第1章:運命を裂く第二王子⑤
ローゼンベルク王国には、貴族の最高位である公爵家が二つしか存在しない。国家規模に比してその数が少ないのは、かつてこの国が公爵を君主とする公国であったこと、そしてカール1世が国号を『ローゼンベルク王国』へと昇格させてから、まだ1世紀も経っていないためである。
一つは、武勇によって一代でその地位を勝ち取ったレオンハルト・フォン・ブラントを当主とする『ブラント公爵家』。もう一つが、『アルテンブルク公爵家』である。
アルテンブルク公爵家の当主、アルブレヒト・フォン・アルテンブルク少将は、ローゼンベルク軍中央軍の副司令官を務めている。司令官不在時には実質的に中央軍を統括する有能な人物であり、その手腕は軍内外で高く評価されていた。
加えて彼は、王家への忠誠心が際立って強かった。副司令官という立場にありながら、司令官の座を窺ったことは一度もなく、ヴィルヘルム軍団創設に伴う人員補充の要請にも、何の条件も付けず即座に応じている。常に低姿勢を崩さず、権威を誇示することもなかった。
しかしヴィルヘルムは、彼の存在を以前から気にかけていた。
誠実で堅実、命令には忠実で、公爵家の威を振りかざすこともない。その点に疑いはない。だが、自身を顧みない危うさ、人を遠ざける距離感、そして過剰とも言える自己否定――それだけは、どうしても看過できなかった。
「閣下、いかがなさいましたか」
正面に座る丸眼鏡の男は、背筋を正し、神経質そうにヴィルヘルムを見つめていた。その瞳には、どこか生気が欠けている。レンズ越しの錯覚ではないだろう。
「アルテンブルク少将。以前から、貴卿とは一度話をせねばならぬと思っていた」
「小官に至らぬ点がございましたでしょうか。それは誠に――」
「それだ。なぜ、そこまで自分を卑下する」
抑えた声の奥に、怒気が滲んだ。
副司令官はそれを察したのか、さらに姿勢を正して頭を下げる。
「卑下などと……そのようなつもりは。小官は浅学非才の身。司令官閣下のお役に立てぬことがあれば、それこそ――」
「若き日の貴卿は、そんな男ではなかったはずだ」
ヴィルヘルムは机上の調査書へと視線を落とす。何度も読み返された書類には、折り目と擦れが残っていた。
「士官学校での成績は極めて優秀。名誉ある候補生騎兵隊長を務め、中央軍でも将校としての働きは高評価。しかし……」
一枚、頁を繰る。
「グラウエンシュタイン継承戦争への従軍以降、人柄が変わったとある。この時期を境に内向的となり、婚約者とも破局。以降、他者との関係を避け、自己嫌悪に陥った、と」
男は眼鏡を押し上げ、虚ろな視線を向けた。
「よくお調べになりましたね。たかが小官のために、そのようなお時間を――」
「血筋だな」
男の身体が、わずかに強張る。
「時期から察するに、父上が継承戦争で失態を演じた後、誰かが囁いたのだろう。――王位を継ぐ気はないのか、と」
眼鏡が光を反射し、表情は読み取れない。だが額に滲む汗が、沈黙の肯定であった。
実のところ、アルテンブルク公爵家には王家の血が混じっている。アルブレヒト自身、フリードリヒ2世の従兄弟にあたる血縁関係にあった。その高貴な出自は、地位を保証する一方で、決して語られぬ影をも伴っていた。
ブラント公爵家の爵位が武功に基づく栄光であったのに対し、アルテンブルク公爵家の歴史は、光よりも影に支配されている。その理由を知るには、暗い宮廷史を紐解かねばならない。
その始まりは、ローゼンベルクを正統ルガルディア帝国内唯一の王国に昇格させたカール1世に遡る。強烈な野心と大胆な行動力を備えた暴君。彼の手腕は否定しがたいほどに偉大だったが、人格は決して伴わなかった。
王国昇格に際して、カール1世は常備軍を増強し、新たな軍制改革を推し進めた。その一環として王族警護の任務にあたる近衛軍に『乙女近衛隊』という部隊が創設された。由緒ある貴族の令嬢たちで構成されたこの部隊は、表向きは国王の身辺警護が任務だった。しかし、その実態は、王の欲望を満たすために集められた“生ける供物”に過ぎなかった。
アルテンブルク伯爵令嬢ヘレーネ・フォン・アルテンブルクも、その一人であった。当時の彼女は14歳であったと記録されている。父の野心に差し出され、国王の欲望に囚われ、宮廷の沈黙に見捨てられた少女である。歴史書には「王の寵愛を受けた」と簡潔に記されるだけだが、その言葉の裏にあった夜毎の強要や拒絶権がなかった事実は記されていない。
カール1世はヘレーネを含む数名の乙女近衛兵との間に子をもうけた。特にヘレーネに対する執着は異常なほど深く、彼女との間に生涯で3人の子を生ませた。彼女らの子供たちの多くは王室内でほとんど顧みられず、影に埋もれた存在であった。しかし、ヘレーネの第一子フランツだけは、他とは異なる運命を背負って生を受けた。
カール1世はグラウエンシュタイン大公家の公女ヨハンナと政略結婚し、その正統な嫡子として後の国王ヨーゼフ1世を得た。フランツはそのヨーゼフ1世の異母“兄”にあたる存在であった。宮廷は正統後継者をヨーゼフ1世に定めたものの、フランツの存在は王室に小さくない混乱をもたらした。
ヨーゼフ1世は、父の不名誉を償うために異母兄弟たちに貴族位を授け、フランツの生家アルテンブルク伯爵家を公爵家に列することで、問題への補償と沈黙の対価とした。ヨーゼフ1世の失政として知られる“売官制”も、もとはこの問題への対処から生まれた副産物に過ぎなかった。彼の治世が“停滞”と評されるのは、この後始末に多くの時間を費やしたためである。しかし父の偉業があまりに大きかったがゆえ、責任はすべて彼に押し付けられた。
――その暗い歴史の末裔が、アルブレヒトであった。
「王家の血が流れていることは知っていた。だが、その裏にある歴史までは知らなかった。誰かに教えられたか、自ら調べたか……いずれにせよ、知ってしまったのだ。だから――」
「すべて憶測です、閣下」
低い声が遮る。その沈黙には、これ以上踏み込むなという意思があった。
「ならば憶測のままでよい。私は、私の信念に従って行動する」
ヴィルヘルムは深く頭を下げた。それは貴族の礼ではない。明確な“謝罪”であった。
「おやめください、閣下!」
「止めぬ。王族として、これだけは譲れぬ」
頑なに頭を上げぬヴィルヘルムに、アルブレヒトはついに声を落とす。
「……閣下に罪はございません」
「ならば、貴卿にも何ら罪はない。恥じることもない。血筋も、家柄も、歴史も――それが何だというのだ。それらは、貴卿という人間の価値を傷つけるものではないのだぞ」
その言葉に、アルブレヒトは膝をつき、床に項垂れた。
「父は……何も教えてくれませんでした……」
「そうか。父君にも、重い選択であったのだろう」
「私は……誇らしかったのです。この血が高貴であることが……自分もその一員であることが……」
言葉が詰まり、やがて涙が零れ落ちた。
「それが……影の歴史の産物だと知った時、祖母への怒りが湧いた。誇りを踏みにじった存在が許せなかった……しかし……」
嗚咽が混じり、言葉は崩れ落ちる。
「祖母も……犠牲者だったはずなのに……その人に罪を押し付けようとする自分が……憎くて……」
彼はその暗い歴史を、心の奥に澱のように抱え込む、非常に繊細な性格の持ち主であった。
自身には何ら罪はない。だが彼は自らを“忌まわしき血の子”と見なし、その血脈を断ち切るかのように、公爵でありながら独身を貫き、子を成すことすら拒んだ。まるで世を捨てたかのような生き方であった。
「もうよい、アルブレヒト」
ヴィルヘルムは、初めて彼を名で呼んだ。彼にとっては家名よりも名前の方が適切であったからである。
「それ以上、苦しむ必要はない」
アルブレヒトは、これまで誰にも打ち明けられなかった秘密と苦しみをすべて打ち明けることができた。自身の半分ほどの年齢の青年に、みっともなくも涙を流してすがってしまったのである。
しかし、ヴィルヘルムはそれを惨めだとは思わなかった。悲しみに年齢は関係ない。歳を取って涙が出なくなるのは、これまで散々泣き尽くしたからである。ならば、長い間感情を押し殺してきたアルブレヒトには、その分だけ泣く権利があった。
「聞け。もし私が王になったなら――」
それは限られた者にしか語られぬ決意だった。
「……真でございますか」
「ああ。この国の歴史を、私が清算しよう」
それは、彼を縛る因果の鎖を断つ剣であると同時に、誇りの根源をも奪いかねない、諸刃の剣でもあった。
この一幕は、ヴィルヘルムにとって数ある政治工作の中で特別なものではない。
だが、覇道の先に救われる者がいるのなら――
あるいは、その一人こそがアルブレヒトなのかもしれない。
そう思えたことが、ヴィルヘルムの意志をさらに強くした。
その意味で、この出来事は、確かに重要であった。




