第2章:狼と、豚と、狗と①
「御覧ください、陛下。これが陛下の軍にございます」
「おお……なんと……壮大な……」
期待を込めたヴィルヘルムの見舞いが功を奏したのか、フリードリヒ2世は車椅子で屋外を巡れる程度には回復していた。とはいえ、かつてのように各地を精力的に巡れるほどの体力はなく、寿命が延びたわけでもない。それでも、この老体に鞭打ってまでここへ来た甲斐はあった――フリードリヒ2世は深い感動の只中にあった。
壇上からの眺めは、まさに圧巻の一言である。
一糸乱れぬ兵士たちの行進が、国王と王子の前を整然と進んでいく。黒を基調に赤を差した新軍服に身を包み、手にするのは最新式のドライゼン小銃。装備は完全に統一され、2万の精鋭歩兵が十列の梯隊を組み、何度も壇前を通過する。その光景は、装備が一部の部隊に偏っていないことを雄弁に物語っていた。
さらに、強馬と名高い黒毛の軍馬で編成された騎兵隊、多用途の大砲を揃えた砲兵隊、そしてジークハルト指揮下部隊が、国王の巡閲を受けるために列を成している。
「陛下、あちらの部隊がノッセル回廊会戦において、敵後方基地をわずか100名で壊滅させた選抜部隊です」
「なんと……100名で、か……」
「現在はその能力をさらに高め、『特別強襲大隊』として増強しております。すでに実戦投入も可能な水準です」
「見事だ……ヴィルヘルム……」
フリードリヒ2世は、待ち焦がれていたかのようにその光景を目に焼き付けていた。同時に、軍事パレードに心躍らせる子供のような、上ずった声を漏らしてしまうほどである。
ヴィルヘルムは分かっていた。軍事に異常な執着と憧憬を抱く父であれば、この光景に興奮しないはずがない。だからこそ無理を承知で巡閲式へ連れ出したのだ。結果は上々だった。フリードリヒ2世の目に映っているのは、理想とする軍の姿と、それへの陶酔だけである。――ヴィルヘルムは、この瞬間を待っていた。
「中央軍の軍制改革は完了いたしました。しかし、各方面軍は……」
「……どうしたというのだ?」
言葉を濁すヴィルヘルムに対し、フリードリヒ2世は、まるで玩具を取り上げられそうな幼児のような不安げな眼差しを向けた。理想の光景に陰りが差したことを、直感的に悟ったのだろう。
「中央軍は王家直轄ということもあり、改革は円滑に進みました。しかし、各方面軍や省庁は貴族の介入もあり、遅々として進んでおりません」
「なんと……」
「陛下が戦争でご苦労なされた原因が、今なら分かる気がいたします。それは――“堕落した貴族の存在”です」
事実は異なる。改革が完了しているのは確かに中央軍のみだが、レオンハルトを味方に引き入れ、ブレンデルに首輪をつけたことで、南部方面軍や東部方面軍にもすでに改革の手は伸びており、致命的な障害は存在しない。さらに言えば、先の戦争の失敗は、フリードリヒ2世自身の無能さによるところが大きい。
だが彼にとっては、原因を“誰かのせい”にしてしまった方が、はるかに楽だった。
ヴィルヘルムは、その生贄として“堕落貴族”という曖昧な概念を選んだ。何をもって堕落とするかは、あえて語らない。
「ああ……そうなのか……いや……そうなのだな……」
耄碌しきったフリードリヒ2世は、見事にヴィルヘルムの術中へと落ちていった。
「ですから、父上。どうか、父上を煩わせる者たちへの裁きを、私にお任せください」
「裁き……」
「はい。父上の御心を妨げ、王国を腐らせる悪しき貴族を取り除くお許しを」
ヴィルヘルムは、かつて忌み嫌っていた卑劣な手段すら、今や躊躇なく使えるようになっていた。「父上」と呼べば、この男は応じる。それも自分のために差し出された申し出となれば、なおさらだ。
――その確信が現実となる、まさに直前。
「陛下、ヴィルヘルム殿下はすでに中央軍司令官と軍務大臣を兼任されております。これ以上のお役目は、さすがにご負担が過ぎましょう」
口を挟んだのは、フリードリヒ2世の背後に控えるヨアヒム・フォン・クロイツェル侯爵だった。老獪さを思わせる風貌の壮年男性で、年齢は国王より上のはずだが、背筋は正しく、鋭く細められた眼差しが老練さを漂わせている。
フリードリヒ2世の治世において、クロイツェルは王国宰相の地位に就き、非才な王に代わって実質的に王国の政治を動かしてきた人物である。王の威光を笠に国政を司る根っからの政治家でありながら、その手腕は侮り難い。先王ヨーゼフ1世を退け、フリードリヒ2世を擁立して王位に就かせた政治工作を成し遂げたという噂すらある、抜け目のない男だった。
そのクロイツェルが、現在もっとも警戒している存在――それがヴィルヘルムである。
彼はヴィルヘルムが何を欲し、何を引き出そうとしているのかを瞬時に読み取り、あえてそこへ待ったをかけたのだ。
やはり侮れない男だ、とヴィルヘルムは思う。現在のローゼンベルクにおいて、数少ない有能な政治家の一人として、クロイツェルを改めて認識した。
「クロイツェル宰相のお気遣い、ありがたく存じます。しかし、私は王族として、ぜひ陛下のお役に立ちたいのです」
「ヴィルヘルム殿下は、すでに陛下と王国に多大なる貢献をなさっております」
それ以上を欲するべきではない――クロイツェルは暗にそう伝えていた。王位継承問題が激しさを増す中、彼ほど立ち位置の読めない人物はいない。それがヴィルヘルムにとって最大の不確定要素だった。
「そのお役目は、宰相の地位にある私と、内務大臣に就いておられるルートヴィヒ殿下のご領分でしょう」
ルートヴィヒの名を出したことから察するに、クロイツェルは完全にヴィルヘルムの側というわけでもなさそうだ。
なかなか骨のあるご老体だ――そう内心で評価した瞬間だった。政略の空気など読み取れないフリードリヒ2世が、思わぬ爆弾を投下する。
「では……ヴィルヘルムを……摂政としよう」
「陛下?」
不意を突かれ、クロイツェルは思わず聞き返してしまった。
「摂政とは、また大胆なご提案でございますな。王太子すらお定めになっていないというのに」
必死に制止しようとするクロイツェルをよそに、フリードリヒ2世は独白のように言葉を続けた。
「迷っておるのだ……ルートヴィヒか……ヴィルヘルムか……」
その吐露に、クロイツェルも口を噤んだ。その様子を見て、ヴィルヘルムはわずかな違和感を覚えたが、この時はまだ言語化できなかった。
「だが……軍を強くするのは……ヴィルヘルムにしか……できぬだろう」
老王は、宰相に手を伸ばし、縋るように頼み込んだ。
「頼む……ヨアヒム……ヴィルヘルムを……支えてやってくれ……」
「陛下、お体に障ります。王宮へお戻りになりましょう」
クロイツェルはそう言うと、自らフリードリヒの車椅子を押し、壇上を去ろうとした。
「グスタフ、陛下を王宮まで護衛せよ。宰相閣下は、まだ巡閲式に参加されねばならぬ」
ヴィルヘルムは脇に控えていた護衛のグスタフを呼び、車椅子の押し手を交代させた。クロイツェルは一瞬だけ抵抗の色を見せたが、それも一秒に満たない。近衛兵にフリードリヒ2世を託すと、再び壇上へと戻った。国王が馬車に乗り込むまで、その視線は離れなかった。
「……意外でしたな。貴殿が、そこまで父上を慕っておられたとは」
「私の忠誠は、国王陛下に捧げられております。世間で何と言われようと、そこに曇りはございません」
「真の忠臣ですな」
「いいえ。ただの狗でございます」
二人は行進する軍隊に視線を固定したまま、顔を向け合うことなく言葉を交わす。
「意外だったのは殿下も同じでございます。幼少の頃より存じておりますが、ここ最近は特に」
クロイツェルは言葉を続けなかったが、その意図はヴィルヘルムにも理解できた。
「夢ができたのだ」
「夢……でございますか」
「ああ。彼に会って、そう思った」
「目にかけておられる方がいらっしゃるのですね」
「その者は、私の夢を笑わなかった。私自身、滑稽だと思っていたというのに」
「それは、良き忠臣であられますな」
「貴殿のようにか?」
「ご冗談を」
クロイツェルの声音には、茶目っ気も軽さも一切なかった。ただ平坦な調子で言葉を連ねるのみである。その感情の読めなさに、ヴィルヘルムは政治の場において、自分以上の手練れに出会ったことを悟った。
「険しい道となりましょう」
「そうかもしれぬ。だが、私には狼がついている」
「……狼、ですか」
「そうだ。私を導く、心強い友だ」
クロイツェルは、その正体を特定できなかった。しかし、目の前を進むヴィルヘルムの軍勢こそがそれだと言われても、容易に信じただろう。黒と赤の軍服に身を包んだ彼らは、血に飢えた狼の群れを思わせる、武骨で雄々しい佇まいと、野心に燃える眼光を放っていた。
「それでは殿下。どうかお体だけはご自愛ください」
クロイツェルは、中央軍の巡閲式が終わると同時に王宮へ引き返した。
翌日、国王フリードリヒ2世と王国宰相クロイツェルの連名により、ヴィルヘルムを“摂政”の地位に任命する旨が告示された。




