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第3章:雷鳴王の戴冠④

 ルートヴィヒ一行は進路を西へ取り、ひたすら逃亡を続けていた。


 実のところ、その進路選択さえもヴィルヘルム――より正確にはヘルマンの想定通りであった。


 ローゼンベルク軍は、大きく分けて3、あるいは4つの主要戦力から成っている。建国以来、国軍の中核を担ってきた中央軍。国境防衛を任務とする2つの方面軍――カルノヴァ=ストリェッツ共和国と対峙していた東部方面軍、そしてグラウエンシュタイン大公国を睨む南部方面軍。さらに、王族直属の準軍事組織である近衛軍である。


 南部方面軍司令官レオンハルトは、ヴィルヘルムによって元帥の地位を与えられ、完全にその指揮下に入っていた。また、貴族派と目されていた東部方面軍司令官ブレンデルでさえ、管轄地域への不法侵入には厳格に対処せざるを得ないとする声明を出し、ルートヴィヒ派の要請を退けていた。


 この状況下では、南部にも東部にも逃げ場はない。


 王国北側は海に面しているが、主要港を持たないローゼンベルク王国において、海路での脱出は現実的ではなかった。必然的に、消去法で西へ向かうしかない。西部国境を管轄するのは中央軍であったが、それでもなお、そこ以外に選択肢は残されていなかった。


 王都を離れ、西部へ逃れたルートヴィヒ派は、そこで独自の軍勢を結成しようとした。しかし編成は遅々として進まず、集められた兵力は多く見積もっても2千名程度に留まった。


 ルートヴィヒ自身は軍事に明るくなかったものの、派閥には王国軍から離反した貴族出身の軍人もおり、指揮面で任せられる人材は存在した。だが、貴族制廃止によって王国軍の性質が大きく変わった今、彼らでさえ兵員確保には苦労せざるを得なかった。


 かつてのローゼンベルク王国軍では、指揮官級と常備兵は国家が直接管理していたが、徴兵や予備役の多くは各貴族の所領ごとに動員されていた。そのため方面軍司令官は、人事こそ王国に握られていたものの、実際に従える兵数は彼らの裁量に委ねられていた。この構造が、かつてブレンデルが軍費を横領する余地を生み、貴族たちが“私兵に等しい軍”を保持することを可能にしていたのである。


 しかし貴族制の廃止により、この仕組みは一掃された。徴兵・予備役は王国――とりわけ軍務省の下で一括管理されることとなり、戸籍制度の整備によって、国家が直接国民を把握する体制が復活した。その結果、ローゼンベルク軍は指揮官から一兵卒に至るまで、国家の統制下に置かれることになった。


 ルートヴィヒ派は、この制度を利用できる立場にはなかった。そのため彼らの軍は、旧貴族の所領から半ば強制的に集められた兵や、金で雇われた傭兵によって構成されていた。無論、精鋭として鍛え上げられ、統制された命令系統の下で実戦経験を積んできた中央軍と、正面から戦えるはずもなかった。


 中央軍の主力が王都に集中している以上、追撃には時間がかかる――そう高を括ったルートヴィヒ派は、西部の拠点を確保すると、前祝いとばかりに祝賀会を開いた。だが、その翌日には拠点を包囲する形で中央軍が展開を完了していた。


 貴族たちは当初、その光景を信じようとしなかった。王都からこの地までは、馬車でも10日以上を要する距離である。徒歩主体の歩兵なら倍以上、大砲を伴えばなおさらだ。その計算自体は正しかった。


 しかし、ヴィルヘルムの中央軍は『鉄道』という手段によって、その前提を根底から覆していた。当時の蒸気機関車は一日に300㎞を走破し、完全武装の兵士を千人単位で輸送できた。ルートヴィヒが稼いだ距離は、わずか2日で無に帰し、しかも兵士たちは疲労の少ない状態で戦闘に臨めたのである。


 鉄道網はまだ導入期にあり、全国展開には程遠かった。それでもヴィルヘルムは、この動員力を高く評価し、「軍の展開能力を高めるには鉄道整備こそが最重要である」という革新的な思想に到達していた。


 ルートヴィヒ派が時間を浪費している間に、ヴィルヘルムは着実に兵力と砲兵を鉄道で送り込み、火力も万全に整えていた。こうして、王国西部において両軍は対峙する。


 ルートヴィヒ軍が歩兵中心の2千であるのに対し、ヴィルヘルム軍は砲兵・騎兵を含む1万。しかも前者は寄せ集め、後者は精鋭中央軍。戦いと呼ぶことすら躊躇われる戦力差であった。


 さらにヴィルヘルム軍は、勝利を確実なものとするため、策を講じる。戦線が整った後、ルートヴィヒ軍の兵士たちに向け、次の布告がなされた。


「兵士諸君、王国軍に復帰せよ。寛大な処置を約束する。

 諸君らは上官や部隊長、あるいは旧領主の命令に従っていただけに過ぎない。現状において、諸君らの罪が問われることはない。

 繰り返す。今すぐ投降せよ」


 これが、決定打となった。ルートヴィヒ軍の兵の中には、騙され、あるいは無理やり連行されてきた者も多かった。中には、家族を人質に取られて従わされていた者もいた。


 戦う意思を持つ指揮官の数は、命令を受ける兵の数より遥かに少ない。目の前には、身の安全を保障する正規軍がいる。兵士たちが銃口を向けた相手が、貴族の上官であったとしても、それは不思議なことではなかった。


 戦闘は、ルートヴィヒ軍の内部で始まった。


 その光景を見たカールは、いつもの軽口で味方を鼓舞した。


「俺たちの分も残してくれよ。勲章が貰えなくなる」


 不謹慎な言葉に、兵たちは苦笑するしかなかった。だが目の前で起きているのは、特権によって人を従わせる旧来の価値観と、自らの意思で身を守る存在を選び始めた人々との衝突であった。


 カルノヴァ=ストリェッツ共和国ほど自由意志が尊重されているとは言い難い。それでもローゼンベルク王国には、規律と新たな権力者への信頼を土壌として、人々が意思を表明し始める変化が生まれていた。


 国王として戦場に臨んでいたヴィルヘルムも、この光景を単なる軍事的事象とは捉えなかった。彼は戦場に、自らが統治する国の在り方の片鱗を見たのである。


 王位継承争いに端を発した内戦は、もはや戦闘と呼ぶにはあまりに歪な形で決着した。最終的に投降したルートヴィヒ軍の兵は1500に達し、残る者は内部抗争で命を落とすか、投降せず逃亡したかのいずれかであった。


 中には、かつてルートヴィヒに取り入っていた貴族が密かに紛れ込み、忠誠を誓うと言わんばかりに彼を非難する者もいた。しかしそれを不快に感じた中央憲兵隊長の手によって、彼は“戦死者”という栄誉を与えられた。


 ――だが、問題は別の形で浮上していた。


 首謀者であるはずのルートヴィヒ王子の姿が、どこにも見当たらなかったのである。






「――で?ルートヴィヒはどこにいるんだよ」


 ジークハルトは、かつてルートヴィヒの側近であった内務省官僚、マティアス・フォン・リンドハイムに、暴力を伴う尋問を加えていた。今回も戦闘に参加することなく、ヴィルヘルムの秘密兵器として温存されていた彼に課せられた役目は、この程度のものだった。


「……話すはずがないでしょう」


 頑なに口を割らぬマティアスに、ジークハルトは幼馴染であり、また自身の率いる部隊の部下でもあるハンスから狩猟刀を受け取った。


「まずは利き手の小指だ。痛いぞ。ちなみに、小指を失うと物がうまく掴めなくなるらしい」


 猟師出身のジークハルトとハンスにとって、それはなじみ深い刑罰だった。村では規則を破った者、過ちを犯した者への罰として、小指を切り落とす風習があった。道具を使って生計を立てる彼らにとって、それは生活の糧を断つ、最も苛烈な罰だったからだ。


「貴様の権利は保障する。公正な裁判を約束しよう」


 一方でヴィルヘルムは懐柔策を取る。苛烈な強硬策だけでなく、制度上の逃げ道を提示することで、人は選択を迫られやすくなる。


 ヴィルヘルムの言う裁判とは、かつてのように領主や宮廷の重鎮による属人的な裁きではない。建国以来構想されてきた『王国法務省』管轄の『王立裁判所』――国家機関による、普遍的な法的根拠に基づく判決を下す司法制度の結晶である。


 マティアスは、かつてでは考えられぬほど公正な扱いを約束されていた。もっとも、それが貴族である彼にとって真に“公正”なものかどうかは、また別の話ではあるが。


 それでも、マティアスは口を割らなかった。主君への忠義か、貴族としての矜持か――理由は定かではないが、彼はあえて苦難の道を選んだ。


「――グアッッツゥゥッ!」


 奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばる。利き腕の小指を切り落とされる痛みがいかほどのものかは、経験した者にしか分からない。だが、泣き叫ばぬその態度から、相当な覚悟があったことだけは察せられた。


 ジークハルトが「こいつは堕ちない」とでも言うようにヴィルヘルムへ視線を送ると、ヴィルヘルムは手法を変えることにした。


「リンドハイムよ。貴様に主を売れと言っているわけではない。むしろ、今後の貴様の働き次第で、兄ルートヴィヒへの対処と処遇が決まるのだ」


「ルートヴィヒ殿下の……?」


 額から脂汗を流し、涙を溢れさせ、口内に溜まった唾液を滴らせながら、マティアスはついに反応を示した。


 やはり忠義の士か、とヴィルヘルムは思う。あの兄にも、ここまで慕う者がいたのだと、認識を改めた。


「そうだ。我々は反逆者となった兄ルートヴィヒを徹底的に捜し出す。その過程で戦闘となれば、応戦せねばならぬ。戦場では何が起こるか分からない。兄は泥にまみれ、無残に命を落とすことすらあり得る」


 その光景を想像してしまったのだろう。マティアスの顔から血の気が引いた。


「だが、ここで貴様が情報を提供すれば、兄上が再び戦乱を起こす前に捕らえることができる。王族内の不始末として、寛大な処置が約束されよう。なにせ王国には、いまだ“王族を処刑する”法は存在しない」


 それは司法制度の未成熟を示す証でもあり、同時に、言い逃れの余地を残す抜け道でもあった。


 この瞬間、マティアスは狂いそうになる頭で必死に計算した。主君を裏切る葛藤と、沈黙を貫いた先に待つかもしれない不条理。その二つを天秤にかける。


 彼は知っていた。雷鳴王と呼ばれる若き王は、理屈さえ整えば、王族であろうと実の兄であろうと、ためらいなく切り捨てる冷酷さを持つ男だということを。


「……ルートヴィヒ殿下は、もう……王国にはおりません」


 マティアスは、主君が制度の中で生き延びる可能性に賭けた。


 ヴィルヘルムは、その忠義と配慮を評価する。


「ほう。では、どこに?」


「ボレニアです……ボレニア侯国へ、亡命されました!」


 その国名が告げられた瞬間、天幕の内に緊張が走る。


「……ボレニアに、か」


 だがヴィルヘルムはわずかに口角を上げ、運命の歯車が動き出したことを愉しむように呟いた。


「では、『中央軍参謀局』の意見を聞きに行くとしよう」

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