルク伯爵領は小国である。だがそれは、軍事に乏しいという意味ではない。備えがないわけでもなかった。むしろ小国であるがゆえに、真剣に国防と向き合わざるを得なかったのである。
彼らの強みは工業力にあり、さらに小所帯だからこそ培われた強固な結束力があった。
「第四次ノッセル回廊会戦におけるヴィルヘルム陛下のご活躍を耳にし、我が軍でも同銃の導入と配備を進めてまいりました。現在では、ザールマルク軍1万5千の全兵がドライゼン小銃を装備しております」
女性でありながら騎乗の心得を持つアーデルハイトは、馬上からローゼンベルク軍の指揮官たちに自軍の態勢を示した。その立ち振る舞いには、「決して足手まといにはならない」という無言の意思が滲んでいる。
その姿勢に、ジークハルトやヘルマンもまた「同盟国として不足なし」と、ザールマルクへの信頼を確かなものにしていた。
ヴィルヘルムも満足そうに頷いてはいたが、その視線は時折、どこか釈然としない表情でアーデルハイトへと向けられていた。
その微かな違和感を、ジークハルトは見逃さなかった。
「つまり、大国家、あるいは国家連合による統一された体制のもとで、それぞれが自らの強みを活かして分業する。産業に特化した地域や特区を定めることで、経済発展と技術進歩は、より加速されるのです」
ザールマルク軍の視察を終えた後、ヴィルヘルムはアーデルハイトの私室へと招かれていた。年頃の伯爵令嬢の部屋にしては落ち着いた趣で、壁一面に設えられた書棚には大量の書籍が隙間なく並んでいる。
経済学、政治学、地理学――とりわけ実学系の書が目立ち、その中にアドリアンの著作を見つけたとき、なぜか同席することになったジークハルトは、あの奇怪な思想家が確かに学者として評価されている事実を、故郷から遠く離れた地で実感していた。
アーデルハイトは、経済学の観点からザールマルクが進むべき将来像を語り、それがヴィルヘルムの掲げる国家方針と、いかに利益を共有し得るかを熱心に説いていた。
ジークハルトは途中から話についていけなくなり、隣で何度もうなずくヴィルヘルムと、確かな知識に裏打ちされた展望を語るアーデルハイトを、ただ口を半開きにして眺めるばかりだった。
「実に興味深い。経済学に明るくない私にとっても、学ぶことの多い時間だった」
「そう言っていただけるなら光栄です。ただ、ヴィルヘルム陛下も、かのアドリアン氏の教えを受けておられるのでしょう?それほど難しい話ではなかったのでは」
知友と語り合うかのような二人の空気に、ジークハルトは、ヴィルヘルムとアーデルハイトとの間に自分には決して踏み込めない関係性が芽生えているのを感じた。そこに、わずかな寂しさと、それ以上の安堵と喜びが同時に湧き上がる。
二人の結婚は政略によるものらしいが、決して水と油というわけではなさそうだ――そう思えることが、なぜか自分のことのように嬉しかった。
「次は、経済連結鉄道構想についても――」
「非常に魅力的だが、今日はここまでにしよう。夜も更けてきた。明日からは共同作戦に向けた訓練も始まる。休息が必要だ」
ヴィルヘルムは唐突に話を切り上げ、席を立つ意思を示した。
アーデルハイトもそれを引き留めることはなく、「承知いたしました。お部屋までご案内いたします」と申し出たが、ヴィルヘルムはそれすら辞し、ジークハルトを伴って足早に部屋を後にした。
「……なあ、ヴィルヘルム。もしかして、好みじゃなかったのか?俺は結構お似合いだと思うんだけど」
自室へ戻るまでの道のりは、重苦しい沈黙に支配されていた。その居心地の悪さに耐えきれず、ジークハルトは思わず口を開いた。
少し間を置いて、ヴィルヘルムはようやく答える。
「そんなことはない。彼女は知的で、人としても魅力的だ。話も実に面白かった。それは本心だ」
「じゃあ、なんで……」
「彼女とは、こういう形で会いたくなかった。それだけだ」
「それって、どういう――」
ジークハルトの疑問を遮るように、ヴィルヘルムはあてがわれた客室へ入ると、そのまま沈黙を貫いた。
「……ほんと、難しいな。貴族様ってのは」
頭をかきながら、ジークハルトは屋敷の外に張られた野営天幕へ向かう。そこではすでに酒盛りが始まっており、シャルロッテやカールたちが飲み比べをしながら賑やかに笑い合っていた。ジークハルトも自然とその輪に加わる。
彼にとって貴族との付き合いとは、士官学校時代からの同期である、気のおけない彼らとの関係だった。そこには妙な含みも遠慮もなく、ただ一人の人間として向き合う距離感がある。
そう考えると――ヴィルヘルムとアーデルハイトの間には、個人として心を触れ合わせる余地が、まだほとんどなかったのかもしれない。
酔いの回った頭で、ジークハルトはそんなことをぼんやりと思っていた。




