第3章:雷鳴王の戴冠⑤
『参謀』という言葉は、騎士王戦争のただ中で誕生したとされている。
生涯の大半を戦場で過ごし、大陸の35%を支配下に置いた騎士王は、その戦域の広大さと軍隊の巨大さを前に、自身一人ですべてを統御しようという無謀な発想を取らなかった。代わりに、有能な配下たちへ権限と任務を適切に分散させた。その過程で生まれた役職こそが『参謀』である。
参謀は主として戦略や作戦立案を担い、指揮官を補佐する立場にあった。従来、戦場での判断は参戦する指揮官や、全軍を統べる将軍・君主自身が行うものであったが、騎士王はそれらをより専門的に請け負い、管理する役職として参謀を重用したとされる。
この制度は画期的であった。それまでも指揮官を支える幕僚という側近は存在していたが、軍事作戦の計画・立案・検証を専門に行う存在が正式に制度化されたのは、騎士王軍が初である。すなわち、それまでの“智将”や“軍師”といった属人的資質への依存から脱却し、より理論的かつ合理的な判断を可能とする組織体制が構築されたのである。
建国者ヴィルヘルム1世も、この画期性に注目した。黎明期にあったローゼンベルク公国において、彼は王直属の組織として『宮廷参謀部』を創設する。その過程で、ヴィルヘルム1世はある人事上の法則性を見出すこととなった。
彼はこう述べている。
軍人は二つの性質によって、四種類に分類できる。その性質とは“能力”と“勤勉さ”である。有能と無能、勤勉と怠惰――この個人的要素の組み合わせによって、それぞれに適した役割が存在する。有能とは、記憶力・計算力・洞察力・判断力などに優れることを指し、無能とはそれらを特段有さないことを意味する。また、怠惰とは何もせず働かないことではなく、「定められたことを定められた分だけ行う」という合理主義であり、勤勉とはその枠を超えて自発的に行動する性質を指す。
怠惰で無能な者は、すなわち“兵士”である。命じられたことのみを忠実にこなす存在であり、軍の9割は彼らで構成される。個々の能力は高くないが、数において圧倒的な力を持つ。ゆえに重要となるのは、彼らをいかに指揮するかである。
怠惰だが有能な者は“指揮官”に適している。一兵卒のままでは積極的に働かないが、責任ある地位に置き、動かねば自身に不利益が及ぶ環境を与えれば、能力を発揮するからだ。また、怠惰であるがゆえに、すべてを自分で抱え込もうとせず、部下に仕事を委ねる。大量の人員を活用し、組織として機能させる資質を持つ点が、彼らの強みである。さらに有能であるため、人材の能力や適性を見抜き、適切に配置できる。
勤勉で有能な者は“参謀”として側に置くべきである。勤勉さゆえに指揮官の仕事を先回りしてこなし、命じられる前に必要な業務を見出す。しかし、彼を指揮官にしてはならない。勤勉で有能であるがゆえに、怠惰で無能な兵士たちと相性が悪いからだ。彼は自らの基準を部下にも求め、その結果、能力的にも意欲的にもついて来られない兵士との間に軋轢を生む。
勤勉で無能な者は論ずるに値しない。速やかに処刑すべき存在である。特段の能力もないにもかかわらず動き回り、状況をかき乱すだけで有益ではない。厄介なのは、彼ら自身にその自覚がない点である。
この考え方は後に『ヴィルヘルムの資質的組織理論』と呼ばれた。ヴィルヘルム1世はこの理論を基に人材を配置し、国家と軍の基盤を築き上げた。当時の宮廷参謀部は彼を支える精鋭集団であり、ローゼンベルク公国建国の陰の立役者であった。
しかし、その後を継いだルートヴィヒ1世は、成熟しつつある組織の中で、別の法則性に気付くこととなる。
彼は側近の宮廷書記官に、愚痴るようにこう漏らしたという。
組織を運営する以上、人間の感情が大きく作用する。つまり、性質によって感情的に求められる人材には優先順位が生じるのだ。
最も重宝されるのは怠惰で有能な指揮官タイプ、次いで怠惰で無能な兵士タイプである。理由を観察すると、上に立つ者は能力の有無よりも、「自分の指示に忠実かどうか」を重視していることが分かる。怠惰な者は言われたことしかしないがゆえに、実質的に従順であり、上官にとって居心地が良い。
その結果、勤勉で有能な参謀タイプは疎まれる。彼らはより良い方針を見出し、成果を生み、それを正しいと信じて意見具申する。だが、それは必ずしも“従順”とは映らない。目障りな存在と見なされ、昇進の機会を失い、結果として組織の上層には怠惰な者が増えていく。
この理屈は『ルートヴィヒの感情的人事理論』とまとめられ、彼の治世ではすでにその兆候が現れていた。
やがて王国となったローゼンベルクは、野心と行動力に満ちたカール1世を迎える。自身を最も優れた存在と信じて疑わなかった彼は、政権と軍権を独占し、専門組織を不要とした。その結果、宮廷参謀部は衰退する。
停滞王ヨーゼフ1世の治世でも状況は変わらなかった。戦争も改革も求められぬ国家において、参謀組織は完全に形骸化した。
虚栄王フリードリヒ2世の時代、一瞬だけ復権の兆しは見えたが、具申を煩わしく感じた彼は宮廷参謀部を解体し、『宮廷幕僚』『軍事顧問』という曖昧な役職に置き換えた。
こうしてヴィルヘルム1世が築いた制度は、子孫たちによって冷遇され続けた。しかし同じ名を継ぐヴィルヘルム2世の治世、その流れは再び変わる。
第四次ノッセル回廊会戦において、第101親衛戦闘団幕僚本部の功績は決定的であった。外部はヴィルヘルム個人の軍才を称えたが、彼自身は勤勉で有能な参謀たちの存在を疑わなかった。
彼は軍をより効率的な組織へと育てるため、あえて宮廷参謀部の名を復活させず、中央軍隷下に『中央軍参謀局』を創設し、ヘルマンをその長に据えた。
そして、第一王子ルートヴィヒの亡命が判明した際、ヘルマンが口にした言葉は簡潔だった。
「それでは、B-3案ですね」
誰も予期せぬ事態に対しても、彼らは備えていた。国家が一人の君主の頭脳のみで動く時代の終焉を告げ、組織による統治の時代が始まったのである。




